封印の少女
少女が自分を包んでいた暖かい何かが消えたのを感じた次の瞬間、ぞわりと、心臓を掴まれたような気持ち悪さに襲われる。
息の止まりそうなその感覚のなか、少女はずっと目を瞑っていたい衝動に駆られながらも、勇気を出してゆっくりと瞼を持ち上げる。
「ッ!!」
少女は目を開けると、自分の瞳に映し出されたその光景に短い悲鳴をあげた。
「なんで……あれはこの世界には存在しないはずです……なのに何故あれがこの世界に存在しているのですか!!」
少女がこの世界を創って閉じ籠る時に、それは完全に排除したはずだったのだが、その完全に排除したはずのそれを今、少女の特殊な瞳はしっかりと映し出していた、世界の悪意とも言えるその世界を。
「やめて!これ以上この世界を汚さないでください!私を狂わせないでください!でないと……」
少女は目を固く閉じて耳を両手で塞ぐと、いやいやをするように頭を強く振って叫んだ。
そこで少女は新たな気配を感じておそるおそる目を薄く開ける。
「そんなはずは……」
少女は震える声をあげると、先ほどまでのことを忘れたかのように驚愕に目を見開く。
「何故扉が開いてるのですか!?」
一面真っ白の世界に突如として現れた線に、少女の頭は破裂しそうなほどに混乱していた。
「だからこれが……?」
不意にそれに思い至った少女は、周囲を埋め尽くす世界の悪意に目を向けて呟いた。
「そう、……誰が開けたのかは知りませんけれど、夢の時間は終わり、ということなのですね」
少女は無理矢理事態を受け入れると、哀しそうに微笑んだ。
「ようこそ、悪夢の使者さん……」
少女は諦めたような笑顔を浮かべると、開いた扉から入って来た誰かを迎え入れるように両手を広げた。
◆
可児維が開いた扉の先は、真っ白な世界だった。
「あれが……封印の少女?」
隼人の視線の先では、両手を広げて儚げに笑う少女が、宙に浮いてこちらを視ていた。
「そのようだね。さて、ではまずは自己紹介といこうか」
可児維はそう言うと、少女に向けて歩みを進め、少し離れたところで止まると、丁寧な仕草で頭を下げた。
「はじめまして、私は現在の二の守護者を務めさせていただいております、可児維善次と申します」
普段の傲岸不遜とした態度ではなく、礼儀正しい紳士のような立ち居振舞いをする可児維を、少女は哀しみ以外感じられない瞳で見詰めると、
「そう、あなたが……あなた方が私の世界を汚し壊した者たちなのですね」
可児維から隼人達へと視線を移すと、そのまま扉の前に立っていた鏡花たちへと目を向けた。
「何故このようなことを?あなたが守護者だというのであれば、私がここに眠っていた理由も知っていると思うのだけれど?それとも、ちゃんと伝わってないのかしら?」
「いえ、正確かどうかは別にしましても、しっかりと伝わっております。ですから私達はここにたどり着けたのです」
「では何故、あなた方はこの世界を開いたのでしょうか?世界を終わらせたいと?」
「いえ、そうでは御座いません」
可児維はゆっくりと首を横に振る。
「私は、再び貴女を外の世界に出して差し上げたかったのです」
「何のために?」
「貴女に外の世界で残りの生を謳歌して頂くために」
可児維の言葉に、少女は少しだけ優しく微笑むと、小さく首を横に振った。
「……不可能です」
「何故?」
「世界は汚れているから」
「汚れている?」
意味が理解出来ず、可児維は一瞬だけ僅かに眉を寄せた。
「……あなた方にはこれが、この世界が見えてないのですね」
「申し訳ありません、よく意味が……」
「そうですね……あなた方に解るように説明するならば、私は魔力の世界が見えるのです」
「魔力の世界……?」
少女以外の全員が不思議そうな顔になる。
「人は自ら魔力を生み出し魔法を使う、というのは?」
「存じております」
少女は自らの問い掛けの答えに、どこか懐かしそうに目を細めた。
「そうですか。……私が眠ってからどれだけの年月が流れたのかは分かりませんが、それでも世界に根づいた常識とやらは、そう簡単に変わりはしないようですね。それとも、あれからこのことに気づいた者が現れなかった、ということでしょうか?」
少女は哀れむような目で闖入者達を見詰める。
「確かに、人は魔力を生み出せますが、それはごく微量でしかありません。あなた方が魔力を生み出していると勘違いしているものの正体は、ただ単に、世界に漂う魔力を自らに取り込んでいるだけに過ぎないのですよ」
