01
わたしにかけられた呪いは、獣化の呪いと呼ばれるものだ。旅のはじめ頃、魔術師がこの呪いで可愛らしいポメラニアンに変えられ、神殿巫女に解呪してもらっていた。
呪いというのは、往々にして相手の力を削ぐものだと先述の通り。魔術師は獣化くらいなら自身で解呪できるそうだが、ただのポメラニアンには呪文も唱えられないし、そもそも魔力が消え失せていたらしい。魔獣でないポメラニアンに魔力がないのは当然のこと。
しかし、と首を捻る。わたしの中には魔力がある。それも、人間のときよりもはっきり存在が感じられる。フェネックギツネにも当然魔力はないはずなので、これでは魔獣化したことになる。
魔獣は強いいきものだ。魔法を使うし、身体も丈夫。
呪いの趣旨とは異なっている。
(ということは、呪いが変質したんだ)
人が行うことだから、呪いだって失敗することがある。今回は呪われるとほとんど同時に召喚されたのだ、魔術の影響を受けて正しくかからなかった可能性は充分にある。そうなると、少しばかり問題が生じる。
呪いが適切であれば解呪も容易、適切でなければ解呪はほとんど不可能になるのだ。つまり、わたしはもう人間には戻れないのだろう。
ちなみに呪いと魔術の違いには詳しくないが、魔術師曰くシチューとトマトソースくらい違うらしい。さらに魔法というのもあって、これはコンソメスープだそうだ。さっぱり意味は分からない。魔力はあっても魔術のひとつも知らないわたしは、便利なのを魔術、面倒なのを呪い、不思議なのを魔法と分けていた。そんなもんである。
ただひとつ知っている呪いと魔術の違いは、その効果の消し方だった。
たとえば、同じように「獣になる」魔術をかけられたとする。そこからヒトに戻そうとするなら、同じ程度の精度をもって「ヒトになる」魔術をかければよい。火を熾す魔術と消す魔術、空を飛ぶ魔術と降りる魔術、逆の作用で打ち消しあう。
しかし「獣になる」呪いに「ヒトになる」魔術は効果がない。うまくいってヒトに似た獣になるくらい。地に足がつかない呪いに地面に降りる魔術をかけても無駄だし、眠りにつく呪いに起きる魔術をかけたって目は醒まさない。
呪いは、反作用で消えることはないのだ。
ちなみに獣化に人化の呪いが重ねがけされると、ヒトになったりケモノになったりするらしい。どちらも効果を失わず、最悪の場合死に至るとか。おそろしい話である。
さてつまり、魔術ならどんな状況であってもなんとか元に戻ることができるが、呪いには解呪しかない。そして変質した呪いは解呪の方法が誰にもわからない。ある人は、変質した呪いを解くために最終的に酸の海に棲む魔獣くじらの胃の中に刺さった棘で釣り上げた湖の主の娘の縁談を取りまとめたら解呪されたそうだ。三十五年もの時間を費やしたという。
そこまでして人間に戻りたいだろうか、自問する。答えは「そうでもない」とあっさり返ってきて、これから魔獣として生きていくことを決めた。妹のことは気になるけれど、人間として気になるのはそれくらいだ。妹は病人だったくせ肝が据わっていて、心根の良い恋人もいた。勇者一行に加わる前に今生の別れも済ませてある。他に未練らしい未練もない。
問題はこのあたりの環境や植生がわからないことか、と考えていると、ふわりと身体が浮き上がって意識を現実に戻す。脇の下……前脚の下? を両手で掴み、男がわたしを持ち上げていた。
魔獣の目はへんに光るし、魔術師は魔力の有無くらいわかるはずだ。ふつうの魔獣にこんな扱いをしたらすぐに暴れて惨事が起こるというのに、なんと無防備に触れるのだろう。じっと見つめ合う。
褐色の肌に黒い髪、見慣れない容貌に歳の予想はつかないけれど、30はきっと超えていない。顔つきは10代中頃、その割にエメラルドの瞳は落ち着きはらって見える。
全体は細身で筋肉が少なく、徒手を得意としない弓使いのわたしでも倒せそうな雰囲気。
と、こちらもずいぶん不躾に見たけれど、相手も矯めつ眇めつこちらを観察している。居心地悪く身じろげば、男ははっと思考を取り戻した。
「どうしてキツネなんて……召喚陣は、うん、間違ってないな」
ただのキツネではなく、フェネックギツネである。この大きな耳が目に入らぬか。ぴくぴく揺らしてアピールしてみたが、男の視線は頭上と真逆に向けられている。
仕方なく視線を追って、足元を見る。そこには先ほども確認した通りの白墨。今度はきちんと見てみるが、わたしの知るより数倍も複雑だし、知らない文字しか書いていない。
そういえば、こちらの大陸の言葉は全く知らないのに男の言葉の意味が理解できている。召喚魔術の効果なのか、それとも魔獣に言葉の壁がないだけなのか。変質した呪いの作用なんて可能性もある。首を傾げてみても検証のしようがない。そのうちに、男はわたしを肩に預けるよう持ち変えて動き出した。目の前に首がある。魔獣にこんな急所を見せびらかすなんてこの男は不用心過ぎないだろうか。数歩移動して、また両脇を掴み、男はなにか平たい石の上にわたしを乗せた。下を見ると、また魔術陣が描かれている。
そこではっとした。不用心なのはわたしである。よく知らない場所で、知らない男にされるがまま、得体のしれない魔術をかけられそうになっている!
