一端
壁に沿うように幾度も折れ曲がりながら地下へと続く長く暗い階段は、まるで奈落の底へと降りていくようであった。
その奈落の底へと続く階段の終着点、そこにある部屋には鉄で出来た重そうな扉が取り付けられており、その扉の先の空間には、階段同様に灯りの無い完全な闇が満ちていた。
「……ふむ」
そんな暗闇の支配する空間にあっても、問題無く辺りが見えている可児維は腕を組むと、壁を観察するように視線を巡らせる。
その視線をある一点で留めると、可児維は僅かに口角を持ち上げた。
「後はこの鍵を挿せば……」
目を凝らして見ても見落としそうな小さな切れ目に、可児維は懐から取り出した美しい装飾の施された一本の宝剣を差し込む。
その宝剣は久遠魔法学園の学園長室に飾ってある宝剣に酷似していたが、柄や鍔の部分に嵌め込まれた宝石の色が違っていた。
学園長室に飾られているのは見事なまでに鮮やかな赤であり、可児維が手にしているのは吸い込まれそうなほどに透き通った青をしていた。
可児維はその青の宝石の埋め込まれた短剣を少し強めに握ると、壁の切れ目に差し込み、宝剣を僅かに動かす。すると、カチャリと、静寂の空間に鳴り響く小さな音が耳に入る。
可児維は確信した笑みを浮かべると、その宝剣の柄を握ったままに宝剣を半周ほど回す。すると、ガコンという何かが外れるような音とともに、人一人が通れるぐらいの大きさに壁の一部が向こう側へと僅かに動く。それはまるで向こう側から誰かが扉を細く開けたようであった。
可児維が動いた壁を軽く押すと、扉のように一辺が動いていない部分の壁にくっついたまま、向こう側へと開いていく。
「……この中か?」
可児維は少しの期待がこもった口調で呟くと、躊躇無く壁の向こうへと足を踏み入れていく。
「ほぅ」
壁の向こうに広がる光景に、可児維は感心したような、それでいて好戦的な息を漏らす。そこには天井まである頑丈そうな壁で造られた巨大な迷路が広がっていた。
「壊して進んではダメなのだろうな……」
可児維は一瞬悩むも、一度も挑戦していないものを、壁を壊すという裏技を使って進むのはつまらないことだと思い直した。可児維にはそれを楽しむだけの力が備わっているのだから。それにここの場所とその目的、これを造った者を考えれば、壁を壊すなど愚行だろうとも思えた。
「しかし、まるで児戯のようだな」
迷路を進みながら可児維はふと子どもの頃に迷路で遊んだこと思い出す。その時の規模に比べれば、今回の迷路は随分と大掛かりではあるが、どちらにせよ可児維にとっての迷路は、子どもの遊びでしかなかった。
可児維は立ち止まることなく歩き続ける。その迷いのない足取りは、まるで道順を知っている者のようであった。
「見てくれだけは立派だったが、やはり所詮は児戯に過ぎぬか……」
一度も迷うことも止まることもなく長い迷路を踏破した可児維は、僅かな失望を含んだ声で呟いた。
可児維が迷路を抜けると、そこには先ほどの地下室と同じような鉄で出来た重そうな扉が姿を現した。
「……ふむ、鍵が掛かっているな」
ドアノブを回した可児維は、ガゴンという重い音とともに感じた、何かがつっかえているような抵抗に、小さく息を吐き出す。
「鍵は……ないか、しょうがない」
手元にいくつかある鍵を試した可児維は、その全てが合わないことを知ると、扉のドアノブ付近に手を当てた。
可児維が手を当てた部分が赤く光ると、ドロドロと粘性のある液体が、扉の表面を伝うようにして地面へと垂れ落ちる。
「こんなものか?」
ドアノブが音を立てて地面に落ちると、ドアノブが付いていた場所に、向こう側が見える小さめの穴がぽっかりと空く。
ドアノブが無くなった扉を可児維が押すと、小さな抵抗を感じた後に簡単に扉が開く。その際に小さな音を立てて何かが落ちた気がしたが、可児維は気にすること無く扉の先へと足を踏み入れる。
扉の先の部屋の中央付近には数段の階段があり、その階段を昇った先には台座があった。床から一段高いところにあるその台座には、大人一人が通れる程度の大きさしかない扉が設置されていた。
「これが封印か」
壁に設置されるのではなく、部屋の中央にぽつんと置かれているその扉は、外からでは展示されているようにしか見えなかった。だが、可児維にはその扉が決して開かないようにと封印している魔力の気配を感じた。それもおそろしく強力な封印の魔法が……。