「……そんなはずは」
「人は魔力の保有量で強さを判別する。それはあなた方を見る限り、今でも大して変わらないのでしょう。ですがね、人の魔力の保有量というのは誤解を生む表現です。それの正体は、ただ外界を漂う魔力をどれだけ取り込み精製出来るか、というものです」
世界の常識を根本から覆しかねない少女の発言に、隼人達五人は緊張した面持ちで、ただ黙って聞いていた。
「つまり、人というものは本来大して魔力を保有していないのですよ」
それだけ言うと、少女は急に真顔になる。
「私は、その魔力の精製量が人よりも多いようでしてね。そして、大気に漂う魔力が見えるこの目を所有していた」
少女は瞼の上から隠すように自分の片目に触れる。
「この目が関係しているのかは分かりませんが、私は魔力に敏感でしてね、この世界に漂う魔力の悪意とも邪気とも言えるものに敏感に反応してしまうのですよ。その上生成量が多い、つまりは魔力を大量に取り込んでしまうということ……結果として私はそれらに蝕まれてしまいました」
少女は恨みがましい目を隼人達五人に向けた。
「だから私は不浄な魔力の存在しないここに閉じ籠っていたのです……世界の敵にならないように」
「……………」
少女の言葉に五人は黙り込んでしまう。少女の話は、何もかもが初耳のものばかりであった。
「それももう終わりのようですがね、この世界は終わったのですから……それにもう、私自身手遅れのようですし」
少女の纏う雰囲気が禍々しくなっていくなか、隼人はふとこの封印を解く前に明良が言っていたことを思い出した。
『ネックレスを彼女に渡してくれ』
その言葉を思い出した隼人は、急いで首からネックレスを外して、鎖を掴んで掲げるようにして持つと、少女に向かって大声をあげる。
「これを貴女に!」
その声に反応した少女は怪訝な表情をしたが、ネックレスに視線が移った瞬間に、その表情は驚愕に変わった。
「なんですか、そのネックレスは―――!?」
少女の変化に隼人は内心驚きつつも、
「これを貴女に渡して欲しいと頼まれまして」
隼人のその言葉に、少女は一瞬だけ迷いをみせたが、直ぐに隼人の元へと近づいてくる。
「……貰っていきますね」
少女は隼人の手からネックレスを受け取ると、それを自分の首に着ける。
「……これを作った方は私と同じだったのかも知れませんね」
先ほどまであった禍々しさがみるみる内に霧散していくなか、少女のその呟きに、隼人は首を傾げた。
「同じ?」
「魔力が見えていた、ということですよ……」
手のひらの上に乗せたネックレスの意匠に目を落としながら、少女は遠い声でそう答えた。
「このネックレスを作った方は?」
その少女の問い掛けに、隼人は力無く首を横に振る。
「既に亡くなっています」
隼人のその言葉に、少女は悲しそうな顔になる。
「そうですか……一度会って話をしてみたかったのですけれど……残念です」
「そのネックレスにはどんな能力が?」
少女は一度隼人の顔に目を向けると、直ぐにネックレスへと目線を戻す。
「浄化ですよ」
「浄化?」
「周囲に漂う魔力を吸収して浄化するみたいですね……あとは……信じがたいことですが、このネックレスには時を戻す力があるようですね」
「時を戻す……?」
「正確には時を操るなのでしょうか?このネックレスを着けると、私の中に蓄積されていた負の魔力が消えていくのです」
「浄化ではなく、ですか?」
可児維の問い掛けに、少女は小さく頷いた。
「これは浄化ではありません。そもそも、大気の魔力は浄化出来ても、私の体内に染み着いてしまった穢れまでは綺麗には出来ませんから……だからこそ、このネックレスの製作者にお会いしたかったのですがね、私のずっと先を知っていたのでしょうから……」
ひどく残念そうに、それでいて寂しそうに少女は呟いた。
「貴女に問いたい、……魔法とは一体何なのですか?」
可児維は真面目な顔で少女に問い掛ける。
それに少女は首を横に振った。
「分かりません。ですが、魔神に何かしらの関係があることだけは分かっています。ですが、あそこには誰も立ち入れません」
「魔人、ですか……彼が生きていれば何かしら知っていただろうに」
「彼?」
「そのネックレスの製作者にして、五の守護者を務めた者です」
「五和の者ですか」
「いえ、五和家は衰退し、今の五の守護者は井角家が務めております」
