再生の街
「にいちゃん、巧いな」
そう言った男は、演奏途中で腰を上げた。
「俺が聞いた中じゃ、一番だ」
そうしてポケットから25セント硬貨を一枚取り出し、地面に置いた祝儀入れの帽子に放った。
「……どうも」
去っていく男の背に、形ばかりの礼を述べる。
本当は、演奏途中で席を立つような奴に、礼など言いたくはないのだが。
それで、俺の周囲には誰も居なくなった。
そろそろ、今日は終わりにしようか。
ため息をついて、祝儀入れをひっくりかえす。
手の上に落ちてきたのは、1ドル札が一枚と、25セント硬貨が三枚。
一日がんばって、それだけ。
「───くそッ!」
祝儀入れの帽子を、力任せに放り投げる。それは夕空にふわりと舞い上がり、何事もなかったかのように、柔らかく地面に着地した。
商売道具のアルトサックスをしまいながら、ため息をまた一つ。
この街にきてまだたった三ヶ月だというのに、美しかったU字管にはサビが目につくようになっていた。海が近いせいだ。
───俺は、こんなところで燻っている男じゃない。
そう自分に言い聞かせるのは何度目か。
マウスピースを噛みしめすぎて切れた下唇が、痛い。
「荒れてるな、若いの」
顔を上げると、そこにはよれよれのジャケットを着て、年季の入ったトランペットケースを抱えた、髭面の老人。
「ロンじいさん……」
地面に落ちた俺の帽子を抱え上げ、ぽんぽんと叩いて俺に手渡す。
「ほらよ」
ぶっきらぼうにそれを受け取った俺に、ロンじいさんは欠けた前歯を見せながら屈託なく笑った。
「そうくさるな、そういう日もあるさ」
「……あんたにとっちゃ、そうなんだろうけどな」
こぼれた言葉は、皮肉にもならなかった。
界隈の仲間内では、彼はちょっとした有名人だ。なにせ稼ぎがいい。
彼の演奏は魔法のように人を引き寄せる。
そんなに巧くもないくせに、何故───。
自分の稼ぎを思い出して、俺は知らず眉をひそめる。
「じいさんはどうだった?」
聞くと、彼はジャケットの胸あたりをぽんと叩いて
「まぁまぁ、だな」
と言った。『一日分の稼ぎはあった』ということらしい。
気障りを感じてしまうのは、今の俺が窮し鈍しているからだろうか。
「ソーフローに居た頃の実入りとは比べ物にならんが、でも俺は、ここの生活が気に入ってるんだ。客もいいしな」
ここがいい? 客がいいって?
演奏の途中で立つ失礼な奴らが?
「……おっと、そういえば、おまえさんもソーフローを出てきたんだったな」
「───ああ」
ソーフロー。半年前に辞めた楽団。
いや……、正直に言えば、辞めたんじゃない。
「どうだい、肩肘張らずに演奏するのもいいもんだろ?」
そう言われ、俺は、
「───ああ」
心とは裏腹に、口先だけでそんなことを呟いた。
数週間が過ぎたが、相変わらず収入は細いままだった。
既に貯金は半分以下に目減りし、食費にも制限が必要になってきていた。
このままでは、遠からず野宿を強いられる羽目になりそうだ。
追い詰められて、俺は真剣に考え始めていた。
なぜ、みんな俺の演奏に足を止めない?
ソーフローでは、俺は楽団の中心だった。誰もが俺を賞賛し、演奏技術に目を見張り、傾聴しない者は居なかった。
なのに今は。
頑張れば頑張るほど、人々は顔を顰め、俺の前を足早に通り過ぎる。
「やかましい!」
そう罵られて演奏を止める破目になったことさえ、一度や二度ではない。
ショックだった。
技術が錆び付いたわけじゃない。練習だって欠かしたことはない。
いつだって、最高の演奏を届けた自信はあるのに。
肩を落として宿に帰る途中、バンジョーの音が聞こえた。
ありふれたカントリー。
……下手糞め。
あまりの拙さに、聞いていてイライラした。
そんなに単調じゃダメだ。もっとアドリブを入れて、トリルを絡めて……。
───俺には関係ないことか。
その前を通り過ぎて、しばらく。
背後で演奏が終わったとき、大きな歓声が聞こえ、俺は足を止めた。
振り返って、ギャラリーに目を凝らす。
笑顔。
俺のギャラリーではついぞ見たことがない、拍手と、賞賛の声。
次々とコインが投げ込まれているのが見える。
子汚い奏者が、うやうやしく帽子を掲げている姿が見える。
なぜだ?
なぜ、あれしきの演奏に?
───こいつらには俺の演奏が理解できないんじゃないか?
