平穏の代価
神殿から学園へと帰る途中、鏡花に置いていかれないように必死についていった隼人たち三人が何とか鏡花に置き去りにされずに学園までたどり着いた頃には、すっかり夜も遅く……というよりそろそろ空が白みはじめそうな気配をみせていた。
そんなこんなで時間も時間なのに加え、一日魔力を使いまくったあげく、神殿から学園まで鏡花の後を追いかけて走り続けた三人は、それぞれがすでに疲労困憊状態になっていたので、各人ともに寮に戻ってくるとさっさと自室へと帰っていったのだった。
◆
翌日というよりも数時間後、眠った時間が遅かったせいか、はたまた大分疲労が溜まっていたせいか、隼人が目を覚ました頃にはすっかり日が昇りきっていた。……というか既に傾きはじめていた。
隼人はぼーっとしたまま窓の外に目をやると、今朝の智輝と伊織との別れ際の会話を思い出していた。
「………ああ、そう言えば今日は休みにしたんだっけ」
こんな時間ではどちらにせよ今日は休むことになっていただろうが、計画的な休みなら二人に迷惑をかけないで済むという点で、二つは大分異なっていた。
そんな今朝の会話を思い出した隼人は、そのままのそのそとベッドから降りると、眠たそうにしながらも洗面所まで移動を開始した。
洗面所に到着すると、隼人は毎朝の習慣通りに身体が半ば自動的に動き、歯を磨いて洗顔を済ませていった。
そのおかげで、部屋に戻る頃にはすっかり目が覚めていた。だからだろうか、思い出したくないことをすんなりと思い出せてしまったのも。
「………………」
ベッド脇に設置してある小さな棚の上、隼人が部屋に居る間はすっかり定位置となっているその場所に、夜空を思わせるような綺麗な鞘に収まった短剣が、今も大事そうに置かれていた。
部屋に戻ると無意識にそれが視界に入った隼人は、自然とベッド脇の棚の前まで足が動き、その美しい鞘に収まったままの短剣に、左手の指先で何かを恐れているかのようにそっと触れた。
「…………全てが終わった今でも、未だに信じられませんよ……」
隼人はここには居ない誰かに語りかけるような、どこか遠い声を出すと、短剣に視線を落としたままじっとそれを見詰めていた。
「………………」
暫く短剣を見詰めた後に、隼人はそのまま短剣を掴むと、目の高さまでそれを持ち上げる。
そうして再度じっと短剣を見詰めていた隼人は喉を鳴らすと、慎重な手つきで柄に手を掛ける。
そして、一度心を落ち着かせるために深呼吸をすると、柄を掴む手に力を込めて鞘から短剣の刀身を抜き払った。
「……………やっぱり、もうここには存在しないんだな……」
短剣の刀身も相変わらず鞘に負けず劣らず美しかったが、今の隼人にはその輝きもどこか鈍っているように感じられた。
そう感じる原因など一つしか思い当たらない隼人は、そこで固く口を閉ざすと、おもむろに短剣に魔力を注ぎ込む。
「……………」
魔力の光を帯びた短剣は幻想的な輝きに包まれるが、その輝きもやはり以前よりも鈍いものであるように感じられた。
それでも、魔力を注いだ感じや、軽く短剣を振るった感触では、機能自体が消滅した、というようなことはないようではあったが、とはいえ、やはりこれも性能は劣化しているように隼人には感じられたのだった。
隼人は残念そうに、それでいながら寂しそうに鼻から息を吐き出すと、丁寧に刀身を鞘に戻した。
「不甲斐なくも僕には小夜さんと出会った頃の記憶はほとんど無いけれど、それでも……、一瞬と言っても過言ではないほどに僅かな時間だったけれど、出会い、いくつもの言葉を交わした相手との別れというものはやはり堪えるものがありますね……」
隼人は短剣に向かって今にも泣き出しそうなほどに悲しげな微笑みを向けると、それを元の位置に慎重な手つきで戻した。