「そうですか……そういえば、貴方も可児ではなく可児維でしたね、時の流れというものを痛感させられます……」
「その、前の五の守護者を務めた男は、魔人の封印の中に入れたのです」
どこか寂しそうな表情をしていた少女だったが、その言葉に、あり得ないという表情に変わった。
「それが原因で、その前の五の守護者は死んだのですか?」
「いえ、何故そうお思いに?」
不思議そうな顔をする可児維に、少女は訝しげな目を向ける。
「あの封印の中に入れる時点で異常ですが、普通はあの封印の内側に入れば生きては出られないはずです。……魔神はそんなに優しい存在じゃないのですから」
「……魔人とは友になったと、彼は申していましたが……?」
「友に?それは何の冗談ですか?魔力と意志疎通が出来たとでも言っていたのですか?」
「?それはどういう……」
二人して眉根を寄せると、辺りに暫しの沈黙が流れる。
「あなた方は魔神をどういう風に捉えられているんですか?」
「魔なる人、もしくは魔なる神でしょうか」
「なるほど、それで魔神ですか……完全に間違っている訳ではありませんが、正しくはありませんね」
少女はそこで一呼吸置いた。
「魔神という存在に、形はありません。何せ魔神は魔力そのものなのですから」
「魔力そのもの?何故そんなものにあれほど大規模な封印が施されているのですか?」
「……それは分かりません。しかし、この世界に漂う負の魔力の発生源は魔神封印の内側からなのは確かです」
「……………」
再び沈黙が辺りを支配しはじめる。
「このネックレスの製作者は何か言葉を遺していませんでしたか?遺品でも構いませんけれど……」
「いえ、何も……」
首を横に振る隼人から、少女は可児維へと目を移した。
「私も何も聞いてませんね。遺品なんかは管轄外でしたし」
そのまま少女は智輝や伊織、鏡花へと次々に視線を向けるも、全員が首を横に振った。
「そうですか……その方が本当に魔神の封印の中に入ったうえに無事に戻ってきたのならば、世界の根幹に関わることを知っていると思ったのですが……本当に何も遺されなかったのでしょうか……可能性としましては……」
そこで少女は何かを考えるように黙り込んでしまう。
「その方は本当に魔神の封印内に入られたのですか?」
少女のその確認のような問いに、可児維はしっかりと頷いた。
「それは私も含めた当時の守護者全員が確認しておりますので間違いありません」
「そうですか……」
少女はネックレスを手のひらの上で弄ぶように転がす。
「その方の最期を教えて頂けませんか?」
「最期、ですか……」
少女の問いに、隼人は可児維に目を向ける。
「私は伝え聞いただけなので詳しくは分かりませんが、病死だったと伺っています。元々身体が強くなく、亡くなるまでの数ヵ月は特に体調が思わしくなかったらしく、あまり遠出を、というより家から出ることが殆どないほどの状態だったらしいです」
「最期を看取った方はいらっしゃったのですか?」
「……その日に限って誰も傍には居なかったと聞いています」
「そうですか……ありがとうございます」
それだけ言うと、少女は再度考えるような仕草で黙り込んでしまった。
「……ん?なんだ?」
その沈黙の中、微かにピキリパキリという薄氷にゆっくりとヒビが入るような不吉な音が聞こえた隼人は、その音の出所を探って周囲に目をやる。
その音は他の四人にも聞こえていたようで、四人も周囲を探るように目を動かしていた。
「あぁ、その音ならこの世界が崩壊する音ですよ」
そんな五人に気づいた少女は、大したことではないかのように、軽い調子でそう答えを教える。
「崩壊!?それって大丈夫なんですか?」
「それは、ここに居て大丈夫なのかという意味でしょうか?それとも、この世界の崩壊が外の世界に及ぼす影響についてでしょうか?もしくは私の身を案じてくださっての発言でしょうか?」
「そ、それは……えっと……どれも心配ですが、最初のここに居て大丈夫かどうかについてです」
しどろもどろな隼人に、少女は涼しい顔で答える。
「それなら大丈夫ではありませんよ。この世界の崩壊は、この世界そのものの消滅を意味しますので、その時はこの世界が内包するモノも一緒に消えてしまいますから」
「じゃあ急いで戻らないと!」
隼人達は扉目掛けて駆け出す。その途中、背後の様子が気になって振り返った隼人は、先ほどの位置から全く動いていない少女の姿を視界に収める。
「何をしてるんですか!?貴女も逃げますよ!」
