第6話
外に出ると、町はすっかり昼の顔になっていた。
遠くで蝉が鳴いている。
「ここ、育った場所なんだよね」
「まあな。不運にも」
彼女は小さく笑って、すぐ自分で驚いた顔をした。
「お母さん、ずっと退屈な町だって言ってた」
「間違ってない」
ヘッドホンを耳に戻さず、首に掛ける。
角のコンビニの前を通る。
看板は変わっていたが、匂いは同じだった。
「昔、ここのメロンパンが一番うまいって言い張ってたな」
「……私、八歳とかじゃなかった?」
「そうだったな。思い出しただけだ」
古本屋の跡地と、昔のままの美容院に挟まれた小さな蕎麦屋に入る。
カウンターに並んで座った。
彼女はメニューを見ずに言う。
「きつねそば。ネギ多め」
「覚えてたんだな」
「全部は忘れてない」
「よかった」
少し間を置く。
「悪いことだけじゃなければいいけど」
料理が来る。
しばらく無言で食べる。
さっきまでとは違う沈黙だった。
身構える感じが、少し薄れている。
半分ほど食べたところで、彼女が言った。
「お母さん、私がここにいるの知らない」
顔を上げる。
「友達の家ってことにしてる」
ゆっくり頷く。
「電話するか?」
「いい」
それ以上は聞かないことにした。
会計を済ませ、帰りは川沿いを歩く。
濁った水がゆっくり流れ、葦が風に揺れている。
空の色が少し沈み始めていた。
無意識に目元に触れて、顔をしかめる。
「……それ、どうしたの」
「引っ越しでな。情けないだろ」
納得していない顔だった。
どう見ても、ただの事故には見えない。
土手で立ち止まる。
水面が空を細かく割って映している。
「お母さん、健一の話すると嫌がる」
足が止まる。
「ごめん、違くて」
「いいよ。分かる」
彼女は少し強い口調になる。
「嫌いってわけじゃないよ。ただ……過去の話、したがらないだけ」
「そういうもんだ」
土を蹴る。
「お母さんの彼氏、しょっちゅう出かけてる」
黙って待つ。
「女の人と。若い人。子供じゃないけど……若すぎる」
俺は頷く。
「普通に嫌」
小さく息を吐く。
「だから来たの。ここに」
声が低くなる。
「健一は、ああいう人じゃないから」
胸の奥が少しだけ詰まる。
「この町に来たかったわけじゃない」
「そこに居たくなかっただけ」
「それでいい」
「逃げ場所は必要だ」
花は頷く。
「勉強しろって、ずっと言われるの」
「人生もう決まってるみたいに」
「彼氏が?」
「お母さんのためって」
花は顔をしかめる。
「私、仮の人みたいに扱われてる」
少し間を置いて、俺は言う。
「……もっと、そばにいるべきだったな」
彼女は首を振る。
「追い出したの、健一じゃない」
ベンチに座る。
行き先のない水が流れている。
昨夜のことを知ったら、どう思うだろうと考える。
「学校は?」
「普通。受験」
「大変だな」
「うん」
突然、彼女が聞く。
「なんで戻ってきたの」
一呼吸置く。
「変えたかった」
彼女は少し迷ってから言った。
「お母さん、健一が戻ってきたのは逃げたからだって」
ゆっくり息を吐く。
「大人の問題だよ」
「背負うことじゃない」
「もう子どもじゃない」
静かな声だった。
「ただ……子ども扱いは、されたくなかっただけ」
土を見つめる。
「いろいろあったんだ」
「お母さんのことも、両親の葬式も」
少し間を置く。
「……患者が亡くなった。俺のせいで」
彼女が顔を上げる。
ちゃんと、俺を見る。
痣。
落ちた肩。
答えの出ない顔。
「……ごめん」
突然だった。
「なんで」
肩をすくめる。視線は地面のまま。
「いろいろ」
「俺もだ」
言葉は足りないまま、そこに残る。
彼女が小石を蹴る。
「いなくなってから、分かった」
「どれだけやってたか」
「……私も、もっと——」
「俺もだ」
被せるように言った。
それ以上は続かなかった。
でも、さっきよりは空気が柔らいでいた。
しばらくして、俺は言う。
「目のことはな」
「ちゃんと、もらうもんはもらっただけだ」
立ち上がる。
彼女も、少し遅れて続いた。
その夜、彼女はほとんど部屋にいた。
出てきたときはスウェットに大きめのTシャツ姿で、冷蔵庫を漁る。
少し安心した。
この家に、ちゃんと触れている感じがしたからだ。
部屋へ戻ろうとして、花がふと足を止めた。
「受験、もうすぐなんだ」
少し間を置く。
「ちょっと、遅れてて」
「どのくらいだ」
「……お母さんに、ずっと言われてるくらい」
小さく肩をすくめる。
「英語、教えるんだよね」
「明日からな」
迷うように視線を落とす。
「……ちょっとでいいから、見てくれる?」
胸の奥がじわりと温かくなる。
同時に、怖さも広がる。
頼られる資格があるのか。
本当に必要なのか。
期待していいのか。
「いいよ」
顔を上げないまま答えると、
花は小さく頷き、そのまま部屋へ戻った。
何も直せなくてもいい。
少しの時間を渡せればいい。
決めなくていい場所を。
それで十分だと、自分に言い聞かせた。




