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Wonderwall

掲載日:2026/06/16

 あなたは、音楽を聴いて感動したことがあるだろうか?


 心を揺さぶられるような鑑賞体験はあるだろうか?


 私はある。忘れもしない、3月のあの日、駅前でのこと。


 高校受験を終え、中学生活最後の春休み真っただ中だったその日、私は一人、遊び半分、買い物半分で、街中に出かけていた。


 用件を終え、家に帰ろうと思いターミナル駅の前に着いた時だった。ふと聞こえた音色に導かれるように、私は足を向けた。


 壁の一部がアート作品になっている場所。その前で、彼女は歌っていた。カーキ色の長袖シャツに、手元には一本のギター。背丈は私と同じくらいだが、綺麗な長い黒髪が、どこか大人びて見えた。


 どうして足を止めてしまったのか、自分でもわからなかった。演奏や歌唱がとびきりうまいわけでもなく、言ってしまえば、取り立てて特徴のない弾き語り。日本語には聞こえないその歌に、足を留める人は他にいなかった。それでも演奏を止めることなく、一人でけなげに歌いつづけていた姿が、印象に残ったのかもしれない。


 気付けば私は、歌唱が終わるまで聞き入り、拍手まで送っていた。


 演奏が終わって真っ先に、彼女に話しかけた。


「あの、今の演奏すごくよかったです!」


「……ありがとう」


 思いを素直に伝えると、素っ気なく感謝の言葉が返ってきた。


「今の、なんて曲ですか?とてもいい曲でしたけど」


「“Wonderwall”。オアシス知ってる?」


「オアシス?っていう曲なんですか?」


 どちらが曲名なのかわからなかったので、率直に質問すると、笑いが返ってきた。


「違うよ、オアシスっていうバンド。イギリスのね」


 私はといえば、相手の反応に構う余裕もなく、ただただ驚くばかりだった。


「すごい、英語歌えるんですね」


「いや、音で歌詞を覚えてるだけ。英語の成績もよくないしさ」


 笑いながら言う彼女の瞳は、どこか寂しげだった。


 もっと話したい。そう思って口を開こうとすると、ふいに彼女は


「ごめん、もう帰らなきゃ」


 とだけ言い、ギターを背負ってそそくさと去ってしまった。


「また明日も歌うんですか?」


 引き留めるような私の問いに、一瞬の間をおいて


「さぁね!」


 ギターの大きさが目立つ背中から、短い答えだけが聞こえた。


 その日からというもの、私の頭の中から、“Wonderwall”が鳴りやむことはなかった。オアシスについて調べ、曲を聴き、収録されているアルバム“(What's the Story) Morning Glory?”まで買い、毎日何回も聴いた。激しいロックサウンドのなかに、どこか寄り添ってくれる優しさがあるような気がした。


 もちろん、名前の知らない彼女についても徹底的に調べた。YouTubeかインスタか、どこかに路上ライブの様子が載ってないか、はたまた彼女自身が載せてないかと思ってしらみつぶしに検索したが、いつまでたっても見つかることはなかった。そういえば、路上パフォーマーはよくSNSのアカウントを載せた張り紙を掲示したりしているけど、彼女の場合そのようなものはなく、ただギターを持って弾き語りをしていただけだ。


 馴染みの場所で弾き語りをしていた、同い年くらいの少女。またいつか会えるだろうと、心のどこかで無意識に思っていたのかもしれない。こうなるくらいなら、連絡先でも聞いておけばよかった。唇を強く噛む。だが残るのはわずかな痛みだけだ。何かを掴みたくて、彼女の背中に必死に追いつきたくて。そんな思いだけが日々募っていく。でも、私には“Wonderwall”を聴くくらいしかできなかった。


 ギターを弾くようになれば彼女に会えるんじゃないかと思いついて値段を調べ、未成年にはおいそれと買える値段じゃないと知り、目の前が真っ暗になったりもした。


 そうこうしているうちに、高校入学の日がやってきた。新しい環境に慣れることや、それに対する楽しみばかりが頭の中を支配して、あのギター少女のことを忘れかけていた、その時だった。