「この先なのだろうが……」
これほどまでに強力な封印を施さなければいけないものへの心当たりなど、可児維には一つしか思い当たらなかった。
しかし、ただでさえあまりにも強力な封印魔法は厄介だというのに、その封印を施された扉を守るように台座に施されている結界もまた強力で、可児維は力押しで突破するのは不可能だと判断する。
「だとすると……」
可児維が辺りを見渡すと、床に台座を囲むように設置されているものを発見する。
「やはり、君もここを訪れていたようだね」
それを見た可児維は、懐かしそうにそう呟く。その結界の発生源となっている道具に似たものを可児維は一度目にしたことがあったから。いや、それ以前に、これほどの魔法道具を作れる者など、可児維には一人しか心当たりはなかった。それは可児維の知る歴史上の人物も含めて、だ。
階下にある魔法道具の近くへと移動すると、結界の内側に存在するその魔法道具に可児維は手を伸ばしてみる。目の前の結界が、触れた者に害を及ぼす類いのものではないことは知っていたから。
「……さすがに無理か」
可児維の伸ばした手は結界に阻まれ、魔法道具に触れることさえ叶わなかった。そんな魔法道具を前にして、可児維は思考を巡らせる。
「どうにかして結界と封印を解く方法が存在すると思うのだが……」
しかし、いくら考えても答えは出てこなかった。方法自体はいくつか思いつくが、確実性がどれにも欠けていたからである。しかしそれもそのはずだろう、この封印も結界も役割から考えるに、解かず解かれずを前提に作られているのだろうから。
「……少し探ってみるか」
しかし可児維には、この結界を作った者がわざと解ける方法を残している可能性も棄てきれなかった。……封印の方は、調べはするが、結界を解いてから考えればいいだろうと判断した。
可児維はひとつ頷くことで区切りとすると、封印の部屋を後にする。
今はまだここに来るのは早かったが、場所だけでも確認出来たのは大きな収穫だった。後は侵入した時同様に、誰にも気づかれずに外に出ていくだけだった。そしてそれは可児維にとって、とても容易いものであった。
◆
昼光色の光が照らす室内で、隼人はベッドに横になったまま、手に持つ短剣を目の前に翳す。
青みがかった黒色の柄と鞘は、角度を変えればキラキラと輝き、まるで夜空を切り取ったようであった。
隼人は上体を起こすと、柄を持つ手に僅かな力を込めてそれを引いた。カチャという小さな音が響くと、柄と鞘の間に白銀に輝く刃が姿を見せる。
「……綺麗だな」
その月のような幻想的な輝きに、隼人は我知らず言葉が漏れる。まるで手元に夜空が顕れたようだと感嘆の息を吐いた。
「この短剣には何かしらの力があるはず何だけど……」
鞘を払った隼人は、確認するように刃に光を反射させる。何度も戦闘に使っていたが、今まで手入れらしい手入れを一度もしたことがなかったが、それでも刃こぼれ一つしていない短剣に、隼人はこれを明良から貰った時のことを思い出そうとするも、
「……あんまり覚えてないな」
短剣を貰ったのがあまりにも幼い頃過ぎて、隼人は記憶の引き出しをひっくり返しても、明良が何故短剣を自分にくれたのかすら思い出せずにいた。ただ、明良が隼人に短剣を託した時に浮かべた、諦めにも似た表情だけは記憶に残っていた。
「………」
だから隼人は考える、何故明良はあんな顔をしていたのかと。
「確か、何か話をしていたような……?」
必死に思い出そうとする隼人だったが、結局は何も思い出せずに悔しそうにため息を吐く。自分が強くなれる何かしらの手掛かりのはずなのに、と。
そうやって悶々としていると、消灯時間になり、灯りの消えた室内に、欠けた月からのほのかな月明かりが射し込む。
隼人はそんな薄暗い室内でベッドに横になると、何となく天井をぼーっと眺める。
「……寝るか」
隼人は囁くように声を出すと、そのまま目を瞑る。暫くすると、規則正しい寝息だけが室内に響き出した。
◆
生暖かい風が頬を撫でる。周りに目をやれば花の蕾が膨らみ、今にも弾けるようにして花が咲きそうにしている。草も緑の色が強く出てきているようで、もうすぐ本格的に春なんだなと、実感する。
そんな彩りが添えられはじめた庭を、一人の幼児が歩いていた。その幼児の後を少年が一人ついてきていた。
