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第2話


灰原句読の京都・不完全な講義録

第二話 消えたICカードと走る市バス

朝の京都は、まだ観光客の足音が少ない。

灰彩堂の格子戸を開けたところで、古城琴葉がぴたりと立ち止まった。

「……先生、ICカードがありません」

灰原句読は振り返り、静かな声で尋ねる。

「財布の中は確認しましたか」

「しました。ポケットも、カバンも。昨日まで普通に使ってたんです」

バス停の向こうから、緑色の京都市バスが近づいてくる。

琴葉は青ざめたまま乗り込み、灰原の後ろについて車内へ入った。

運転手の落ち着いたアナウンスが流れる。

「次、○○。市内均一運賃は二百三十円です。

お降りの際、ICカードまたは現金でお支払いください」

琴葉は席に座るなり、深くため息をついた。

「現金はあるんです。でも……ICカードが無いのが、なんか落ち着かなくて」

「現実的な問題は解決している。

残っているのは“心配”だけですね」

「先生、たまに僧侶みたいなこと言いますよね」

「祖父が仏間で本を読ませていた影響です」

「比較対象が相変わらず古いです!」

バスは穏やかに走る。

後方座席で、年配の女性が足元に小さなカードを見つけた。

「あら……ICカードやわ」

拾い上げて周囲を見渡す。

だが、誰の持ち物か分からない。

「違ごうたら恥ずかしいしなぁ……」

声をかけようとして、結局ためらう。

“誰かが言わはるやろ”

そう思ってカードを手の中に握りしめる。

前方座席。

琴葉はバッグの中をもう一度探す。

「無いものは無い、ですよね……」

「“無い”と決めるのは簡単です。

探すより、諦める方が楽ですから」

「先生、私を見ながら言うのやめてください」

灰原は少しだけ口角を上げる。

「取材対象として観察しているだけです」

「なおさら嫌です!」

次の停留所が近づいた頃、

後方の女性が意を決して前へ歩いてきた。

「すんません、どなたかICカード落としはりませんでした?」

琴葉が振り向き、目を見開く。

「……それ、私のです!」

女性はほっとしたようにカードを差し出す。

「よかったわ。

ずっと“誰か言わはるやろ”思てましたん」

琴葉は深く頭を下げる。

「ありがとうございます。

私も“もう無い”って思い込んでました」

女性は笑う。

「お互い、察しすぎですなぁ」

停留所。

琴葉はICカードをタッチして降りる。

ピッ。

運転手が言う。

「ありがとうございました」

琴葉はカードをポケットに入れ、少し誇らしげに歩き出した。

「現金で払えたのに、私は勝手に“困ってる”と思い込んでましたね」

「人は、問題より先に“不安”を作ります」

「先生、やっぱり僧侶です」

「古書店主です」

午後。

大学の教室。

灰原句読は黒板に一語を書く。

『思い込み』

「人は、見えていないものを“存在しない”と決めつけます。

文章でも同じです。

書かれていないから伝わるだろう、は幻想です」

学生たちが静かにノートを取る。

教室の後方で、取材メモを抱えた琴葉が小さくうなずいた。

ポケットのICカードを指先で確かめながら。

灰彩堂――祖父から受け継いだ町家は、

今日も変わらず古書の匂いを溜めている。

また一つ、

不完全な講義録が積み重なった。

第二話・完


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