 新しい校舎の新しいクラス。五十音に並んだ席順での自己紹介の時間。ただひたすら、さっさと終わってくれと思っていた私の耳元を、聞き覚えのある声がなぞった。


「影山詠歌です」


 瞬きする間もなく、声のほうに首が向いた。髪こそ短く切られているが、見間違うはずがない。あの日、駅前で一人歌っていた彼女が、新入生の海に混じって、まっすぐ立っていた。今はその背中が、少し頼りなく見えた。


「好きなことは……今は特にないので、ここで探そうと思います」


 そう言って詠歌はゆっくりと礼をした。席に腰かけ、人の波に消えた詠歌の姿を、私は眺め続けていた。あの時の長袖シャツではなく、皆と同じ学生服に身を包んだ詠歌。それでもやっぱり、どこか違って見えた。


 視線に気づいたのか、ふと詠歌がこちらを向いた。とっさに目をそらしたが、一瞬見えた微笑みが、脳裏に焼き付いて離れなかった。


 同時に、私は何か心に引っかかるものを感じていた。


「好きなことは特にない」


 確かにそう言っていた。じゃああの時、駅前で歌っていたのはなんだったの?


 ホームルームが終わり、昼休み。私は真っ先に、廊下をひとり歩く詠歌に話しかけた。


「ねえ、あの時駅前で歌ってた人だよね?」


「……うん」


 詠歌は一瞬の間をおき、絞り出すような声とともに頷いた。


「やっぱり!また会えるなんて思わなかったよ!私、宮原詩織。よろしくね!」


「ああ、うん、よろしくね」


 私が名乗ると、詠歌は興味なさそうに、感情を載せていない声で答えた。


 一か月も経っていなかったが、久方ぶりの再会に、私ははやる気持ちを抑えられなかった。あの日、独りで必死に歌っていた彼女が、目の前にいる。それだけで十分だった。だから、詠歌の瞳が冷めている理由が、私にはわからなかった。


 とにかく今は、聞きたいことが山ほどある。中学時代のこととか、これからのこととか。それでも一番知りたいことは、すぐには聞けなかった。


「そういえば、影山さんは部活、どうするの?」


「うーん……特に決めてないかな」


 満を持して聞いてみると、返ってきたのは、判を押したような返答だった。


「軽音部は入らないの?ほら影山さん、ギターうまいし」


「ああ、あれ、もうやめた」


 遮るように、淡々と詠歌が答えた。思いもよらない答えに、私は上ずった声を出してしまい、ごまかすように作り笑いを浮かべた。頭が真っ白になり、紡ぐべき言葉が見つからなかった。