幼児は周りのことなど気にも留めずに、慣れたように庭を歩いていく。その後を少年は周囲に目を向けつつも、ただ静かについていく。
「力が欲しい」
庭の端、大きな木の下で幼児は足を止めると、木を見上げて願うように声を発した。
「力、ですか」
「ああ、俺を馬鹿にしているやつらを見返せるような力を、だ」
少年はそんな幼児の背中を見詰めると、どこか呆れたようにそっと息を吐いた。
「それで、誰を傷つけたいんですか?」
「誰かを傷つけたい訳じゃない」
「でも、力が欲しいんですよね?」
「ああ、そうだ。だが、それとこれとは違うだろう」
そこで少年は僅かに肩をすくめた。
「まさか」
「違わないというのか?」
「一概に同じとは言いませんが、まるっきり間違っているとは思ってませんよ」
幼児は少年に顔を向けると、意味が分からないと眉を寄せる。
「そうですね……隼人君の欲する力は示威としての力でしょう?ならばそれをどうやって示しますか?兵を持ちますか?侮られないほどに大量に持つとなると維持が大変ですね、少なくとも今の隼人君では不可能なくらいには。支持も……今の状態では難しいでしょう。では武器を誇りますか?しかし隼人君が良質な武器や脅威となりえる武器を持っただけで皆を見返せますかね?ではどうしましょう?その武器で斬りつけますか?恐怖を植えつけて見返しますか?まぁ、それをやったら見返すどころか身の破滅でしょうね。だからですね、見返すなら何かしらの偉業を成さなければ誰も認めないでしょう。しかし容易くないから偉業と呼ばれるのですよ。それは今の隼人君では為せないでしょうね」
「何故だ?優秀な部下に強い武器を持たせて、俺も強い装備で身を固める。そうしてからどこかの未踏のダンジョンでも踏破すればいいじゃないか」
ムッとした表情で幼児は少年を見詰める。
「なるほど……」
少年は幼児のその言葉に数度頷くと、僅かに笑い声を漏らした。
「何が可笑しい!?」
少年のその反応に幼児は少しだけ声をあらげて問い掛ける。
「いえ、失礼。しかし、そうですね……」
そこで少年は言葉を一度切ると、幼児の顔をじっと見詰める。幼児も負けじと少年を睨むように見詰め返す。
やがて少年は諦めたようにため息を吐くと、懐から一本の短剣を取り出した。
「これを君にあげましょう」
幼児は藍色の鞘に収まった短剣を受けとると、不思議そうに首を傾げる。
「お望み通りの力ですよ。後の使い道は持ち主が決めればいい」
「これが……力だと?ただの短剣じゃないか!」
幼児の苛立ちの言葉に、少年は疲れたようにそっと息を吐く。
「その短剣に微量でも魔力を流すと、切れ味がかなりよくなります。それこそ鋼鉄さえも殆ど抵抗無く切れるほどに。他にはそう多くはありませんが魔力の吸収……ですが、これは使用者の技術依存ですから、あまりオススメしませんね。未熟者が使用すると、吸収中には短剣に掛かってる魔法の力や、使用者の魔力も吸収されかねないですから。まぁ、これは慣れですね。後は……」
そこで少年は、幼児が短剣の刀身の美しさに魅了されて、既に話を聞いていないことに気がつく。
「ふぅ……ま、以上です」
少年は肩をすくめると、少し離れて幼児の様子を観察する。
「後は自分で気づいてくれることを願うだけですね」
少年は幼児に向けて儚げに笑うと、小さく呟いた。
◆
朝日が窓から射し込み、その明るさに覚醒を促された隼人は、むずがるように身じろぐと、ゆっくりと瞼を持ち上げてから周囲を確認するように視線をさ迷わせる。
「……朝、か」
自室だと認識した隼人は、気だるげに上体を持ち上げると大きく口を開けて、一つ大きな欠伸をした。
ごしごしと目元を擦ると、隼人は夢のことを思い出す。
「……切れ味向上、魔力吸収……」
夢の内容など殆ど忘れてしまっていたが、そこだけはしっかりと覚えていた隼人は、忘れないように繰り返し口にする。
それに満足すると、隼人はベッドから下りて着替えを済ますと、部屋を出て、洗面所へと移動した。
◆
久遠魔法学園内にある学園長室は、四方を重厚な本が隙間なく詰まった大きな本棚で囲まれているが故に圧迫感があり、狭く感じる部屋であった。その学園長室の主、久遠魔法学園の学園長である三空兼護は、守衛であり秘書のような仕事も委せている鏡花の異変に、眉を顰めた。
「何かあったのか?」