「………さて、食堂に行ってみようかな、この時間も開いてたよな?」
隼人は僅かな時間目を瞑ると、そのまま半回転して短剣に背を向ける。
そして軽く伸びをしながら時計を確認すると、態とらしくそう明るい声を発したのだった。
◆
「ちょっと待ってよー!」
『亡者の迷路』内に智輝の声が響き渡る。
「そんなに叫ばなくても置いていったりはしないって!」
そんな智輝の様子に、伊織は足を止めると振り返り、呆れたようにそう返した。
現在隼人たち三人は、はじまりのダンジョンから数えて六番目となるダンジョン『亡者の迷路』の攻略の最中であった。
隼人が調べたところによると、攻略難易度は前回の『鮮血の聖堂』と同程度らしいが、聖なる魔法を習得したからか、もしくは規格外の存在である魔神と対峙したからか、それとも一時的とはいえ魔神を完全に封じた影響か、三人はこのダンジョンに物足りなさを感じていた。
そのせいか、さっさ終わらせようとして、入り口からずっとサクサクと進む隼人の速さに、後ろの二人は少し遅れ気味であった。特に智輝は既に顔に疲労が浮かんでいた。
そんな智輝の少し情けないような声に、隼人も足を止めると上半身を捻って後ろを確認する。
そして現状を、自分の進む速さが思っていたよりも速かったことに気づかされた隼人は、申し訳なさそうに「ごめん」と謝ると、二人の方へと歩み寄り、離れていた距離を縮める。
「大丈夫?ごめんね、ついつい速く進みすぎてたよ」
隼人は二人にもう一度謝ると、ざっと二人の疲労具合を確認した。
「いや、大丈夫、だよ、ちょっと、疲れただけ、だから!」
そんな隼人に智輝は笑顔でそう言うが、その笑顔が無理しているのはバレバレであった。それ以前に、息切れしながらそんなことを言われても、説得力は全くと言っていいほどに存在していなかった。
「この辺りにはモンスターも見当たらないし、一度ここで休憩にしようか!」
「そうだね、それがいいかも。わたしもちょうど疲れてきたところだし」
隼人の提案に、すぐさま伊織が同意の声を上げた。
「……そうだね、じゃあここら辺で一度休憩にしようか」
そんな二人に、智輝は渋々という感じで頷きを返したのだった。
◆
「そういえばさ―――」
休憩中、伊織は思い出したように隼人に語りかけた。
「ん?」
「最近どうかしたの?少し体調が悪いとか?」
「いや、そんなことはないけど……なんで?」
「そう?ならいいんだけど、近頃どこかおかしいというかなんというか……最近の隼人君の戦闘の仕方もちょっと変わったみたいだしさ」
「あー……なるほど」
伊織のその指摘に、隼人は困ったように首に手を置いた。
別に隠すようなことではなかったが、隼人は伊織にどう説明したものかと頭を使う。
そんな隼人の様子に、伊織はなにを思ったのか、
「無理に話さなくてもいいよ、体調不良とかじゃないなら安心したし」
その伊織の仲間を気遣う優しい声音に、隼人は慌てて言葉を返す。
「いやいや、違うよ!そんなんじゃないんだけど、どこからどう説明したらいいか悩んでただけでさ!」
突然のそんな隼人の様子に、伊織は驚いたように目を丸くした。
「……そうなの?」
「うん。……えっとね、魔神を抑えていた結界が破れた時にさ、突然女性が現れて助けてくれたのを覚えている?」
「それはもちろん。だって彼女のおかげで魔神の封印まで出来たんだし……それも彼女と一緒に、忘れられるはずがないよ……」
伊織の沈んだような、どこか悔しそうな声に、その気持ちが分かる隼人は、少しの間言葉を失った。
「……………」
「……………」
二人の間に少し重苦しい空気が漂う。
「と、とにかく!」