「え、それは……なんで?」


 散らかりそうな意識のなかで、私は単刀直入の質問を口にした。その時の私にとっては、これが精いっぱいの会話つなぎだった。


 詠歌は、何かを確認するように視線を左右させてから、ため息とともに声を放った。


「限界を、感じたんだよ」


 最初、詠歌が何を言っているのか、頭に入ってこなかった。だが、詠歌の強いまなざしが、すべてを語っていた。


「気づいちゃったんだよ、自分より上手い人なんていくらでもいるって」


 詠歌がどこか遠くを見つめていることに気づいて、私は言葉を失う。


「そしたら途端に楽しくなくなって……あの日で弾き語りも終わりにしようって決めてたの。そんで、最後くらい好きな曲で終わろうと思って、あの歌を」


 幼いころの思い出を語るおばあさんのような面持ちで、詠歌は語り続けた。


 その時、自分でも気づかないうちに、私は詠歌の両手を強く掴んでいた。顔が熱くなるのを感じる。だが、掴んだ手を離せない。


「そんなことないよ」


 詠歌の瞳をまっすぐ見つめる。沸騰した鍋のような心中とは裏腹に、私は一言一句、歯切れよく言葉を繋いだ。


「私、影山さんの……詠歌の“Wonderwall”を聴いて、感動したんだ」


 詠歌が目を見開く。


「私、あの歌を何度も聴いたし、歌詞についても調べたよ」


 言葉が途切れることなく、次から次へと湧いてくる。


「あれって『自分を救ってくれるかもしれない何か』について歌ってるんだよね」


 無言で頷く詠歌の表情はこわばっていた。自分でも気づかないうちに、私は険しい顔をしていたのかもしれない。


「それで、その……」


 と、ここにきて急に喉が詰まったように言葉が出なくなった。


 きょとんとした表情の詠歌から、そっと目を逸らす。小さく息を吸って、やっと口を開くことができた。


「……私にとっては、詠歌が”Wonderwall”かもしれないから」


 こんな何でもないはずのことを言うのに、心臓が壊れそうなくらい強く脈打っている。おかげで自分の声も聞こえず、詠歌に伝わったのかわからなかった。


 おそるおそる、視線を詠歌に戻す。


 戻しきれず、視界の端にその顔を認める。するとそこには。


「……手、離してよ、宮原さん」


 詠歌もまた、やり場がないかのように視線を逸らしていた。


「ご、ごめん!」


 私が慌てて手を離すと同時に、詠歌は


「ありがとね」


 とだけ言い残して、私のほうも見ずに去って行ってしまった。


 一瞬で血の気が引いた。


 それからは、詠歌のほうを向くことすらできなかった。同じ空間にいるのに、地球の裏側に来てしまったかのような気持ちだけが、ずっと心にこびりついて離れなかった。それでも、視界の端に詠歌の気配を感じると、それだけで火花が弾けるような感触がして。それ以上近づくことなんてできなかった。


 私の高校三年間は、初日にして終わりを告げてしまったのだ。


「どうしたの?元気ない顔して」


 母親の言葉で我に返る。


 目の前には、トーストと目玉焼き、そして数切れのレタス。


 もう、朝が来てしまった。


「え、そう?何もないよ!」


 作り笑いを浮かべ、味のしないトーストをコーヒーで流し込む。


 制服に着替え、重い足取りで玄関を出る。嘲笑うかのような、突き抜けるほどの晴天の下。爽やかな春の空気に包まれても、頭は上がらず、足を引きずるように歩くしかできなかった。


 灰色に染まっていく意識の中で、私は思い出したように、カバンから音楽プレーヤーを取り出した。


 イヤホンを刺し、真っ先にあの曲を再生する。


 静かな、それでいて壮大な物語の始まりを予期させるギターソロ。


 やがて、おっとりとした、だけど芯のある男性ボーカルが始まった。


“Wonderwall”。あの時、詠歌が歌っていた曲。そらで歌えるようになるほど何度も聴き、歌詞とにらめっこをしたあの曲。


 オアシスについてもまだよく知らないし、詠歌のことも全然わからないが、このままで終わりたくはなかった。


 こんな私を見て、詠歌はどう思うだろうか。消えてしまった心の火をつけようとする私は、他人の家を土足で踏みにじるようなやつと変わらないのかもしれない。


 それでも。詠歌が私にとっての”Wonderwall”であるように、もしかしたら、次は私が――。


 決めた。もう一度だけ、詠歌に言おう。あの時はうまく伝えられなかったかもしれないから、今度はしっかりはっきりと伝える。できるかわからないけど、でも私には、この歌がある。


 そんなことを考えながら、高校の最寄り駅で電車を降りる。とたんに、鼓動が高鳴り、汗がじんわりと滲みはじめた。


 だが、今更引き返すわけにはいかない。一歩一歩踏みしめるように歩き出す。リアム・ギャラガーの優しい歌声が、背中を押してくれるような気がした。


 気づけば、周囲には同じような制服の背丈たち。身体は熱さを増すばかりで、帰りたいような、帰りたくないような気分になる。教室に着くまでに、その後ろ姿を目にしたくないとさえ願う。


 だが、見逃すことはできなかった。見覚えのあるギターを背負った、短髪の女子生徒。生き生きとした後ろ姿が、視界に入ってしまう。


 心臓が跳ねた。立ち止まり、目を瞬きさせても、景色は変わらない。間違えようにも間違えられない。


 気づけば、私は駆けだしていた。答えはもうわかりきっているのに、この目で、この耳で、確かめないと気が済まなかった。息が詰まりそうだった。


「詠歌…!?」


「ああ、おはよう」


 やはり聞き覚えのある声が、私の耳をなぞる。二の句を告げずにいると、詠歌は肘でギターを指し、続けた。


「これ、持って来た。改めてよろしくね、詩織」


 そう言ってにこりと笑う詠歌の姿は、あの日、駅前で歌っていた少女と寸分たがわぬものだった。

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