もしも三空学園長以外の人物ならば、鏡花がいつもよりも慌ただしいことには気づかなかっただろうほどの僅かな異変、それを指摘されても鏡花は驚くことはなく、三空学園長の傍へと移動すると、少し言いづらそうに口を開く。
「……地下に侵入者がありました。被害はドアが一つだけで、その先に被害はありませんでしたが」
「……そうか……聞くまでもないだろうが、犯人は分かっているのか?」
「記録の宝珠の映像を見る限りは可児維様かと」
「一人か?」
「はい」
「そうか……間に合わなかったか」
三空学園長は大きなため息を吐くと、目を瞑って考え事をはじめる。
その間、鏡花は傍に控えるようないつもの位置に立つと、三空学園長の判断を静かに待っていた。
「……私は封印の解き方を知らない。というより、現在の鍵の所在が分からない。しかし可児維が何もしないで戻ったところから、彼も封印の解き方を知らずに、それを探しにいったか、鍵を探しに行ったのかだろう。ならば待つか、既に場所が知られてしまったならば、後は守りを固めて待つしかないだろう」
「畏まりました」
三空学園長は学園長室の正面の扉の上に飾られている、赤い宝石が埋め込まれた宝剣に目を向ける。それは魔人を封じている宝剣を模した一本であり、守護者の証の宝剣でもあった。
「では、準備を開始しますか」
視線を宝剣から鏡花へと移すと、三空学園長は机に手を置き、席を立とうと腰を浮かす。
「いえ、迎撃準備はこちらでしますので、兼護様は学園長としての責務を全うしてください」
鏡花は机に山を築いている書類を一瞥すると、三空学園長に視線を戻す。
「いや、しかし……」
「………」
何かを言いかける三空学園長だったが、鏡花の視線の温度が下がるのを感じて言葉を詰まらせる。
「えっと、あー、はい、分かりました」
三空学園長は鏡花から視線を逸らすと、浮かしていた腰を椅子の上に落ち着かせる。
それを確認した鏡花は満足げに頷くと、三空学園長に一礼して学園長室を後にする。
「はぁ、相変わらず鏡花君には敵わないな……」
三空学園長は肩をすくめると、諦めたような笑いを浮かべるのであった。
◆
「ハァッ!」
すれ違い様に隼人がモンスターを短剣で斬りつけると、斬りつけた腕が泥濘に落ちて消えていく。その切れ味の鋭さに隼人は驚きながらも、振り向いたその勢いのままに、背後のモンスターに止めの一撃を喰らわせる。
「グギャァアァ」
モンスターは叫び声をあげると、そのまま泥濘に倒れて消えていった。
「ふぅ」
隼人は一つ息を吐くと、手元の短剣に目線を落とす。
「スゴい切れ味だな」
先ほどのモンスターを斬るのに抵抗をあまり感じなかったことに改めて隼人は驚きの声をあげる。
今までは短剣の切れ味をあげる為に魔力を纏わせてはいたが、この短剣の正しい使い方は魔力を纏わすことではなく、短剣に魔力を注入することであった。
夢によってそれを思い出した隼人は早速試してみると、意外なほど簡単に出来、そのことに驚きはしたが、その結果はそれ以上の驚きだった。
しかし、魔力吸収の方はとても難しく、未だに上手く習得出来てはいなかった。
「どうしたの急に?」
昨日までとは動きが変わった隼人に、伊織は首を傾げて問い掛ける。
「ん、ちょっとね、この短剣の使い方を思い出して」
持っていた短剣を伊織に見せるように軽く持ち上げると、隼人は抜き身のままの短剣を鞘に納める。
「へぇー、わたしは短剣に詳しくはないけどさ、前からその短剣は何かスゴい感じがしてたのよね」
伊織は短剣の放つ異質な感じや、その見事なまでの美しさを褒め称えて何度も頷くと、隼人へと視線を移す。
「それで使い方って?っていうか、その短剣ってやっぱり魔法武器だったんだね」
「うん、貰い物だけどね。使い方っていうか、この短剣の力の一つに、短剣に微量の魔力を注ぐと切れ味が上昇するってのがあってね、それを発動させたんだ」
隼人の説明に伊織は「おおーっ」と声を出すと、
「一つってことは他にも?複数個の性能持ちとは、やっぱりこの短剣って結構高位の魔法武器だったんだね」
繁々と伊織は短剣を眺める。
「後は魔力吸収ってのがあるけど……こっちは扱い方がすごく難しくてね、まだ思うようには使えないんだ」
伊織は興味深そうに頷くと、「そうなんだ」と相槌を打つ。
「他には何かないの?」
「さぁ、これ以上は知らないな」
