第5話
右目の奥に鈍い痛みを残したまま、目を覚ました。
服にはまだ、うっすらと消毒液の酸っぱい匂いが染みついている。
家に戻るなり、洗面所へ行って鏡を覗いた。
腫れは落ち着いていたが、その代わりに、濃い紫色の痣がくっきりと残っている。
どう見ても、わざとやられたやつだ。
そっと触れて、息を吸う。
「……バカだな」
自分に向けたのか、鏡に向けたのか、それとも誰でもない相手か。
自分でも分からない。
顔に水をかけ、着替えを済ませ、窓を開ける。
家が、きしりと音を立てた。
まるで、俺と同じように、渋々目を覚ましたみたいに。
朝の光の中に、埃が浮いている。
この家は昔からそうだった。
静かすぎて、整いすぎていて、音を立てること自体が咎められるような場所。
時計を見る。
もうすぐだ。
ばらく台所に立ち尽くした。
冷蔵庫には食べ物はある。
でも、何をどうすればいいのか分からない。
首を振って、駅へ向かった。
電車は十分遅れで入ってきた。
息切れするみたいな音を立てながら、
誰も行きたがらない場所から、無理やり人を運んできたみたいに。
出口の近くに立ち、ポケットに手を突っ込む。
待っていないふりをする。
……あるいは、期待していないふり。
花が降りてきた。
片方の肩にリュック、もう片方にトートバッグ。
髪は、記憶よりも伸びている。
ピンク色の大きなヘッドホン。
暑いのに、体を覆うようなパーカー。
一度だけ周囲を見回し、俺を見つける。
笑わない。
「よ」
そう言うと、彼女は片耳だけヘッドホンを外した。
「……よ」
間があった。
少し、長い。
「あ」
視線が、俺の顔に落ちる。
「……その」
「うん」
「分かってる」
気まずさが、そのまま残る。
「腹、減ってるか?」
「ちょっと」
「先に荷物置く?」
「うん」
並んで歩く。
靴底が、舗道を擦る音だけが響く。
何度も視線を向けそうになって、やめる。
でも、どうしても目に入る。
変わっていた。
はっきり説明できるほどじゃない。
ただ、少し大人びていて、その変化を持て余している感じ。
前に会ったときは、何も考えずに動いていた。
今は違う。
体の使い方を、まだ探っているみたいな、ぎこちなさがある。
家に着くと、彼女は玄関でバッグを下ろし、
必要以上に一瞬、立ち止まった。
許可を待っているみたいに。
「幽霊は出ない」
そう言うと、彼女は中に入った。
辺りを見回す。
ここが本当に存在しているか、確かめるみたいに。
「……前より狭い」
「お前が大きくなったんだ」
かすかに笑う。
靴を脱ぐ。
丁寧すぎるほどに。
跡を残さないように。
「畳、替えたんだ」
独り言みたいに言う。
「ああ。……じい——」
言葉が途中で止まる。
彼女は、何も言わずに待った。
「……父さんがな。
きれい好きだった」
それで説明したつもりになる。
彼女はすぐには反応しなかった。
小さく、一度だけ頷く。
使う部屋を案内する。
昔は父の書斎だった場所だ。
今は、低い机と、畳まれた布団があるだけ。
「この部屋で大丈夫か?」
「平気」
「本当に?」
肩をすくめる。
「ずっといるわけじゃないし」
分かっているのに、胸が少し痛んだ。
「配置、変えてもいい」
「……壊さないよ」
「使わないほうが心配だ」
一瞬だけ、こちらを見る。
好奇心。
すぐに消える。
「行こうか」
「どこ?」
「飯」
短く言って、先に立つ。