そんな空気を払拭しようと、隼人はパチンと一度手を叩いた。
「信じられないかも知れないけど、その女性はね、この短剣に宿っていたんだよ!」
そう言って、隼人は横に置いていた短剣を持ち上げて伊織の方へと向ける。
「その短剣に?それだけでもスゴいんだけど……、何であの時その彼女が短剣から出てこられたの?」
どこか半信半疑という感じの伊織だったが、隼人はそれもしょうがないだろうと考えて話を先に進める。
「それは僕にも分からないけど、とにかくこの短剣にはあの女性が宿っていたんだ。それでね、女性の名前は小夜さんって言うんだけど、さっき伊織さんが話した通り、小夜さんは魔神とともに封印された。つまりはこの短剣にはもう小夜さんは居ないってことなんだけど……」
そこで隼人は少し情けないようなため息を吐いた。
「実はこの短剣の性能を十全に発揮するには小夜さんの力が必要不可欠なんだ。だけど彼女は魔神と一緒に封印されちゃったから……」
「力が上手く発揮出来ないと?」
「うん、まぁ、そういうことなんだ……だから最近戦い方を変えないといけなくてね、それで悩んでたこともあっておかしく感じたんだと思うよ」
「そうだったんだ……。それにしても、相変わらずスゴい短剣だね」
伊織は驚きの眼で短剣を眺めると、感心するような、それでいて諦めにも似たような声を出した。
「本当にね、スゴい技術だよ……」
隼人は畏敬の念の隠った視線で短剣をじっと見詰めていると、ふいに昔の出来事が頭を過ったのだった。
◆
「こんにちは、お久しぶりね♪」
にこやかに笑いかける小夜に、まだ幼い隼人はどこか拗ねたように顔を逸らした。
「そうだね、本当に久しぶりだね!」
不貞腐れたようなトゲのある隼人の物言いだったが、しかし小夜は楽しそうな顔でそんな隼人の様子を見守っていた。
そんな小夜の様子に、隼人の態度も長続きはせず、諦めたように嘆息した。
「それで?突然どうしたの?」
「用事がないと会いに来ては駄目ですか?」
隼人の問い掛けに、小夜は可愛らしく小首を傾げた。
「……………」
そんな小夜を、隼人はムッとしたような表情でじっと見詰める。
「あはは……ごめんなさい。でも隼人君に会いに来たのは本当よ。それに本当にたいした用事ではないのだけれど、これを渡しておこうと思いましてね」
そう言って小夜は一枚の封筒を隼人に差し出した。
「これは?」
小夜から封筒を受け取った隼人は、封筒の表裏を引っくり返して調べるようにしながら、不思議そうに小夜に声を掛けた。
「手紙ですよ?」
「それは分かってるよ!」
「私からあなたへの手紙です。今はまだ読めませんけれど、いつかその時が来た時の保険です」
「その時?どういう?」
隼人は手紙の封を開けようと試みるが、小夜が言う通り、全く開く気配が感じられなかった。
「分かる日が来ないことを願います。……それはある意味招待状ですからね」
小夜は一瞬寂しげに微笑むと、空気を変えるように殊更大きな音が鳴るように手を叩いた。
「さて、せっかくですから何かして遊びましょうか?」
「は?」
先ほどまでの湿っぽい陰気な雰囲気などなかったかのように小夜は満面の笑みを浮かべる。
隼人はそんな小夜の急激な変化に戸惑いを浮かべるも、そんなことなどおかまいなしとばかりに小夜は隼人の手を取った。
「さ、行きましょうか!」
小夜は隼人の手を強引に引くと、そのまま歩き出したのだった。
◆
「懐かしいな……」
ぽつりと、急にそんなことを呟いた隼人に、伊織は「ん?」と、不思議そうな顔で首を傾げた。
それに隼人は「なんでもない」と、首を横に振ると、立ち上がって短剣を腰に差した。
(結局、あの手紙はなんだったんだろうか?)
