5時55分
「せんせ、時間だけは、気をつけて」
了解、と言い残し、3時頃、僕はアパートを出る。
夏は日が長く、まだ外は明るい。空には見事な入道雲、燦々と照りつける太陽が、露出した腕や首筋をチリチリと焼く。
外から見るアパートは内面と変わらずボロボロだ。いつ倒壊してもおかしくない外見に、減り何を書いているのか解らない表札。
戦前からあったと言われればそのまま納得出来きそうな佇まいだ。アパートの前には、川が流れている。
河川の先を見ると、何人かの子供達が遊んでいる。ザリガニを捕まえようとしているのか、岩場に手を突っ込んでいる。東京では見られなかった田舎風景、その光景をぼんやりと眺める。
心が、とても安らぐ。その風景を見るのは僕一人だ。彼女はアパートにいる。僕の漫画以外の趣味といえば、散歩だが、何度誘おうと彼女は頷いてくれない。やはり、爺さんっぽいかと少し凹んだが、どうやら、それだけではないようだ。
彼女は外に出たがらないのだ。頑なに外界との接点を絶とうとする理由は解らない。僕も引きこもりに近い生活をしていたが、彼女のそれは、どこか違うような気がする。
イメージするのは、鳥籠。羽ばたくことを諦めた小鳥。
つまりは、自主的に引きこもっていた僕と、強制的に引きこもらされた彼女と閉じ込められた僕とでは境遇が違うのだ。
「しかし、そんなこと強要した覚えは無いのだが」
それとも、僕以外にそうなるよう彼女に仕向ける者がいるのだろうか?
「まさか……ね」
所詮は勝手なイメージだ。そう、頭を振りかぶる。
まぁ、そんな理由で、僕が買い出しに出ないと三日後には二人分ぼ干物が出来上がってしまう。
なので、僕がこうやって、趣味を兼ねて外出している。河川沿いある個人経営のスーパーに入り、そのまま食材を購入。そして、スーパーを出てきた処、足を止める。
スーパーの正面の川べり、座り込んでいる大人の周りに子供達が集まっている。見覚えなる後ろ姿……と、いうより髪型だ。
面倒臭い人物に会った。気づかれないうちに、横を通り過ぎようとするが……
「よお、先生。元気か?」
見つかった、無視する訳にもいかず、その人物に話しかける。
「やあ、ドレッド。今日は釣れている?」
「はっ、見りゃわかンだろ」
そういって、ドレッドはバケツを指さす。いつも通りのやりとりと、いつも通り変わらない空のバケツだ。
「全然だよねー」「ドレッドだっせーーー」「ばーか、ばーか」
黙れ、ガキども!とドレッドと呼ばれた青年が吼える。
ドレッド、そのあだ名は彼の特徴をよく捕らえていた。尤も、それで彼の特徴を完璧に捕らえている訳では無いのだが……
流暢な日本語を喋るが、人種で言えば黒人、そのドレッドの名は見事なドレッドヘアからついたあだ名だ。それだけでこの田舎町で浮いているのだが、さらに特徴的なのが彼の格好だ。服は作務衣、胸元には金のネックレス、片手には釣り竿、指には金の指輪、頭には麦わら帽子、目にはサングラス、そして、腕には釈迦のタトゥー、というよりは入れ墨。そんなチグハグな格好のせいで外人というよりは異世界人のような印象をうける。
彼は、常にここにいる。出会った時から変わらず、この場所で釣り糸を垂らし、対岸を眺め続ける。
「で? 先生、謎は解けたかい?」
「……また、その問いかけか」
この地で数少ない知人の一人だが、毎回、聞かれるこの問いかけには正直、辟易する。
『この世界には、謎がある。 先生、あんたがすべきことは、その謎を解くことだ』
どうも、何らかの怪しい思想に取りつかれているようだが、害はないようなので、こうして顔を合わせる度にこうして話している。
「世界に謎なんてないさ」
最も、最近は毎度、毎度同じことを聞かれるので、返す言葉も返ってくる言葉もいつもとかわらない。
「ンだよ。先生。毎回、同じ回答じゃないか。 漫画家の癖、夢が無いな。 あんたファンタジーもの書いていたンじゃねぇのか?」
が、今回は少々展開が違った。僕は小さくため息をつく。
「漫画家だからこそ、だよ。 この世界の完璧さに失望したからこそ、せめて漫画で夢を表現したかったんだよ」
「ふむ、ま、せんせの言うことは正しい。世界を支配している物理法則っつー暴君は誰様であろーがてめぇのルールを押し付けてきやがる。 どんな摩訶不思議な現象であろうと、この世界にいる限りこの法則から逃れることは出来やしねぇ。 が、そんな暴君様も入ってこられない領域を、俺らは知っているだろーが」
「……何だ?それは?」
「あんたの漫画はどこから生まれてくる? この世界の法則に捉われないその世界はどこから生まれてくる? 考えろ。 答えは常にあんたの隣にある」
「それは、何だ?」
「それを解くのがあんたの役割だ」
