エデンの林檎
どのくらいトレントの鼻に抱きついていただろうか。
たぶんトレントは時間の流れなんてそれほど気にしていないだろうけれど。
「……落ち着いたかい? リン」
トレントがゆっくりと穏やかに話しかけてくる。
「うん……。ありがとうトレント」
その言葉に頷き、そっと抱きついていたトレントの鼻から離れる。
たぶん目は真っ赤になっているだろうなぁ……。まぁ仕方ないよね。
さて、いっぱい泣いたし気持ちを切り替えなくちゃ。
いつまでも郷愁に惹かれて泣いているわけにもいかないからね。
「おやおや、リンは切り替えが早いねぇ。まるで秋の空のようだよ」
トレントが感心したように目を細める。
「そりゃあ女心と秋の空って言いますからね」
こちらの世界でも日本とは少し違うが、四季はある。
おそらく地形も今私が住んでいるところは似ているんじゃないだろうか。
ママに地図を見せられたとき、ここは島国だった。
そのせいか気候的には日本に近い。
なんとなく地球とも地形が似ている気がしたけれど、種族によって、やはりすみわけがなされているようだった。
移動手段はほぼ船だ。
箒では海を渡る人は少ないけれど居る事は居る。
……海に落ちた時大変そうだなぁ。
あ、でも人魚とかのロマンスが此方の世界には現実のお話として残っているから助けて貰ったりするのかなぁ。
パパの体験談で聞いた事がある。
昔、船に初めて乗った時、海に落ちてしまい人魚に助けられたと。
しばらく一緒に遊んだりしていたけれどパパが成長して大人になっていくのに対して、人魚の方は全く成長をしなかったから最後の方は会う度に悲しそうな顔をしていたと。
別れは唐突でパパがいつも人魚と会っていた岬に行くと約束の時間なのに人魚は居なかったそうだ。
その場所には綺麗な貝殻だけが残されていたと。
……何故そんな事を知っているのかって?
家に妙な魔力が漂っていたから、細く弱く魔力の糸を張り巡らして探知の魔術を使い、それを辿ると貝殻のネックレスが額縁の裏から出てきたのだ。
魔力糸を使いすぎて動けない私がネックレスを握り締めていたらパパが私を発見した。
パパに聞いたら人魚との思い出話を語ってくれた。
ちょっと突っ込んだらそっぽをむいて赤い顔でキスまでしかしてないと言っていた。
ママには内緒だぞ、とも。
そのネックレスは今は私が貰ってしまって宝物の一つになっている。
……せっかくママみたいな性格も良くて評判の美人と結婚できたのに未だに昔の女を忘れられないって酷いと思う、うん。
パパは結構御人好しで流され易いからなぁ。
いつか押しの強い人に流されて胤違いの姉妹とかできないかちょっと心配だ。
……また変な事を考えていた。
うーん、最近考えがあちらこちらに向かってしまうなぁ……。集中力が足りないのかしら。
「ほっほっほ、リン。それは成長期だからじゃないのかねぇ」
トレントに後ろからいきなり声をかけられてビックリした。また考えを読まれていたようだ。
「成長期……?」
「そう。人間が誰しも通る道だねぇ。樹木も若芽の頃は色んな事を考えて、思い出して、悩むんだよ」
そっかぁ、成長期かぁ……。そうするとこの胸も少しは大きくなるかしら。
紡の時もそこまで発育は良くは無かったが、それでも人並みにあった。
しかしリンの体は……。
私はフルフラットとかバリアフリーとかちっぱいとか単語を連想させる胸を見て溜息をついた。
あ、でもまたあの成長痛を味わうのは少し嫌かもしれない。
さて、そろそろリンゴを片付けなくちゃ。ジャムとか作るってアンヘルと約束してたしね。
トレントにまた後でねと声をかけ、ぽむぽこと玄関に向かう。
振り返ってトレントを見ると目を閉じてむにゃむにゃとしていた。
もしかしたらトレントもお昼寝するのかもしれない。
今日はいっぱい頼っちゃったしね。
「さて、まずは何を作ろうか!」
「ぽ!」
「ぷ!」
私の声にぽむとぽこが元気良く返事を返してくれる。もしかして手伝ってくれるのかな?
でもその前に……。
私も少しお腹が減っていたので一つリンゴを手に取り、齧ってみる。
うあぁぁああ!甘い!ジューシィー!デリシャス!エクセレント!