思い出したはいいが、未だに謎に包まれたままの記憶に、隼人は心の中で首を傾げた。
それでも、当時の隼人にとって姉であり、もしかしたらある意味母親の姿を重ねて見ていた小夜との思い出を少しだけではあるが思い出した隼人は、心の中にじわりとした温かさが広がるのを感じていた。
「さて、それじゃあそろそろ休憩を終えようか!」
智輝の顔色が大分良くなってきたのを確認した隼人は、二人にそう声を掛けて休憩を終わらせる。
「そうだね、もうひと踏ん張り頑張ろうか!」
隼人のその声で伊織は立ち上がると、智輝に笑顔を向ける。
「うん!今日中にもうちょっと奥まで行きたいしね!それに……こうも骸骨だらけじゃ気味が悪くてあんまり休んでる気になれないしね」
智輝は伊織の言葉に元気よく頷くも、辺りに視線を巡らしてからうんざりしたようにそう付け加えた。
智輝の視線の先には何体もの骸骨が散乱していて、更にその通路の両脇には棺桶が置かれ、蓋が開いて中が見えているものを確認した限りでは、中には全て骸骨が横たわっていた。
「そりゃまぁ、まんま亡者の迷宮って呼ばれてる訳だからね」
伊織は骸骨を眺めながら、智輝の言葉に肩をすくめた。
「それじゃ探索を再開するけど、準備はいい?」
隼人は確認のために智輝と伊織に視線を向けた。
それに二人が頷いて準備が出来ていることを伝えると、三人は亡者の迷宮の探索を再開したのだった。
◆
空の主役が太陽から月へと変わった頃、羽山恵は寮の自室で一人窓から夜空を眺めていた。
その日の夜空は雲ひとつ無く、夜空に浮かぶ数多の星々はまるで競うかのように明るく瞬き、その存在を主張していた。
そんな夜空に浮かぶ三日月を眺めていた羽山恵は、突然小さな笑みを顔に浮かべと、赤子をあやすような口調で言葉を紡ぐ。
「ふふふ、ゆっくりでいいのよ、ただ確実に育ってくれさえすれば………」
そう言うと、羽山恵は視線を夜空から自分の身体へと落とす。
そこには外見上何も変わらない羽山恵自身の身体が在ったが、しかしうねうねと何かが皮膚の下をはい回るような感覚を自覚している羽山恵は、そこで暗い、しかしどことなく慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「この子が世に出るにはまだまだ時間が掛かるけれど、それでもやっとここまで育ってくれた………あぁ、明良様!予定が少々狂ってしまったために世界を終わらせるにはまだまだ時間が掛かってしまいそうですが、しかし、必ずやあなた様の大願はこの羽山恵が叶えてみせますので、是非ともその高みからご覧になっていてください!」
陶酔した、濁った目をした羽山恵は、視線を窓の外へと戻した。
「ふふふ、世界よ、もうしばらくはこの穏やかな時間を享受していればいい、最期に良い思い出に恵まれることを祈ってますよ……」
羽山恵は遠い目をしながらも、慈愛に満ちた声音で歌うようにそう呟いた。
◆
時間が余ると、つまりは暇になるとだが、人は一体何をして時間を潰すのだろうか……。
色々ありはしたが、無事に魔神が再度封印され、現在脅威となるような不穏な動きをしている者の確認がない状況に、守護者になってはじめて時間が空いた理納は、どうすれば分からずにそんなことを考えていた。
「………ふむ、せっかくの空き時間だ、無理に仕事を作る必要もあるまい……が……」
自身の綺麗な銀髪を弄りながら、理納は困ったように顔を歪める。
「何をすればいいと言うのか………頭に浮かぶのはどれもこれも守護者としての、または世界家としての仕事のことばかり………暇を潰すというのは、こうも難しいことなのか……」
その難問に、理納が険しい顔でウンウン唸っていると、不意に昔の出来事が頭に浮かんでくる。
