表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

文字を書く

作者: すがはら

私の恋人は小説家だった。いや、彼のことは物書きと呼んだほうが正しかったのかもしれない。何故なら、彼が書く小説の全てが彼の実生活に基づくものだったからである。私は彼のように言葉に深く関わっているわけではない。小説という言葉の定義やその根底にあるものなどについてよく知っているわけでもない。よって私が彼の職業について口出しする権利はこれっぽっちも持ち合わせていないわけだが、それでも私はなお、彼を小説家とは認めたくない。彼が書くのはただの文章だった。私は彼のそれに何の感慨も覚えない。


「僕はただの小説家だから」


彼は自分のペンネームを説明するとき、よくその表現を使った。私はその言い訳を聞いてただ納得していたけれど、周囲の人たちは違った。その中にはもちろん、将来文章を書いて生きていきたい人がたくさんいた。小説家を目指して、血の滲むような努力をしている人がたくさんいた。彼の言葉はそんな彼らの努力を踏みにじった。彼らが思い描く小説家と私の恋人が思い描く小説家は、完全に食い違っていた。彼のペンネームは、今となってはもう思い出せない。正確には一つ思い浮かぶ名前はあるのだけれど、それが彼の本名だったのかそれともペンネームだったのかが思い出せない。もしかしたら二つの名前が混ざってしまっているのかもしれない。私は今、それさえもわからない。


「大野さん、郵便です」


私と彼が丁寧に手入れしていた芝生を踏みながら、どこから来たのかさえわからない郵便局の職員が私に声をかけた。花に水をやっていた手を止めてその顔を仰ぎ見れば、まだ高校を卒業したばかりかという若い青年だった。しかしその顔はもう世間の煩さにしかめられていたし、口元も決まった角度で笑うよう躾けられていた。


「ありがとう。そして、その芝生、あまり踏まないようにして帰っていただけると嬉しいのだけど」

「わかりました」


青年の笑顔が崩れることはなかった。それは尊敬に値するなと、亡くなった自分の恋人を思い出しながら少し笑った。彼は嘘が吐けない人だった。それゆえに、他人を無意識に傷付ける人だった。青年によって、ぴんと張った背を、懸命に伸ばしたそれをむげにされた芝生が、私には彼に群がっていた物書きに見えた。よく遊びに来ていた女性や中年男性を探せば、ひょっこりと芝生のどこかから顔を出す気がしてならなかった。振り払って、扉の中へ戻る。


彼の遺作を本棚から引き抜いて開けば、少し古びた香りがした。この本はそんなにも長い間読まなかっただろうかと思って表紙を見返すと、ああなるほどと合点がいった。それは彼が最後に書きあげたものだった。それなりに成功した小説家が、周りに妬まれ苦しめられ、そして死にゆく。そんな筋書きだった気がする。よく覚えていない。その話の中に一人も女性が登場しなかったことだけを覚えている。彼の書くものは全てが事実だった。物語などではなかった。特にその最後の作品は、彼の自伝とも呼ぶべきものだった。なのに、それなのに、彼と十数年連れ添った私は、どこにも登場していない。私らしき人物もいない。性別すら認識されていない。


「すみません」


聞こえた声に覚えがあり、扉を開いた。やはり先ほどの青年だった。もう一通渡すのを忘れていました。そう言って彼は私に封筒を差し出した。宛先を確認して、それが事務連絡の類だと知る。


「それじゃあ僕はこれで」


そう言ってまた笑ったその表情は、やはり作られたものだった。扉を閉めて少しぼうっとしていた。数秒経ってから隣の窓から外を覗けば、芝生を踏み歩く後ろ姿があった。溜め息をつく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 文章がすごく綺麗で、堅くてきちっとしているのにするする読めました。しみじみとした読後感が残ります。 [気になる点] 少しオチがわかりづらい、気がします。二重人格…という事で良いのでしょうか…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