仮初の日々
はっと、僕は目を覚ます。
そこは河川では無かった。どこかの室内、しかし、見えるはずの天井は暗闇が覆い隠し、その姿を見ることが出来ない。
だが、そこがどこかすぐに解った。よく知った匂いがしたからだ。微かに漂う、ラベンダーの香り、彼女が好んで使うシャンプーの匂いだ。
そう、ここは、僕と彼女の二人だけの部屋だ。疑問は一つ、何故僕はここにいるのだろうか?
「そうだ、俺はドレッドと話していて……」
――彼女を救いたいと思うのなら、足掻け。 5時55分の壁を乗り越えろ。 そして、その先にある真実を見極めろ。
ドレッドの言葉が脳裏によぎる。
「……彼女を、救うだと?」
彼女は健康そのものだ。別に不安になるようなことは何も無い。だが、しかし……
彼の言葉は次々と疑問を呼び起こす。
そうだ、5時55分。 何故、僕はこの時間に寝てしまうのだ?昔はこうでは無かったはずだ。大体、徹夜することが普通にある『漫画家』という職業において、5時55分に寝てしまう人間が務まるはずがない。
何よりも不思議なのは、このことに一切疑問を感じなかったことだ。5時55分。何故、この時間に眠くなる?もしかしたら、彼のいったように、この世界には本当に謎が……
……きゅるきゅるきゅる…カチリ
「いや、馬鹿馬鹿しい」
この睡眠は、病院で病気だと診断されたではないか、長い間、無理が多寡っての結果だ。こればっかりは、一生かけて付き合っていくしかない。そうだ、そうだったはずだ。
それでも不安が消えない。ふと、彼女の姿が見たくなった。彼女はこのアパートから出ない。なら、すぐ見つかるはずだ。案の上、彼女の姿はすぐ見つかった。電源の入っていないTVの前、何も映らないブラウン管の前で、目をつむり、じっと動かずにいる。
ここから、TVまでかなり距離がある。普通、この暗闇では、彼女の姿は見ることが出来ないはずだ。
だが、僕の網膜には彼女の姿が写しだされている。
その姿は、美しかった。祈るように、両手を合わせ、TVと向かいあうその姿は、高名な彫刻家の作り出した作品のようにも、神に祈りを捧げる巫女のようにも見え――そして、同時に不安になった。
儚『すぎた』。その美しさは、この瞬間にも消えうせてしまうような幻想的な美しさだ。それが、僕を不安にさせる。
「奈緒!!」
夜にも関わらず、僕は叫んでいた。そして、わあ!と奈緒が飛び跳ねる。
「え、ええっと……せんせ、ど、どうしました?」
振り返った彼女の顔は、いつもと同じ彼女だ。
「あ、ああ。ごめん。なんでも、無い」
内心、ほっとし、そして、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「そうだ、今、何時? 僕は河川で意識失ったはずだけど……何で家にいる?」
その言葉に、奈緒が動揺を示す。指が世話しなく動き、何故か僕から視線をそらす。
「ええ、と、今は12時を回ったところです。せんせは、その…そうです!親切な人が家まで送り届けてくれて…」
「そうか、ドレッドの奴。 友達じゃない、とか言いつつちゃんと届けてくれたか。 でもあいつ、僕の家、何で知っているんだ?」
「…ドレッドさん、ですか?」
頭の上でクエッションマークを浮かべる彼女、その不思議そうな顔を見て気づく。そう言えば、彼女にドレッドのことを説明したことが無かった。
「ほら、この部屋まで送ってくれたのって、ドレッドヘアの黒人だろう? 彼とは……あー、彼は、なんというか知人でね」
「ドレッドヘアの、黒人?」
「あれ? 違う人だったか?」
となると、あの馬鹿は倒れこんだ僕を放ってどっかいったということになる。あの野郎、今度あったら締めてやる。
しかし、そういった感情は一瞬で消えうせた。彼女の体が震えているのに気づいたからだ。
「せんせ、もしかして作務衣とか着ていませんでしたか?」
「あ、ああ。知り合いか?」
知り合いなのだろう。だが、仲が良い訳では無さそうだ。彼女の真っ青な表情、その顔に浮かぶのは、間違いなく恐怖だ。
「せんせ。 その人に近づいたらダメです」
「な、奈緒。確かに変な奴だが、そんな悪い奴じゃ」
「彼が良い人か、悪い人とか関係無いんです。 彼は、ここにいちゃいけない人なんです!」
「奈緒、一体何が……」
わからない。何が彼女を怖れさせているのか?
彼女を救いたければ、そう言ったのは、ドレッドだ。彼は妄想に取り付かれているかも知れないが、人に危害を加えるような人間では無い。
「お願いです。 家から出ないで、私と一緒にいて」
「でも、奈緒。買い物はどうする? やっぱ、僕が買い物にいかないと」
「お願い」
彼女の震える手が、僕の袖を掴む。その仕草に僕は、ドキリとした。彼女は常に微笑んでいた。僕のすべての行動を肯定し、支えてくれていた彼女。その彼女が初めて、僕に不安を見せた。
彼女の初めてのお願い、そして、もしかしたら初めて見たかもしれない、彼女の生の感情。
「そんなの、断れるはず無いじゃないか」
「え?」
僕は、ぎゅっと、彼女を抱きしめる。
「わかったよ。 奈緒の気が清むまで、僕はここにいるよ」
その言葉に、彼女の顔がくしゃり、と歪む。
「あり、がとう」
嗚咽混じりの彼女の言葉、彼女の手が背中にまわり、力の限り抱きしめてくる。
涙交じりの顔だが、その表情もとても愛おしい。不安になっている彼女に悪いが、この時が永遠に続いてほしいと、願ってしまった。
「これで、いいんだろ」
彼女を抱きしめながら、僕は、自分にいい聞かすように呟く。
――ドレッドの言葉はあっという間に記憶の中へとまぎれていった。
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永遠にも思えた時間も、案外あっさりと過ぎ去ってしまう。
残るのは、いつもと変わらない日常だ。変わったのは、僕が外に出なくなったということだ。
いつものように彼女と共に朝を迎え、いつものように夕方を迎え、僕だけが一日を終える。
その繰り返しの毎日。単調だが、穏やかで幸せな毎日。
この日々がずっと、続くと思った。そう、思っていた。