「………今ごろか……いや、色々片付いた今だからこそちょうどいいのかも知れないな」
理納はどこか疲れたような、もしくは諦めたような笑みを口元に浮かべると、理納はあの日の出来事を思い出す、明良の最期を知らされたあの日の出来事を……。
◆
「はぁ……」
ある晴れた日、まだ幼さの残る顔立ちをした理納は、その空に似つかわしくない物憂げなため息を溢した。
「仕事、仕事、仕事って………自分の役割は理解してるけれど、これには未だに慣れないな」
守護者の地位を受け継いで数年、今まで一度も休みなどなく、それでいて全ての行動に伴う重責に、幼い頃からそういう教育を受けてきた理納でも、さすがに精神的疲労を覚えはじめていた。
「他の守護者の人たちはどうしてるのかしら?」
本が敷き詰められた本棚が並ぶ室内をボーッとした目で眺めながら、頭の中に幾人かの顔が思い浮かぶ。
そんな中で一人、唯一自分と同年代の守護者の少年のことについて考える。
「……今ごろ明良は何してるのかしら?」
その独り言に、理納はついついおかしそうにフッと笑ってしまった。
「何してるもなにも、ワタシ同様に守護者の仕事に決まってるわね!」
それがいい区切りになったのか、理納は現実逃避を止めて机の上の書類に目を向ける。
「しかし、本当に領地経営は守護者の仕事に入るのかしら?まぁ、世界家の仕事ではあるけれど……ワタシは守護者であってまだ世界家の当主ではないのよね、これも当主になるための勉強ってことなのかしら?……ワタシがこんなこと言うべきではないことぐらい理解しているけれど、それでも正直面倒くさいわね」
理納はついつい「ハァ」とため息を吐くと、次々と書類に目を通して処理していく。
そんな時であった。バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきたかと思うと、ノックも無しに荒々しく扉が開かれた。
「理納様!!」
そんな無礼な来訪者に、理納は訝しげな目を向ける。
「重哉、そんなに慌ててどうしたの?貴方らしくもない」
よほど急いでいたのだろう、普段は丁寧に整えられている髪も服も乱れていて、それに気を止める余裕も無いほどに息をきらして動転しているように見える老執事の重哉の姿に、理納は嫌な予感を覚える。
「これは申し訳ございません!しかし、今はそれどころではなく……」
理納の言葉にも重哉は少しも動じる様子はなく、そのままずかずかと室内に入ると、理納の座る机の前まで歩み寄る。
「理納様!大変です!心穏やかにお聞きください!」
「まず落ち着くのは貴方の方ではなくて?」
困ったような理納の声も耳に入らないのか、重哉は机に手を置くと、今にも前のめりになりそうな勢いで話を続ける。
「先ほど連絡がありまして……あ、明良様が……明良様が!」
「明良がどうかしましたか?」
「お亡くなりになったそうです……」
「…………え?」
最初、重哉の報告を理解出来なかった理納は、ついつい重哉にそう聞き返してた。
重哉は一呼吸置くと、今度は落ち着いた声で同じことを告げた。
「先ほど連絡があり、明良様がお亡くなりになったそうです。病死だったそうです」
重哉のその報告に、理納は「笑えない冗談だ」と鼻で笑い飛ばしたかったが、重哉のあまりに真剣な目に息を呑むと、慎重な声で確認する。
「………それは確かなの?」
「はい、確かに恭助さんからの連絡でしたので間違いないかと」
「………そう」
それだけ言うと、色が抜け落ちたような表情で黙り込む理納の姿に、重哉はいたたまれなくなってくる。
「理納様……本日はこのままお休みになられてはいかがでしょうか?」
重哉の言葉に、理納は力なく首を横に振る。
「それには及びません。ワタシは守護者ですから、私事で仕事を放り出す訳にはいかないでしょう」