思っていたより状況に混乱していたこととか、戦闘で疲弊していたとか、そんなことは言い訳にもならない。咄嗟に暴れて取り落とされた陣の上から逃げ出そうとするが、石の淵に半透明の壁があって閉じ込められていた。四方どの向きに走り出しても隙間はなく、痛みだけが成果になる。
「うわ、ちょっと」
男は動物が現れて驚いていた。つまり、目的の召喚物は違ったということ。陣を描いたときの魔術成功率は一般的に高いが、組み込んだ条件が甘くて違う効果をもたらすこともある。不要な魔獣が現れたらどうするか? 希望的観測なら元の場所に送り返す、普通はきっと処分してしまう。
帰れないかもしれないと思った。人間には戻れないだろうと思った。しかしわたしの大前提は生きることだ。何度も壁にぶつかり、息を切らせて男を睨む。ぐるる、と喉奥から威嚇音が響いた。
「落ち着いた、か?」
視線に一瞬うろたえたものの、男は咳払いひとつで石の端に手を触れる。鼻筋に皺をよせ、歯を剥きだす。警戒が、獣の本能を使って現れてくる。低い唸りに、男はちょっと困ったように目を背け、頬を掻いた。
「あー、伝わらない、とは、思うけど……大丈夫、危険なことはない」
恥ずかしそうに、穏やかな調子。警戒は緩まない。
「ちょっと、お前が何者か調べるだけだよ」
動物に話しかけるのが苦手な人間というのがいる。言葉の通じない、返事のない相手に話しかけていると独り言を言っているみたいで恥ずかしいのだという。そういう人間は相手が理解しているだなんて思っていないから、人間相手のときのように嘘は吐かないものだ。
だからきっとこの男の発言も嘘ではない。
ほとんど直感のようなそれを信じることにして、いったん目を閉じる。鼻からゆっくり息を吸い、細く吐き出す。軽く身震いをすれば、逆立った毛が落ち着くのを感じた。
「え、通じた? うそだろ、いや、偶然か。キツネってそんなに頭良くないよなあ。この陣だって、俺は癒しが欲しいわけでもなし、やっぱ他人の作った陣なんて使うもんじゃない。こんな条件で成功するはずもないし。でも失敗で喚び出しちゃうのはまずいな、当てはまらなかったら喚ばないよう条件足させないと」
しだいに本格的に独り言めいて、聞き洩らさないようフェネックギツネらしい大きな耳を向ける。いったいどんな条件で召喚がされたのだろう、首を傾げても教えてはもらえない。褐色の指先がトンと石板を叩き、陣に光が灯った。身体が強張る。
「よし、発動した」
声に男を見上げる。すると、半透明の壁に張り付くように半透明の青い紙が現れていた。見慣れない文字が、こちらからは反転して見える。
自国では見たことのない魔術で、彼が何をしているのかわからない。頭の中でひっくり返しても理解できない言葉たちは、何を綴っているのだろう。男は紙とペンを持ち、青に目を滑らせている。
「名前、デルフィナ……名前があるってことはどっかで飼われてたのか? 性別はメス、」
「きゅ」
驚きからつい声が出た。フェネックギツネはこう鳴くのか。じゃなくて。
そういえば、さっき「お前が何者か調べる」と言っていた。尋問しなくても素性が割れてしまうだなんて、そんなものが民家にぽんと置いてあるなんて、この国の魔術はおそろしく発展している。攻撃魔術ばかり発展していた自国とは大違いだ。感心しきりでいると、男の動きが不意に止まる。何度も同じ個所を確認して、わたしを見、また紙に戻る。なにごとか。
向けた視線が交差する。言い淀んで、紙を見て、また視線を戻してようやく口が開かれた。
「種族、……ヒト?」
呪われてフェネックギツネになっても、わたしの種族はヒトのままらしい。精度の高い魔術に敬意を込めて、「きゅーうっ」と肯定を返した。
文字数あんまり統一させる気がないです