「そうかー、何か他にもありそうだね。それにしても、本当にスゴい魔法武器だね。わたし、ここまで性能が良くて、見た目も綺麗な魔法武器は今まで見たことがなかったよ」
そこで伊織は満足したのか、感嘆の吐息を吐いた。
「こうやってしっかり見たのははじめてだったけど、これぞまさに眼福ってやつだね。ありがとう」
にこやかに笑う伊織に、隼人は少し照れくさそうに首をかく。智輝は二人の横から、感心したように黙って短剣を眺めていた。
◆
その後も隼人達三人はダンジョンの探索を続けた。
隼人は使い方を思い出した短剣に慣れる為に戦闘には積極的に参加したが、微量とはいえ、戦闘中ずっと短剣に魔力を流し込み続けた隼人は、体内の魔力の残量が少くなり、足元がおぼつかなくなってふらふらとしだす。
「大丈夫?そろそろ帰還した方がいいと思うよ」
昼が過ぎ、夕方になるにはまだ少し時間が掛かる頃、伊織は心配声で隼人にそう提案した。
「う~ん、そうだね、そろそろ帰還しようか」
力なく笑った隼人に二人は気遣うような顔をすると、隼人を待たせてマーカーを設置する場所を探しにいく。探しにいくと言っても、普通は近場で見つかりにくい安全そうな場所に設置するのだが、泥濘が広がるばかりの霧のダンジョンでは、どこでも同じように見えた。そんな中二人は近くにモンスターが出現しない、比較的泥濘の浅い場所を探してからそこにマーカーを設置し終えると、隼人に合流して、三人は揃って帰還するのであった。
◆
窓の外で揺らめく神秘的な光が室内に入り込んでくるその部屋は、水中に造られた球状の建築物内の一室で、可憐が執務室として使用している部屋であった。
その部屋で可憐は手元の書類に目を通すと、疲れたようにため息を吐く。
「情報、ね。そんなものあったかしら」
可憐は頬に手を置くと、正面にある扉へと目線を向ける。
「………………」
そのまま暫く考え込んだ可憐は、もう一度疲れたようにため息を吐いた。
「結界……結界……結界ねぇ、確か短剣がどうとか仰ってたような……?あの人なら何か知ってるのでしょうけど、とりあえずは短剣の事でも教えておきますか」
可憐は手元の書類を、机上の端に出来ている確認済みの破棄書類の山に置くと、反対側にある白紙の紙束から一枚を取る。
「えっと、挨拶等々は不要だろうから要件だけ……っと」
紙の上にペンを走らせると、可憐は書いた内容に不備がないかを念入りに確認する。
「よし、これで終わりっと。しかし守衛の殺害が情報提供に換わるとは、よかったのかよくなかったのか微妙なところだな」
可憐は要件だけを簡潔に記入した紙を脇に置く。あとで決裁の済んだ書類を取りに来た守衛にでも、他の書類と一緒に渡せばいいだろうと考えた可憐は、これで面倒な用件は終わりとばかりに勢いよく息を吐き出した。
「しかし、結界ということは封印まで辿り着いたということですかね」
可憐は顎に手を置くと、天井を見上げる。
「……さて、これからどうなることやら。今後の展開が楽しみですね」
そう言うと、可憐は静かに微笑んだ。
しかしそこでふと、何かを思い出したように視線を外の水中へと投じる。
「あの人は一体今どこで何をしているのか……」
可憐は一人の男性のことを思い出して呟く。おそらくはこの世で最も明良の近くにいた人物を。
「………」
そこで可憐は口をつぐむ。記憶の中の彼は誰よりも明良を理解していて、そして誰よりも明良を恐れていた。
「……あの人は明良様に何を見ていたのでしょうか」
彼は明良に対して恐れから嫌悪や憎悪にも似た感情を抱いていた気がしたが、それが何に起因してのことなのかは、可憐は知らなかった。
そして明良が亡くなって間もなく、彼は忽然と姿を消したのだった。
「恐怖、か……」
明良のことを尊敬し、敬愛している可憐にとっては理解出来ない感情だったが、それでもふとした時に彼のことを思い出すのは、彼が何かを知っていたからだろう。それはとても重要な何かで、もしかしたら明良という人物の根幹に関わるかも知れない何かを……。
「機会があればまた会えるでしょう」
可憐が独り呟くと、何処からか赤ちゃんの泣き声が聞こえてくる。扉越しにでも僅かに聞こえてくる赤ちゃんの泣き声を耳にした可憐は、とても優しい顔になる。それは母親が浮かべるような慈愛に満ちた表情であった。
今回の更新はここまでです。