第四話 世界を信じきれない彼は
「ただいま」
冷たい匂いの漂う部屋から返事が返って来ることはない。自然と下がる視線の先、靴一足さえ置かれていないスッキリし過ぎた玄関。ふと漏らした溜息の隙間から、言葉が力なく零れ落ちた。
「……落ち着かないなぁ」
美咲お気に入りのゆるキャラスリッパも、花瓶の横に置いてあったはずの家族写真も、一歩ごとに強くなる煮干しとお味噌の香りも、部屋干しの洗濯物の湿りっ気も――――何もかもが足りない。あぁ、そうだ。この部屋には、足りないものが多過ぎる。
成人してからも「お兄ちゃん、お兄ちゃん」とずっと付いて来た妹だったが、本当に依存していたのは自分の方だったのだなと、改めて自覚する瞬間だ。
玄関の扉を開いた先、一番奥には西向きの窓。赤く頬を染めた空が段々とその熱を失っていく様を漫然と眺めた。唐突に始まった新生活に差す陰りの様で、独り残された寂しさが瞼の奥を刺激する。
違う。残されたのは美咲の方だ。朝は強がってみたものの、彼女が取り乱す様が容易に想像できる。でも美咲ならこんなとき――――ふと、彼女が贈ってくれた言葉が脳内に反響した。
そして自らの意志でこの部屋に言葉を刻みこむ。
「ネガティブ禁止!」
バシッと両頬に気合いを一発ずつ。そうだ、俺達兄妹はどんなときもそうして来たはずだ。
さぁ片づけて飯の支度をしようか。痛む前に冷蔵庫に早くしまわないと。
ドラッグストア、ホームセンター、スーパーマーケットを巡って補充した食糧や必需品、本屋で手に入れた地図や参考書を、玄関口から部屋の真ん中に鎮座する黒いちゃぶ台の上へと次々移動させる。米びつやらトイレットペーパーのかさばる物が多くて中々難儀な買い物だった。
自転車を早めに買わないとな、と特売でゲットした肉やスライスチーズをチルド室に移動させながら思う。できれば原付の免許も夏休みにさっさと取ってしまいたい。襲撃で駆け付けなくちゃいけないなんてこともあるかもしれないし、足はしっかり確保するに限る。今朝その重要性を思い知ったばかりだしな。
そうだ、普段の自分なら、どんなに間違ってもあんな行動に出るはずはなかった。結局窃盗をしてでも逃げるという卑怯最低極まりない判断をしたのは自分だ。それは認めるしかない罪だ。気が動転していたとか、浮かれていたとか、そういった要因も多少はあったかもしれない。
しかし、あのとき感じた異常なまでの危機感。本能と呼ぶべき怖れの感覚は何だったのだろうか――――心当たりはあった。自称女神が言っていた『刷り込み』という言葉。電話口で自然と新たな名前を呟いた時の様に、意志とは別の力で身体が突き動かされる恐ろしい感覚。あの衝動に対してもっと注意を払った方がいいのかもしれない。下手をすれば存在証明さえ危ぶまれるかもしれないのだから。
それにこの世界についての説明も気にかかる。この世界にあった身体に死後の魂を定着させているようなニュアンスを彼女は漂わせていた。いくつもの想像が浮かび上がってくるが、最も確率が高いと踏んでいるのが次の線だ。
この世界はゲームを元にして作られ、そこに生きる人間たちは人形に精神やプログラムを植え付けられているもの。そして『小柴賢治』という人形に与えられていた精神を上書きするようにして、死後の俺の魂と精神を定着させていた。そしてその精神が俺を『小柴賢治』であると自覚させたり、強く本能を揺さぶったりしているというもの。
中学生にありがちな妄想話。でも既におとぎ話の主人公のように生き返っている自分の立場からすれば、我ながら納得が行く設定だ。
年齢の差はあれども前世と変わらない肉体、俺が『記念すべき第一号』と呼ばれたこと、エンディングまで『3年間のリミット』、そして『魂の初期化までの時間』、これらの言葉が差し示す意味を、生死を司る女神の立場から更に深く考えてみる。
俺が選ばれた理由、転生させることのメリット、そしてデメリットを考えろ。たかが一人の人間を守っただけで生き返らせてもらえるなんてことがあるわけがない。あの女神は何かの打算が絶対ある。検討外れでも良い。最悪に備えるためにも頭を回すのだ。
カチリ、と小さな音が、脳の真ん中――――そのずっと奥深くで鳴った。まるで今まで軸がずれていた歯車が噛み合ったような、そんな気がした。こんな案はどうだ?
