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第4話

断るべきだった。

でも、しなかった。


彼女は自販機の明かりと、古い看板だけが照らす裏道を進んでいく。

振り返らない。

ついてくるかどうか、確かめる必要もないみたいだった。


ラブホテルの看板が、夜空に薄いピンク色で浮かんでいる。


「りか——」


「考えすぎないで」


そう言って、彼女は手を取った。


「少しだけ……忘れよ?」


声は柔らかかった。

弱く聞こえるほどに。

ほとんど、縋るみたいに。


俺は、そのまま中へ入った。


部屋は、消毒液と安っぽい芳香剤の匂いが重なっていた。

清潔を装うための匂いだ。


彼女は俺をベッドに押し倒し、

止まったら消えてしまうみたいに、勢いよく口づけてきた。


時間の輪郭が緩む。


シャツの中に、手を導かれる。

温かい。

柔らかい。

何年も感じていなかった、生々しい感触。


迷っていると、彼女がさらに距離を詰め、

指先で顎を持ち上げ、無理やり目を合わせた。


甘い香水の匂いが近い。

重くて、逃げ場がない。


「ね」


唇のすぐそばで囁く。


「ちゃんと、私を見て」


頷いた。


ためらいを察したのか、彼女が主導権を取る。

慣れた手つきでシャツを脱がせ、耳元に息をかける。


「今夜はね」


ゆっくり、言い聞かせるように。


「私のことだけ、考えて」


また頷く。

他に、どうすればいいのか分からなかった。


実際には、彼女のことなんて考えていなかった。

本当に起きているのか、そればかりだった。


彼女は、何かを忘れようとするみたいに口づけてくる。

俺は、何かを思い出そうとするみたいに応じた。


服は少しずつ落ちていく。

急ぎもしない。

優しくもない。

引き返せなくなった判断を、疑わなくなるまでの、ただの流れ。


肌は温かい。

手は、思ったより冷たい。


もたつくと、小さく笑って俺の手首を取る。


「大丈夫。ここ」


位置を直す。


ベッドが軋む。

彼女は俺の上で、一定のリズムを刻む。

数秒おきに俺の顔を見る。

意識が逸れると、微調整する。


情熱じゃない。

管理だ。


「見て」


静かな声。


従った。


時間が伸びて、薄くなる。


覚えているのは、

俺の上にある体重と、

胸に置かれた手と、

俺の表情を測るような視線。


そして、何かが途切れた。


意識が狭まり、体だけが動く。

部屋の輪郭がぼやける。

目を閉じた。


無意識に手を伸ばし、彼女の頬に触れる。

引き寄せるためじゃない。

自分を落ち着かせるためだった。


「俺——」


言いかけた、その瞬間。


彼女が止まった。


目を開けると、

怒りより先に、理解が浮かんでいた。


「聞いてなかったでしょ」


淡々と。


次の瞬間、

視界が白く弾けた。


衝撃に息が詰まり、彼女はすぐに体を離す。

立ち上がり、服を手早く身につけていく。

さっきとは違う、無駄のない動き。


「男って、みんな同じ」


振り返らない。


「終わる直前にしか、人を見ない」


俺はベッドに横たわったまま、

脈打つ頬を押さえる。


何が起きたのか、何度も辿ろうとして、

結局、何も掴めない。


残っているのは、張り詰めたままの感覚だけ。


「最低」


そう言って、ドアが閉まった。


動けなかった。

片手は目元に、もう片方は力なく横に落ちている。


痛かった。

全部が痛かった。


それでも、数か月ぶりに、頭の中が静かだった。

同じ後悔も、失敗も、罪悪感も、巡ってこない。


自分が何者なのかを考えなくていい時間のほうが、楽だった。


これは、

また誰かに、夜の終わり方を委ねただけなのかもしれない。


天井を見ながら、

自分でも理由の分からない笑いが漏れた。


明日、花が来る。


そして今夜は——

どんなに歪んでいても、もう終わっていた。


「……やり直し、ねえ」


そう呟いて、目を閉じた。

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