タイトル未定2026/01/24 20:51
灰原句読の京都・不完全な講義録
第一話 消えた絵巻と町家の思い込み
春先の京都は、風が紙の匂いを運んでくる。
古城琴葉は細い路地の奥で立ち止まり、格子戸を見上げた。
「……ここが取材先? ほんまに営業してるんかな」
戸を開けると、畳と古紙の匂いが混ざった空気が満ちていた。本の山の向こうで、湯呑を手にした店主が静かに会釈する。
「いらっしゃい。探し物ですか?」
落ち着いた声。余計な動きのない佇まい。
「フリージャーナリストの古城琴葉です。取材で町家の古書店を探していて……灰原句読先生、ですよね?」
「ええ。一応、大学で文章表現論も教えています」
京都・寺町の古書店「灰彩堂」。
店主・灰原句読、四十歳。
本と人を同じ距離感で扱う、不思議な静けさの持ち主。
「取材の下見なんです。後日、改めて――」
琴葉がそう言いかけたとき、奥から声が飛んだ。
「先生! 大変ですえ!」
エプロン姿の中年女性が慌てて現れる。
「絵巻物が、消えてしもたんどす!」
女性はこの町家の大家、三宅和代。
近所の寺から、展示用の古い絵巻物を預かっていたという。
「昨日まで床の間に置いてあったんです。今朝見たら、すっからかんで」
「鍵は?」
「町家やさかい、格子戸だけ。夜は閉めてましたえ」
「荒らされた形跡は?」
「なんもないんです。畳も障子もそのまま。盗られたなら一大事やのに……」
琴葉は思わず取材魂を出す。
「警察には?」
「盗難とも言い切れへんし、寺にも迷惑かけとうないし……」
灰原は床の間へ歩き、静かに畳を見つめた。
「昨日、その絵巻をご覧になりましたか?」
「ええ、夕方、お茶飲みながら眺めてました。立派な絵でしたえ」
「箱は開けましたか?」
「……え?」
和代は少し考え、首をかしげる。
「そう言われたら、箱のふたは開けてへんかもしれまへん。寺さんのもんやし、勝手に触ったらあかん思て」
琴葉が眉をひそめる。
「でも、見たって……」
「人は、“あるはずのもの”を見たと思い込むことがあります」
灰原の声は穏やかだった。
「京都では、特に多い」
昼過ぎ。
灰彩堂の奥座敷で、琴葉は湯呑を持ったまま言った。
「つまり先生、最初から絵巻はここに無かったって?」
「可能性の話です」
「でも和代さんは“見た”って言ってました」
灰原は本棚から一冊を抜き、琴葉に差し出した。
中は真っ白なページ。
「これは何に見えます?」
「白紙の本です」
「でも題箋には“平家絵巻・複製”と書いてある」
琴葉は目を見開く。
「……箱だけ見て、中身を見てないのに、“絵巻を見た”と思い込んだ?」
「寺から預かった高価な品。畏れ多くて開けない。
床の間に置く。
“そこにあるはず”。
それで十分、京都あるあるです」
琴葉は吹き出す。
「見てへんのに、見たつもり。京都こわい」
「人間は皆、だいたいそうです」
夕方、和代が戻ってきた。
「先生、寺に電話しましたえ。
“絵巻はまだ寺にあります”言われました」
琴葉が声を上げる。
「じゃあ、最初から届いてなかったんですか」
和代は頭を抱える。
「ほな、うちは何を見たんやろ……」
灰原は静かに答えた。
「“あるはずのもの”です。
見えないものを、見たことにする。
それがこの町の日常です」
琴葉は笑いながらメモを取った。
「事件でもなんでもないのに、記事になりそう」
「人の思い込みは、立派な物語になります」
数日後。
大学の教室で、灰原は黒板に書いた。
思い込み。
「文章を書くとき、人は“書いたつもり”になります。
読む側は“読んだつもり”になります。
その間に生まれる空白こそが、物語です」
学生たちは静かに頷く。
教室の後ろで琴葉が小さく呟いた。
「見たつもり、知ったつもり、分かったつもり。
取材する側も、気をつけなあきませんね」
灰原はわずかに笑った。
「だから、あなたはここにいるんでしょう?」
春の光が町家の格子の影を教室に落とす。
こうして、灰原句読と古城琴葉の
不完全な講義録は始まった。