元の肉体と近くなければ魂が定着しないのなら、適合するものが見つかったのが偶々俺だったのなら、『3年間』でというリミットは『魂の初期化』により俺の人格が元の精神に呑まれて消失する可能性だとしたら――――恐ろしい話だ。でもこれならあの女神の電話口での態度も理解できる気がする。何が『とりえずの期間』だ。
それともう一つ重要なファクターがある。何故ゲームの世界を模して作らねばならなかったのか。ただのオタク趣味、なんてことはあり得ないだろう。その必要があったから、その方が都合のいい要素があったからのどちらかに決まっている。
女神は死後の魂が初期化されて生まれ変わるまでの『狭間の世界』を作ったと言った。並行世界とか、異世界とかがどれだけ他にあるのかは全く分からないが、世界を作るということは一筋縄で行かない大作業なのだろう。そして彼女は『女神たち』と神々が複数いる様なことを仄めかした。
もし世界の維持自体が酷く不安定なものだとしたら、他の世界の存在を脅かすものだとしたら、神々は一枚岩ではなく反対派が存在していたのなら――――排除するための力が必要だ。
俺が生きていた地球には後にも先にも創作物の世界にしか、他世界からの侵略や神々との戦いは存在しない。そして彼女が言っていたゲームタイトル『神聖・赤薔薇学園』という言葉。『神聖』という部分が神々からの加護の類だとしたら……それを使って戦う物語だとしたら、彼女たちにとって非常に都合のいいゲームのはずだ。やはり、俺はモルモットでしかないのか?
考察の余地があり過ぎる。むしろ疑えと言わんばかりに自称女神は無責任な言葉をバラ捲いて行った。
考える度に深まる疑念。いかん、考察というよりまたネガティブ入って来てるな俺。悪い癖だ。
「ネガティブ禁止!」
空気を入れ替えるべく窓を全開にした。アパートの庭に植えられた桜の花が手に届くぐらいに近い。満開の花が涼やかな風に流されていく様は雅な物だ。
本当なら夜桜を見ながら冷酒と行きたかったんだけどなぁ。せっかくの窓辺からの見渡せる景色が少し勿体ない。高校生であるこの体ではお酒は封印だ。そのときまだ生きていられるかは分からないけれど、あと四年はずっと先の話。長い。しばらくは風呂上りの牛乳で我慢するか。
夕食は春キャベツとモヤシを豚小間と共にみりん醤油で炒めて御飯に載せ、生卵をかけて頂く。所謂手抜き料理だが、自分一人ならこんなもので良いだろう。それに朝食抜かした分、昼に定食を食べ過ぎた。
「頂きます」
一人、手を合わせる。先日まで上京してきた妹と二人暮らしだったから、話す相手が居らず、料理食べてもらう相手が居ない夕食はどこか落ち着かない。
お行儀が悪い、と言われそうだが、大学受験用の参考書を開きながら丼を口内へかき込んでいく。買ったばかりの使い慣れないフライパンだった上に初めてのIH調理だったため、モタモタしている内にモヤシに火を通し過ぎた感がある。火加減が見えないというのはどうもやり難いものだ。
片栗粉を買い忘れたため、多少ぱさ付きが気になる豚肉を生卵を絡めて誤魔化しゆっくりと咀嚼する。箸を止めている間に日本史の参考書を流し読んだ。嘗ての高校時代は地理・公民の選択だったため分からない単語も多かったが、前の世界の常識と照らし合わせてみても特に乖離している部分はないようだった。そう思いつつ一気に後ろまでページをめくると、明らかな異常が見つかった。
「政治家が全然違う」
