第4話
灰原句読の京都・不完全な講義録
第四話 消えた絵はがきと茶室の迷路
灰彩堂の昼下がり。
格子戸が遠慮がちに開き、若い女性が顔をのぞかせた。
「すみません……こちらが“困りごとは灰彩堂へ”と書かれていたお店でしょうか」
玄関脇の町内掲示板に、筆文字の紙が貼られている。
――困りごと相談承ります 灰彩堂。
灰原句読は帳場から静かに頷いた。
「ええ。どうぞお上がりください」
女性は胸元の紙袋を抱えたまま、少し安心したように息をつく。
「実は近くの茶室で、絵はがきを無くしてしまって……
昨日、庭を眺めながら書いた大事なものなんです。
必ずあの席に置いたはずなのに、見つからなくて……」
琴葉がすっと前に出る。
「“必ず”って言葉が出たら、だいたい思い込みの匂いがしますね」
女性は苦笑する。
「そうかもしれません。でも、どうしても見つけたくて」
灰原は立ち上がった。
「では、ご一緒しましょう」
茶室は灰彩堂から歩いて十分。
白砂の庭を囲むように、茶席と待合が障子で連なり、静かな迷路のようになっている。
女性は一つの席を指さした。
「ここです。
ここに座って、お茶をいただきながら書きました」
三人で畳の上や卓の周りを探すが、絵はがきは見当たらない。
女性の声が少し焦る。
「おかしいな……絶対ここだったのに……」
琴葉が小声で灰原に言う。
「“絶対”も危ない単語ですよね」
「ええ。人の記憶は、確信の形をしていても脆いものです」
そこへ茶室の若いスタッフが現れ、丁寧に会釈した。
「何かお探しでしょうか」
事情を話すと、スタッフは思い出すように言った。
「昨日の夕方でしたら、茶席の入れ替えを行いました。
お客様がお帰りになった後、道具と卓の位置を隣の席へ移しております」
女性が目を丸くする。
「じゃあ……私が座った席は……」
スタッフが隣の茶席へ案内する。
低い卓の上。
茶碗の影に、一枚の絵はがきが静かに置かれていた。
「あ……!」
女性は駆け寄り、大切そうに手に取った。
「ありました……!」
琴葉が笑う。
「席を動かされたのに、“自分はここに座った”って記憶だけ固定されてたんですね」
女性は恥ずかしそうに笑った。
「確かに……私は“この席だったはず”って思い込んでました」
灰原が静かに言う。
「人は、自分の体験を一枚の写真のように記憶します。
しかし現実は、写真よりも柔らかく動きます」
女性は深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
帰り道。
琴葉が空を見上げる。
「今回は、私も先生も何も失くしてないのに、ちゃんと事件になりましたね」
「紛失は、物ではなく認識の中で起こります」
「相変わらず難しい言い方ですね」
「職業病です」
午後。
大学の教室。
灰原句読は黒板に一語を書いた。
『配置』
「人は、空間を自分の都合で再構成して記憶します。
文章も同じです。
書き手が頭の中で思い描いた配置は、読者には見えません。
だから言葉で橋を架ける必要があるのです」
学生たちがノートを取る。
教室の後ろで琴葉が小さく呟いた。
「私も“ここに書いたはず”って原稿探して焦ることあります」
灰原はわずかに口元を緩めた。
「それもまた、不完全な創作の一部です」
灰彩堂の町家には、夕方の光が静かに差し込む。
今日もまた、小さな思い込みが一つほどけた。
不完全な日常は、
それでも穏やかに続いていく。
第四話 完




