第3話
灰原句読の京都・不完全な講義録
第三話 消えた栞と朝の境内
灰彩堂の朝は静かだ。
町家の奥に溜まる古書の匂いと、畳の冷たさ。
その中で、灰原句読だけがわずかに落ち着かなかった。
「……栞が無い」
帳場でノートを開いていた古城琴葉が顔を上げる。
「先生が“無い”って言うの、初めて見ました」
灰原は淡々と続ける。
「祖父の形見です。
檜で作られた細い栞で、昨日までこの本に挟んでいたはずですが」
琴葉が本を覗き込む。
「確かに入ってませんね」
「最後に使ったのは、昨日の夕方。
散歩の途中で寄った神社の境内でした」
琴葉はすぐ立ち上がった。
「じゃあ探しに行きましょう。
今度は私が先生を助ける番です」
「頼もしいですね。
ただし、思い込みにはご注意を」
「それ、先生の専門分野ですよね」
「否定はしません」
早朝の神社は、まだ観光客の姿がない。
玉砂利を踏む音だけが澄んだ空気に響く。
「先生、どこで本を読んでました?」
「この石灯籠のそばだった“気がします”」
琴葉が眉をひそめる。
「先生まで“気がする”は反則です」
「人は記憶に頼らないと生きていけません」
「でもその記憶が怪しいんですよね」
二人は灯籠の周囲、縁側、拝殿の脇まで探す。
だが栞は見つからない。
そのとき、境内を箒で掃いていた若い巫女が気づき、軽く会釈した。
「何かお探しですか?」
琴葉が事情を説明する。
「昨日ここで使っていた栞を落としたかもしれなくて」
巫女は少し考え、首を傾げる。
「昨日の夕方ですね…。
本を読んでいらした方は見かけましたが、栞を使われている様子は無かったように思います」
琴葉が灰原を見る。
「先生、本当にここで本を読んでました?」
灰原は静かに考える。
「……本は持っていました。
しかし読んだかどうかは、曖昧ですね」
「つまり“読んだつもり”だった?」
「可能性は高い」
「先生の思い込み、静かすぎて逆に怖いです」
二人は灰彩堂へ戻った。
店の奥。
灰原が昨日持ち歩いていた本を開く。
ぱらり、と
ページの間から細い檜の栞が落ちた。
琴葉はそれを拾い上げる。
「……最初からここにあったじゃないですか」
灰原は栞を見つめ、わずかに息を吐く。
「私は“神社で読んだ”と記憶していた。
その記憶が、栞の居場所まで決めつけていたのでしょう」
「先生も普通に思い込みするんですね」
「人は、自分の記憶を最も疑いません」
琴葉は栞を差し出す。
「戻ってよかったですね。
大事な形見なんでしょ?」
「ええ。
祖父は『栞は、本と現実をつなぐ橋だ』と言っていました」
「先生の人生、だいたい祖父の一言で出来てますね」
「否定はしません」
午後。
大学の教室。
灰原句読は黒板に一語だけ書いた。
『記憶』
「人は、自分の記憶を事実だと信じ込みます。
しかし記憶は、簡単に書き換わる。
文章も同じです。
“書いたつもり”は、書かれていないのと同じです」
学生たちが静かにノートを取る。
教室の後ろで、琴葉が小さく笑った。
「先生も“読んだつもり”で栞を失くしましたけどね」
灰原は振り返らず、淡々と言う。
「だからこそ、私は今日この話をしています」
灰彩堂の町家には、今日も古書の匂いが溜まっている。
祖父の栞は、本の間で静かに役目を果たしていた。
また一つ、
不完全な講義録が積み重なった。
第三話 完