隼人の叫びに、少女は可笑しそうに小さく笑う。それはどこか狂った笑いのように隼人には見えた。
「この世界を出てどうします?確かに、このネックレスのお陰で闇に呑み込まれる事態だけは避けられました。ですが、私がこの世界に閉じ籠ってからどれだけの歳月が過ぎましたか?少なくとも、外の世界には私が知っている人物や、私を知っている人物は生きてはいないでしょう……独り取り残された遺物である私に、今更外に出て何の意味が在ると言うのですか……」
自虐的な響きのある虚しい少女の呟きに、隼人は何か言おうと口を開くが、今は何を言っても無駄だと思い直すと、少女の元まで駆け寄り、その腕を掴んで力強く引っ張った。それは独りではないと、まだ光はこちらにも在ると示すかのようでもあった。
「……離してくださいませんか?あなたの心遣いには感謝しますが、新しき時代に旧き存在の居場所は在りません……この選択は、人としては評価出来ても、大局的にはあまりにも愚かしいことですよ」
少女のその達観したような諦めの台詞に、隼人揺るぎのないはっきりとした声で答える。
「構いません。例えこの選択が禍を招く結果になるのだとしても、例え皆に偽善だと後ろ指指されようとも、僕は貴女を助けたことを絶対に後悔したりはしません。それに、この選択は間違いではないと思いますよ。……そんな予感がします」
「……そうですか……ふぅ、あなたは例え毎日千人が死ぬ戦場でも、十人……いや、一人の命を救うために、文字通り命を賭けて奔走出来るお人好しなのでしょうね」
心底呆れたような少女の言葉には、しかしどこか好意的な響きが感じられた。
「例え一人だとしても、なにもしないで千人の命が散るのと、必死で足掻いてたった一人だけでも命が救えるのでは大違いですから」
「悲しいことに、世間ではそれを偽善と呼ぶらしいですよ?」
「それを偽善と呼ぶ者は、何もしなかった者か、何もしようとしない者だけですよ。たった一人でも救えたのならば、僕はそれだけで、世間の嘲りを一笑に付すことが出来るでしょう」
「はぁ、そうですか。あなたにそれだけの覚悟が在ると言うのならば、今回だけは大人しく救われておきましょう。ですが、この選択が最善ではないことだけはお忘れなきように」
そこまで言うと、少女は隼人に聞こえないほどの小さな声で呟く。
「あなたが、自身や周囲に降りかかかる火の粉を振り払えるだけの力を持っていることを、今は信じることにしましょう……」
隼人に手を引かれながら少女が扉を潜ると、扉がバキバキと音を立てて崩れはじめる。
「はぁ~~~、間一髪だった」
その様子を見た隼人は安堵の息を吐いた。
その横で、少女はじっと扉が崩れていく姿を眺めていた。いつまでも、いつまでも、扉が完全に崩れて無くなってしまった後も。
その横顔からは、およそ感情らしきものは汲み取れなかったが、ただ、怖いほどに真剣な目をしていた。
◆
「封印が解かれたか……」
遠くに石で造られた神殿らしき建物がある以外には、草原が広がるだけのその場所で、眠そうな目にボサボサ髪、それにTシャツにジーンズ姿の男は、満天の星空を見上げて小さく呟いた。
「しかし世界には何の変化も無いと……」
そこで一度息を吐き出すと、
「全く、あの明良め!相変わらず規格外だな!」
男は心底忌々しそうに、しかし恐怖の混じった声音でそう吐き捨てた。
「また一歩、アンタの思い通りにことが進んだということか!!」
男は目線を星空から、地平を寒々しい光で照らす月へと移す。
「あそこに行ってアンタは変わった、あの先で一体何を見てきたのやら……」
男は明良が死ぬ数年前、今と同じ星空の下で、男に笑って語った日のことを思い出す。
『ねぇ、知ってるかい?この世界の人間の歴史を、あちらの世界のことを、この先の未来を……。僕はね、この世界とあの世界を分けようと思うんだ!人間は大嫌いだが、この故郷を守るためだ、仕方がない』
語ったその話の内容よりも、それを語った明良自身を思い出して、男は恐怖に身震いする。あのこちらを見ているようで全く見ていない、深い水面のような闇を湛えた光のない瞳を。
「アンタは嘘つきだ、アンタが発する言葉は偽りが多すぎる。しかし、あの時の言葉は、アンタの真意を少しは映していたんだろうな」
男は一度後ろにある神殿らしき建物へと視線を向けると、前を向いて歩き出した。
「……あの封印が無事に解かれたのならば、次はあれの出番なんだろう?なぁ、バケモノさんよ」