「………左様でございますか。申し訳ございません、要らぬことを口にしました」
重哉は深々と頭を下げる。
「いえ、気遣いありがとうございます。………他に報告はありますか?」
「いえ、今のところは他になにも」
「…………子細はなかったのですか?」
「それは後日改めて報せがくるようです」
「そうですか……」
小さな理納の返事に、重哉は頭を下げると、来たときは違い静かな足取りで退室する。
それを見送った理納は、机の上の書類に目を落とす。
「………はぁ」
少し前と同じような、それでいて違う意味合いのため息を吐き出すと、理納は淡々と目の前の書類を処理していく………でないと余計なことを考えそうであったから。
その日の空は泣きたくなるほどに澄んでいた。
◆
それからどれだけの時が過ぎただろうか、当時は時間の感覚が曖昧でいまいち覚えてないが、季節が変わる頃には大分明良の最期が分かってきていた。
最初の訃報の通りに明良は病死で、最初にそれを発見したのは恭助で、各所にその事を報せたのもまた恭助であった。
「まぁ、これを全て信じろと言われても無理なんですけどね……」
『後で時間がありましたらご確認ください』と、重哉が他の報告書と一緒に持ってきた、改めて纏められた一連の報告書に目を通し終えると、理納はその報告書を机の上に放るように置いて、そう呟いた。
それでも、明良の側近の一人である恭助の言である以上、一応は一定の信頼性は存在していた。
「彼が明良を殺した犯人、という訳ではないでしょうけれど……それでも、何かを隠しているのは確かでしょうね。それが何なのかが問題ではあるけれど……」
理納は無意識に毛先を指先で弄りながら、恭助が隠しているものが何なのかに思考を巡らせる。
「彼が犯人ではなく、また犯人を知っているとすると、わざわざ隠さなくてはならないような相手とは……」
カチカチと時を刻む音だけが鳴り響く静かな空間を眺めながら、理納は幾つかの候補を絞り込む。そして、その中で最も可能性が高いのは――――。
「なるほど、これは所謂御家騒動というやつかしら?それにしても、あの明良があっさり殺られるとは思えないのだけれども……?」
うーんと、考え込む理納だったが、やがて諦めたように息を一つ吐き出した。
「おそらくは明良の弟、現井角家当主が犯人なのでしょうけれど、証拠がまるでないわね。それに明良の行動が不明過ぎる、これはもう少し調べさせないといけないようね。恭助を問い詰めたところで意味はないでしょうし、今のところはこの件はこれで一旦終わりにして、脇に置くとしますか……守護者に世界家と、これ以上ワタシには時間的な余裕が無いみたいですし」
理納が疲れたようにため息を溢すと、扉を叩く音が室内に響き、書類を山と抱えた数人の使用人が入ってきたのだった。
◆
「魔神関係が大分片付いた今ならあの件に集中出来るかしら?」
そのことに思い至った理納は、本棚から一抱えほどの書類の束を引っ張りだすと、それを机の上に広げる。
「まずはこの無駄に量のある報告書の数々を纏めるところからはじめないといけないかしら?」
あれ以来ずっと調べさせては報告書を上げさせていただけに相当な枚数になってはいたが、他に優先するべきことがあったので、目を通すだけでその報告書の数々はあまり纏められずに保管されている状態であった。
「はぁ、これだけで時間が潰せそうだわね」
理納は肩をすくめて小さく息を吐くと、書類の整理に取り掛かったのだった。
◆
亡者の迷宮もあと少しで攻略が終わるというある日の夜、隼人は寮の自室で眠っていた………はずだった。
「あれ?ここは……?」
隼人が目を開くと、そこは空は一面分厚い灰色の雲に覆われ、地面は見渡す限り土が露出して黒々としている、どんよりとした世界であった。