なんだかよく分からない単語が頭をかけめぐる。
正確に表すなら最初に感じるのは酸味、その後にその酸味を押し流すくらい強烈な甘味が溢れ出す。
その後リンゴの香りが鼻から抜ける感覚が、なんというかもう、果汁100%リンゴジュースのお風呂に浸かった気分?
「ぽ! ぽ!」
「ぷ! ぷ!」
ぽむとぽこの声に我に返る。
「あ、もしかして食べたいのかな? 待ってね、一番赤そうなのは……と、これね」
床に直置きするのは少しためらわれたので椅子をくっつけてハンカチを敷き、ぽむぽこを乗せてリンゴを二つ置いた。
アーと口を広げて一口でリンゴを丸ごと食べた二匹にちょっと吃驚した。
……ここまで口が広がるのね。ぽむとぽこって……。
もっしゃもっしゃと咀嚼して、口の動きが止まると此方を見て一言。
「ぽ!」
「ぷ!」
ご馳走様といわんばかりにゲフゥとリンゴの香りの息を吐き出した二匹はみょんみょんと暖炉の側のソファに向かって行った。
……手伝ってくれるわけじゃなかったのね。
暖炉にはまだ火は入ってないけれど薪の用意もしておかないとなぁ。
二匹が寄り添って目を瞑る。ぽむぽこもお昼寝かな。
下着や服をクローゼットにしまい、エプロンを着けてリュックを階下に持ってくる。
残っているのはほぼ調理器具と保存が利く食品と調味料だ。
種も全部トレントに預けちゃったしね。
「じゃあまず手を……ってしまった。井戸掘るの忘れてた……」
がくうと床に手を着き、四つん這いになる。
今から掘るのは無理だ。いくら土の魔術が得意だと言っても魔力総量が少ない私では、今の状態では足りない。恐らく魔力切れを起こしてしまう。
「……しょうがない……。今日はこれで我慢するかな」
水瓶に魔術の詠唱を始める。
「水鏡の、水の流れ道教え、清廉なる水簾をここに!」
詠唱を終えるとかざした手から少し離れて水がじょぼぼぼぼと出てくる。
大気中や土の中の水分を集めて飲める程度に綺麗にして手から放出する魔術だけれど、使いすぎると自然にも周りの環境にも良くはない。
必要最低限にとどめておくべきだろう。
土中の水分はトレントのご飯だし。
水瓶にある程度溜まったら魔力の放出を止める。
少なくとも今日はこれくらいで大丈夫かな。お風呂は入れないけれど、料理と体を拭くくらいはできる量だ。
水を入れた水瓶より一回り小さな瓶に柄杓で水を入れる。
キッチンまで持っていって柄杓で掬い、手を洗った。
「さて、まずはリンゴで酵母を作ろう」
包丁でリンゴを適当な大きさに切ってから瓶につめて水をいれ、蓋をする。
魔術で密閉して、発酵するに任せるのだ。
これでパンを焼くとリンゴの香りが際立つパンになる。
……酵母ができあがるのは自然に任すと3週間くらいかかるから魔力が回復したら魔術で促進させよう、うん。
涼しそうな場所に置いて次にとりかかる。
「次はジャムかコンポートよね……。うん、この際一緒に作ってしまおう!」
調理に関してはそこそこの自信があるつもりだ。
うん、30歳だから。紡時代も合わせると10年くらいはやってるんじゃないかな。
皮を包丁で剥きながら鼻歌を歌う。
ふんふふんと。
赤ワインを鍋にドボドボと入れた。ドボドボと。……一瞬オデのワインはドボドボだ!とか言いそうになったけれど止めて置いた。
仮面を被ったライダーの人の有名な台詞だ。
リュックから魔封布に包まれた火の魔力を込めた軽石を取り出す。
火山の溶岩から取れたもので、簡単な詠唱で熱を発するのだ。
火の魔力は他から影響を受け易いために、魔力を封じる布で覆ってある。
詠唱での誤動作も防げるしね。
これも封入した魔力が切れると使えなくなるので早めに薪を用意しなきゃだなぁ。
カマドに軽石を置き、詠唱する。
ワインが煮立つ前にリンゴの種と芯を切って置こう。
ジャムの方は小さく切って砂糖と煮て、それでも余ったらカマドから出る熱でリンゴチップにしよう。
楽しいな、うふふん。
やっぱり何かを作る事ってすっごく好き。
パタパタと動き回っている時間は何も考えなくていいしね。
窓の外でトレントが欠伸をするのが見えた。
ぽむとぽこは軽いイビキをかいている。
リンゴの香りが漂う中で太陽もゆっくりと黄色から朱へと色を変えて行った。
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