ソーフローの奴らと同じだ。
ああ、そうさ、俺の演奏が高尚過ぎたのさ。
もっと別の、別の街で。
こんな寂れた港街ではなく、もっとリッチな街で。
耳の肥えたセレブが集う、そういう街でなら。
「なぁ、別の街へ行くって本当か?」
仲間のトニーに問われた時には、心は既に固まっていた。
「ああ」
「そうか……」
トニーは心底残念そうな顔をした。
「俺はあんたの演奏、結構好きなんだけどな」
「ありがとう。でも、もう決めたんだ」
形だけの礼を述べる。
「トニーも、この街を出るんだろう?」
「ああ、オファーがあってな。来月からは、ヨークシールの正式な楽団員だ」
この街にはそういうチャンスがある。そう聞いたからこそ、俺はここに来たのだ。
うらやましくなどない。───と、思いたい。
俺には、また這い上がるための実力があるんだ。
トニーは、俺をじっと見た。
そして、しばらく考え込むように頭をめぐらせた後。
「───街を出る前に、ロンじいさんの演奏を聴いていけよ」
「は?」
意外なことを言われて、つい聞き返してしまう。
「きっと───いや絶対に、今のあんたには参考になる」
「……言っちゃなんだが、じいさんの演奏は技術的には何も───」
トニーは俺の言葉をさえぎって、
「魔法の秘密を知りたいだろ?」
いたずらっぽい瞳でそう言った。
その言葉がひっかかり、俺は小さく頷く。
確かに、あれは魔法だ。一体なぜ、客はじいさんの周囲に集うのか。
その秘密の一端でも明かされるなら───、
最後に一度くらい、恥を忍んでもいいかもしれない。
次の日の朝、なけなしの5ドル札を手に、仕事始めのロンじいさんの前に立った。
「一曲吹いてくれ」
じいさんはしげしげと俺を眺め、頭を掻いた。
「構わんが……何がお好みだい?」
「まかせる」
俺は即答した。
じいさんは、ふ、と笑った。
「───わかった」
少しだけチューニングした後、大きく深呼吸。
そして、吹き始めた曲は……、Fly High, To The Sun。
驚いた。俺の大好きな曲だからだ。
技巧的で、挑戦的。
ゆっくりとしたイントロから始まるが、途中から演奏はどんどん早く、難しくなる。
高速なトリル、1/4音を駆使したポルタメント、発音領域限界ぎりぎりの高音。
ソーフローでさえ、満足に吹ける者は一人も居なかった。
そんな難曲、じいさんごときが吹けるわけもない。なんて無謀なことを。
………。
……。
───え?
頬を真っ赤にしながらも。
じいさんは、難所を軽々とこなした。
各所にアドリブを込め、時に力強く、時に激しく狂おしく。
節くれだった指が、信じられない速度でピストンを上下し、
マウスピースに押し付けた唇が変幻自在のトーンを生み出す。
それは、生まれて初めて聞く音色。
俺が知るトランペットという楽器の枠を超え、
発音楽器としておよそ既成の概念とは別の……新しい楽器が生まれたような。
その演奏の彼方には、
高く飛び立ち、太陽を目指すイカロスの姿さえ───。
演奏が終わった。
完璧だった。
あっけに取られ、立ち尽くす俺の後ろで、
ギャラリーの喝采と、大きな嘆賞が上がった。快哉を叫ぶ者もいる。
「いやいや、キツいな! 年はとりたくないもんだ!」
じいさんは肩で息をしながら、俺に向かってウインク。
「───なんで、」
「ん?」
「なんで、その曲を?」
呆然としながら尋ねた俺に、じいさんは答えた。
「おまえさんがそう望んだから、さ」
「俺が……」
望んだ、だろうか。
いや、望んでなどいなかった。
ああ、そうか。
俺は失望したかったのだ。
この街で名のあるロンじいさんの演奏に失望し、自分の技術を再確認して。
なけなしの自尊心を、守りたかっただけなのだ。
『そんなに巧いのに、どうしていつもは……』
そう尋ねたくなったが、やめた。
既に満杯になっている祝儀箱に、手にした五ドル札を投げ込んで、足早にその場を去る。
答えは、分かっている。
もう少しこの街で頑張ってみよう、と決めた。
独善的な技術を客に押し付けるのをやめた。
客を見て、演奏を変えることを覚えた。
客が望むものを。
客が望むままに。
できるならほんの少しだけ、それを上回るように。
ただそれだけに徹した。
それが、じいさんが教えてくれたこと。
効果は目に見えて上がった。
祝儀入れの帽子は、一日を待たず一杯になるようになった。
食費を制限する必要はなくなった。
少し程度のいい宿を取ることができるようになった。
新しい磨き油を買って、楽器のサビを一掃できた。
この街で、友達ができた。
常連客もつくようになった。
傍から見れば、順風満帆だろう。
───だけど、何か。
何か、足りない。
俺が求めていたのはこんな音楽だったろうか。