隼人は驚いたようにその世界を見渡すと、困惑したように首を傾げた。
「あれ?ここって小夜さんと会っていた場所……なのか?それにしては随分荒れてるというか、暗いというか……」
見慣れた地形のようで、華やかだった以前までとはまるっきり違い、色を失い荒廃した感じのするその世界に、隼人はだんだんと悲しくなってくる。
「あぁ、これは小夜さんが居なくなったから、なのかな?だとしたらここは短剣の中なんだろうけど、何でまた入れたんだ?というか、小夜さんが居なくてもこの空間は存在出来るのか……!」
その事実に隼人は驚きつつも、これからどうすればいいのかと困ってしまう。
「小夜さん……はもう居ないか、でも他には誰かが居るって訳でもなさそうだし」
隼人は周囲を見渡すも、以前のように誰かが隠れていられるような障害物は存在しない荒野が広がっているだけであった。
「ん?あれは?」
そんな中、離れた場所にぼんやりとした明かりが灯っているのが目に入った隼人は、他に目ぼしいものが確認出来なかったこともあり、その明かりの元まで近づいていく。
「……手紙?これって昔小夜さんに渡されたものか……?」
灰色の世界に在って、唯一うっすらとした明かりに包まれている手紙を見つけた隼人は、何故だか一目で懐かしさを感じて、自然とその手紙を手に取っていた。
「封が開いてる!?」
以前この手紙を渡された時はしっかりと閉じていてどうやっても開けられなかった手紙だったが、目の前の手紙は糊が剥がれてしまったかのように封がうっすら開いていた。
隼人は数度深呼吸をして心を落ち着けると、意を決して封筒から手紙を取り出して、その手紙に目を通した。
『拝啓 隼人様
……なんて改まって書くようなことではありませんが、この手紙をあなたが読んでいるということは、私はあなたの傍にはもう居ないことでしょう。
現在のあなたがどれだけ成長しているかまでは分かりませんし、それにどこまでご存知かまでも不明なため、手短に重要なことだけを記さして頂きます。
一度あなたの家に戻りなさい、そこにあなたの記憶が隠されています。
敬具
追伸:可能ならば、私と対の剣も探してみてください。』
「どういう……?」
手紙を読み終えると、隼人は訳がわからず首を傾げた。
すると、急激に睡魔に襲われ、隼人は意識を保つことが出来なくなり、ふらふらとよろけたかと思うと、そのまま地面に倒れてしまった。
◆
「…………あれ?」
隼人が目を覚ますと、そこは寮の自室にあるベッドの上であった。
隼人は瞬きを数度繰り返して手元に視線を落とすも、そこには手紙は存在していなかった。
それでも不思議と先ほどまでの出来事が夢だとは微塵も思えず、隼人は窓から外を眺めた。
「一度実家に帰るべきかな?」
そう呟くも、それはすぐさま叶いそうにはなかった。
久遠魔法学園の学生らしい日常が続くなか、隼人は時折小夜のことを思い出す。
学園に入学してから新たな力を手に入れたり、様々な出会いがあったりと、ある意味充実した日常ではあったが、それとは別に、隼人は心のどこかで本来あるべき平穏な日常も望んでいた。
そして彼女は、隼人の本意ではなかったとはいえ、隼人が心のどこかで望んでいたその平穏な日常を取り戻す代償となった。しかしそれは同時に、心にぽっかりとした穴が空いたような寂しさを感じさせる結果にもなってしまった。
そこまでしても、世界にはまだ様々なものが闇に蠢いており、そんな大きな代価を支払ってまで得た平穏も、残念ながらそう長くは続きそうにはなかったのだった。
『久遠魔法学園』をここまで読んでいただき誠にありがとうございます。
まだまだ半ば感はありますが、ここで一度物語を閉じたいと思います。
それではまた次回がありましたらその時にお会いできればと願いまして、ここで一端筆を置きたいと思います。