戦後ぐらいから明らかに歴史が変わっている。朝のニュースではチェックしきれていなかったが、知っている党名も載ってない。驚き半分、そりゃそうかと納得も半分だ。現世で生きている人間と全く同じ政治家がこの世界にも居たら不味いという訳か。ってそれよりこの調子だと現代あたりはしっかり見直した方がいいということが発覚した。明日は実力テストなのだから。間違えるのは良いが、明らかに実在しない人物の名前などを書くのはよろしくない。
今晩やっておくのはその辺りだけで良いだろう。他の教科に関してはノータッチで行くことにする。高校最初のテストなのだから所詮は中学レベル。漢字や綴りは結構忘れてそうだが、それでもこの前まで中学生だった子供たちには負けるわけにはいかない。
教科書類は一切手元になく、既に大学受験に焦点を合わせて参考書を買って来たためむしろ中学生レベルでどこまでの範囲をやるべきかどうかすら分からないのだ。
これからの学校生活、高校の予習は3年分やっているようなものだし、それ以外で勉強をする理由があまりない。模試は3年用のを早めに受けておいてレベルを上げ、もっとレベルの高い大学目指すのも楽しいかもな。
学園異能力バトル、学園ロボット物であった場合の世界考察全般が杞憂で済むならば、他の路線だと最近流行りのクイズゲームよろしく受験をテーマにしたものということも考えられる。3年間でエンディングが決まることを考えると、その路線も頭の片隅に入れておいて損はないだろう。
というか、ゲームなんだからきっとステータスとかあるはずだよな。メニュー画面なんかが脳内に表示されるっていう素敵なシステムはないものだろうか。人目がないし試すなら今か。
瞳を閉じて声に出してみる。
「メニュー」
反応なし。むむっ、半透明なブルー背景のウィンドウを思い浮かべながら……
「システム」
やはり反応はない。言い方を変えてみて……
「ステータス」
無理か。あたりまえだけど無理だった。本人には見えない仕様なのか、覚醒イベント以降でないと呼び出せないとかであろうか。
さて、どうしよう。ステータスはあるという前提で鍛えておく方が絶対良いとは思っている。この手のステータス上げで定番なのは恋愛物の巨編、バキバキメモリーズみたいなシステムだろうか。勉強したり、運動した分だけ、体力や知力のステータスが上がっていくというアレだ。でも実際、俺の中身は元社会人だから知力はあるはずだしな。後回しでもいいか。
「さて、腹ごなしに走って来よう」
丼物だったためペロリとすぐに食べてまったので、さっと洗い物を済ませるとスーパーの二階で安売りだった運動靴に履き替える。正直ダサい。でも妹より年下な子供相手にモテる必要はないし、普段の通学は革靴なのだから日常生活に支障はないと思う。
「まずは一時間だな」
念入りに柔軟を行い準備を進める。虎さんから貰ったウェイト一式を装備しているし、無理はしない程度が良いだろう。「兄貴から貰ったコレを付けていたら背も筋肉も急に付いた!」と、背の低いことを悩む俺のために虎さんが譲ってくれた素晴らしいアイテムである。多分ヘビィ級レベルの一つ5kgぐらいはありそうな物だ。しかし今日一日着けてみると、意外と慣れてきた感じがする。この調子ならばあのハーフを見返す日は意外と近いかもしれない。
「しゃあ! テンション上がってきた!!」
夜に怪物に襲われたところで異能が覚醒したりとか、未熟な俺を助けるべく熟練者のクラスメイトに助けてもらうとか、そんな展開があるかもしれないと期待しつつ夜のジョギングに向かう。
しかしそんな期待も虚しく、何事もなく帰って来た俺はシャワーの後に再び筋トレしながら勉強に励んだ。そして健やかなる成長のために日が変わる前には真新しい布団に潜り込む。
「あ、生徒会に殴りこみ行くの忘れた」
学園物と言えば生徒会。意識が落ちる前にふとそんな事を思い出した。うん、明日にしよう。