誰かに媚びへつらうだけの演奏に、何の価値があるんだろう。
その疑問を、ロンじいさんにぶつけたことがある。
じいさんは笑って答えた。
「それがわかったら、卒業だな」
何から卒業なのかは、教えてくれなかった。
答えが、みつからない。
もやもやした気分が晴れないままに月日は流れ───。
「え?」
小奇麗な服を着こなした老紳士のリクエストを、俺はつい聞き返してしまった。
「My Lady です。ご存知ありませんか?」
もちろん知っている。しかし……。
「それはフルバンドの曲なんです。だけど俺は今、ソロなんで……」
「存じています。しかし、ソロで構いません」
そういって、紳士は微笑んだ。
「ひとつ、老いぼれの戯言と思って、吹いて頂けませんか?」
そう言われて、俺は頭を掻く。
相手のために、演奏する。
今はそれが矜持だった。
しかし、中途半端な演奏を、相手は望んでいるのか。
そんな状態で、応じていいものか───。
「是非、お願いします」
老紳士に重ねて言われ、覚悟を決めた。
出来る限り、やろう。
満足してもらえなければ、それは俺が未熟だからだ。
この紳士は「俺に」依頼している。俺には、演奏する義務がある。
マウスピースを銜え、深く深呼吸。
そして、演奏を始める。
最初は穏やかに静かに、アルトサックスのソロから曲は始まる。
少女がゆっくりと大人になっていくように。
それを慈しみ育てる親の気持ちで。
少女の成長とともに曲調は段々と華やいていき、
もうすぐ、別のリードパートがスタートする。アルトサックスは伴奏に回るのだ。
老紳士は目を閉じて静かに演奏に耳を傾けている。
どうする?
このまま伴奏に落ちるか? それともリードパートに切り替えて演奏するか?
どちらがこの紳士の望む形か?
考えても答えが出てこない。
やがて分岐点。
演奏を止めようか、そう思ったとき。
パーッパッパパー!
心地よく華やかに鳴り響くトランペットの音。
慌てて伴奏パートに落ちつつ、音のした方を見る。
人垣の間から姿を表したその奏者は……
───ロンじいさん?
じいさんは、演奏を続けながら、何食わぬ顔で俺の横に立った。
そして、ウインク。
周囲からまばらな拍手が起こる。思いがけず発展した演奏に、ギャラリーが引き寄せられつつあるのが分かる。
ソロで始まった演奏は、期せずしてトランペットとの合奏となった。
二人並んで、演奏を続ける。
即興を交えて掛け合いが、しばらく続いた。
老紳士は未だ目を閉じ、傾聴している。
だが、しかし。
この曲はフルバンドの曲。
たった二人じゃ全く足りない。
あと八小節先からは、チューバがベースを奏で始めるのに。
チューバが……ベースを……。
俺は目を見張った。
ギャラリーの向こうに、チューバのベルが揺れるのが見えたのだ。
果たして八小節後、その巨大な楽器を抱え、トニーがゆっくりと俺たちの輪に加わった。
曲には更に厚みが増し、再びギャラリーが沸く。
演奏が進むたびに、仲間が増えていく。
知った顔もあれば、見たことのない顔もある。
ビルの間に間に響く音を聞きつけてやってきたのだろう。
トロンボーンが、クラリネットが、ギターが、チェロが。
どこから持ってきたのか、最後にはティンパニまで。
演奏を続ける俺の周囲には、いつのまにかストリートミュージシャンの一大楽団が出来上がっていた。
各々が、各々の得意楽器で、各々の主張で、しかし各々を生かしつつ、有機的に一つの曲を演奏していく。
その音量に比例して、周囲のギャラリーはどんどん増えていった。
口笛や手拍子も聞こえている。
みんな、笑顔だった。
ははッ!
息継ぎの刹那、つい俺も笑ってしまった。笑わずにはいられなかった。
なんて。
なんて、楽しい。
音楽は、いつも、楽しい。
みんなで合わせれば、もっと、楽しい。
忘れていた。
ソーフローに居た時は、そんな余裕は無かった。自分をアピールし、認められ、上へ駆け上がるために、体と心を削って演奏していたのだ。
今は、違う。
みんなが、支えてくれる。
みんなを、支えている。
そうして一つの曲を作り、
それを、みんなで楽しむ。
曲は遂にクライマックス。
一人の少女がレディとして社交界に花開く、その華やかで艶やかな場面を、
集まったメンバー全員で、美しく奏で上げる。
それぞれの解釈、それぞれの技を結集して、
しかし決して独善的にならぬよう、各々が協力しあい、
各パートに細かくメロディラインを受け渡しながら、
最後のカデンツへ。
演奏が終わり、
向こうが見えない程のギャラリーに囲まれ、
拍手と賞賛とでもみくちゃにされながら、
俺たちは、顔を見合わせて笑った。
この街にきて、よかった。
今、心からそう思う。