「その口ぶりからして、君は答えを知っているのだろう? なら、もう解決だ。 以上、世界の謎編終了」
「あー、俺が解いても意味がねぇ。あんたが、解くことに意味があるンだよ」
そういって、ドレッドは川に視線を移す。
「ああ、そうそう、そいや、先生にお客さん来ているぜ」
その言葉に僕の頭に疑問符が浮かぶ。何しろ、ここにいる知人は限られている。
ドレッドが「おーい、もういいぞ」と声をかけると子供達の群れの中から、一人の少年が前に出てくる。
「あ、やば……」
つい、唸ってしまった。ドレッドの隣にいるのは仮面ライダーのお面――何故か、古き昭和ライダーRXのお面を被った少年だ。
「よーやく、会えたな! ショッカー!」
「だから、違うって」
ライダー少年が舌っ足らずな声と共に僕を指さす。人を怪人扱いするこの少年は、僕がここに引っ越してきてから最初に知り合った人物第一号だ。
「死ね!ショッカー!ライダーキーーック」
いきなり、蹴りをかまして来る少年を、ひょい、と避ける。
いつものパターンだ。この男の子は、どうしてか知らないが、僕を見る度に襲い掛かってくる。
「よ、避けるなんて、卑怯だ!」
「じゃあ、どうすればいいのかな?」
「うけろ!」「嫌だ」
即答する。まだ、体が出来上がっていない少年の蹴りだが、容赦無いのであたるとかなり痛い。
「みんな! 手伝え!」
「何? こいつさっき言っていた敵?」「じゃ、やっちゃおうか?」「リンチだ! リンチだー」
正義の心はどこへやら、ライダーの一声で、どこぞの戦隊のように数の暴力で攻めてきた。
「先生、仲いいじゃン」
「いた、いたたた。ど、どこがだ。 ドレッド、君には友人を助けようという気はないのか?」
「あ? だって、友達じゃねぇし」
「そりゃ、そうだ」
だが、即答されると、かなり傷つく。それにしてもこのままだとかなり困ったことになりそうだ。
別に肉体的なダメージは気にしていない。問題は別の処にある。腕時計を見る。現在の時刻は5時40分だ。
(あと、15分しか無い)
焦りが生まれる。5時55分、僕にかせられたタイムリミットが近づいている。
まさかこうなるのは予想外だ。逃げようにも上手く囲まれているので、逃げられない。まさか、子供に暴力を振るう訳にもいかないし
「おー、少年達。頑張れ。もう少し足止めしたらお小遣いやるぞ」
「あんた、僕に何か恨みあるかな!」
「先生、自意識過剰だぜ?」
「この状況で悪意を感じないほうがおかしいぞ!」
やれやれ、と大げさに肩をすくめるドレッド。無性に殴りたくなる。
「まぁ、こうでもしないと先生帰ってしまうだろう?」
「文明人らしく、もっと平和的な手段があるだろう」
「では、文明的に、お友達になるってのはどうだろう?」
友達ではない、と口にした奴からそんな言葉がこぼれ出る。
「今は恋人中心だ」
「そりゃ、残念」
そう、全く残念では無さそうにドレッドは言う。
「まー、話を聞いてくれたら、逃してやるぜ?」
「急いで帰らないといけないんだ。すまないが道をーー」
「解っているよ。解っているから止めているンだよ、先生」
何適当なことを、と言おうとして、そう言おうとした僕に、ドレッドはにやりと笑う。
「5時55分、だろ?」
その、言葉に、僕の心臓がどくん、と動揺を示す。
「何故、それを?」
『5時55分』に起きる現象、それは奈緒しかしらないはずなのに……
「言ったぜ? この世界には謎があるってな」
つまり、この男は『5時55分』に起きる現象が謎に通じているというのだろうか?
「ほら、先生。時計、見ろよ」
時計を見ると、5時54分。しまった!!
「タイム・オーバー、だ」
(間に合わない!)
カチリ、と時計の針が進む。瞬間、体の力が抜け落ちた。地面に激突する痛み、同時に、それをうち消す程の眠気が押し寄せる。
「せんせ、これが、時間こそがあんたが乗り越えるべき壁だ」
『5時55分』になるとスイッチが落ちたかのように寝てしまう、そんな僕の体質を、ドレッドは見下すように観察する。
「……疑問に思わなかったか? いつから、その体質になった?」
思い出せない……考えられない。頭が、ぼんや、りと……
「このクソッタレな日常を謳歌するのも、まぁ、いいだろう。確かに、平穏はあんたには害は無い、だが」
そこで、ドレッドは、言葉を切る。言葉を選ぶように、考え込み……そして……
「彼女を救いたいと思うのなら、足掻け。 5時55分の壁を乗り越えろ。 そして、その先にある真実を見極めンだ」
その言葉を耳にした瞬間、僕の意識は闇へ墜ちていった。
闇の中で音がする。何かが急速に巻き込む音だ。
きゅる、きゅるきゅるきゅるきゅる……カチリ
再び、ゆっくりと回転を始める。
そして、ゆっくりと意識が浮上する。