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柿の木の下で

作者: 星 則光
掲載日:2025/12/10

 庭の柿の木には、今年も大ぶりの実がたくさんついて、風に枝を揺らしていた。橙色のそれは、まるで太陽の一部を持ってきて吊るしたかのように光っていた。

 木の下では孫の葵が両手を上げて跳ねている。

「じいじ、これたべごろだよね!」

「ああ。あと少しでちょうどいいくらいになるよ」

和夫は笑って応じた。

 その姿は、近所から見れば“まだまだ元気な老人”に見える。しかし、実際には働けるほどの体力はもうなく、軽作業だけでも息が上がる。車の運転は医者から止められ、ちょっとした階段の昇り降りにも慎重を要した。


 介護施設は満杯、ヘルパーは足りず、「元気なうちは家で」と役所に言われるのが当たり前の時代。

 和夫のような“元気だが働けない老人”は、有料老人ホームのような施設にも入れない。長い間働いてきたのに、支払われる年金額ではとても生活費には足りない。

 なので必然的に家族介護に組み込まれてしまう。

 それが、この家の日常だった。


 夕食の席でつけっぱなしになっていたテレビからニュースが流れた。

〈来月より、「自己判断型安楽死制度」が本格運用に入ります。介護負担の軽減を期待する声も……〉

和夫の息子の悠真は苦い顔をしてリモコンを押した。

「……なんか、いやな言い方だよな。“負担を軽くするために”なんて、まるで……」

(姥捨て山だ……)と言いかけて彼は口をつぐんだ。

 陽菜が小さく息を吐いた。

「今日ね……幼稚園でもまた言われたのよね。

 “お義父さん、まだ元気なんでしょう? 家で見られるうちは見るのが当然よね”って。

 悪意がないのは分かるけど……なんだか、責められてる気がして」

 悠真が眉をひそめた。

「責められてる? 誰に?」

「誰、ってわけじゃないんだけど。でも……“親の介護くらい家でするもの”って、どこへ行ってもそういう空気なの」

 言葉は淡々としていたが、陽菜の肩は小さく震えていた。


 和夫は箸を握った手に力が入り、胸の奥がひりついた。

(そうだ……俺自身は、施設にも簡単には入れない。

 “元気なうちは家で”と処理される存在だ。 つまり……俺は、家族の肩に乗るしかない。)

 心臓の奥が冷たくなった。

「陽菜……そんなの気にしなくていいんだよ」

 悠真がそっと言った。

 しかしその優しい声の下にも、彼自身の疲れが透けて見えた。

「誰も悪くない。施設に入れないのは父さんが悪いわけじゃない。制度が回ってないだけだ。こんなに高い社会保険料を払っているのに、それでも全く足りていない社会って何なんだよ。……俺だって、本当は全部を背負いきれないって思う瞬間があるし……」

 そこで言葉が止まり、拳が膝の上でぎゅっと握られた。


 和夫は、息子のその仕草がつらかった。

(悠真も限界だ。

 “父を施設に入れたい”なんて言えば、周りに冷たく見られる。

 “家で介護します”と言えば、今度は自分の身体が壊れる。

 どちらにしても責められる。

 そんな場所で、息子夫婦は暮らしているのか……)

「……私だって、できることは全部やっているつもりなのよ」

 陽菜がかすれた声で言った。

「でも、“できない”と見られるのがすごく怖い。お義父さんのことはとても大事に思ってます。でも……でも……」


 和夫はその言葉に胸が締め付けられた。

(俺が……家族を追い詰めているのか?

 いや、違う。でも陽菜は何も悪くない。悠真も、まして葵だって……

 誰も悪くない。悪いのは、この空気だ。この国の形だ。)

 言葉を飲み込み、和夫は静かにうつむいた。


 その夜。

 食後の片付けを終えた家は静まり返っていた。

 和夫は一人、自室へ戻ると、灯りもつけずに布団の縁に腰を下ろした。

 暗闇の中、ふと胸の奥に古い記憶が浮かぶ。

(……俺たちが若いころは……)


 居酒屋で、テレビのワイドショーで、職場の飲み会で

 “外国人が増えるのは良くない”

 “治安が悪くなる”

 “日本は日本人の力で回すべきだ”

 そんな言葉を、自分も周囲も当たり前のように言っていた。

(あのころはそれが“正しいこと”だと信じていた。

 誰も悪いと思わず、むしろ誇らしげですらあった。)

 しかし今、その“正しさ”の残骸の上に自分は立っている。

(結果としてどうなった?

 介護の担い手は減り、施設は順番が回ってこない。外国人に代わって介護は汎用人型ロボットで、なんて言っていたが、まだそんなものは存在しない……結局は家族の肩にすべてが乗せられる国になってしまった。)


(そのツケを……悠真たちに払わせているのか?

 いや、それだけじゃない。俺自身がそのツケで老後を縛られ、家に居続けるしかできない存在になっているのか……?)

 喉に熱いものが込み上げた。

(……なんて皮肉だ。“自力で回せ”と言った俺たちの世代が、結局自分も、家族も、自力ではどうにもできなくなっている。)

 和夫は両手で顔を覆い、しばらく動けなかった。


 深夜。

 和夫は自室で灯りもつけず、スマホの画面だけを頼りに「自己判断型安楽死制度」の説明書を読んでいた。

〈安楽死制度は、本人の“明確な意思表示”が条件となります〉

〈意思能力が認められない場合、選択は無効です〉

(……つまり、認知症になったら、もう自分で選べないってことか。)

 喉の奥がじわりと熱くなった。


(人間ってのは、年を取れば誰でも判断が鈍る。いつかは“自分で決められない”時が来る。そうなった瞬間、俺は家族と社会の負担になるだけか。)

〈認知症などにより判断能力が失われた後は、安楽死の選択は行えません〉

(だったら……

 “まだ決められるうちに”選ぶしかないのか?

 いつまで元気でいられるかなんて、誰にも分からない。葵が中学生になるころ、俺が要介護状態になっていたら……陽菜にも、悠真にも、家族全員を押しつぶすほどの負担を背負わせることになる。)

 胸の奥が、ゆっくりと締めつけられる。

(この制度は…… “自分で決められなくなる前に決断しろ”って、そう言っているようなものじゃないか。)

 和夫は画面を伏せ、しばらく目を閉じた。

(俺が認知症になってからでは、もう誰も救えない。選べるうちに選べ……そういう社会なんだ、今は。)

スマートフォンの画面に『自己判断型安楽死制度 事前意思表示』という文字が青白く光っている。

(死にたいわけじゃない。まだ葵の成長を見ていたい。話したいこともたくさんある。

 しかし……俺が生きている限り、この家族は“やさしい人であり続ける”ことを強いられてしまう。その苦しさを、もうこれ以上背負わせたくない。)

(そして……この国が作り上げた“老いる場所のない老人”という枠から、俺自身が抜け出す方法も……これしかないのかもしれない。)

 指先が、ゆっくりと画面に触れた。


 和夫からその話を聞いた悠真は声を荒げて言った。おとなしい悠真が、これほど声を荒げるのを和夫は初めて見た。

「父さん、勝手に決めないでくれよ!」

 陽菜は今にも泣きそうな顔で、「お義父さん、そんなことは考えないでください」と震える声を絞り出す。


怒り、戸惑い、恐怖……

しかし一か月という時間は、感情の輪郭を少しずつ揺らしていく。

和夫の息が苦しくなる夜、通院の付き添い、忘れもの、転倒しかけた背中。

その日々の中でふたりは気づいた。

“父は死を望んでいるのではなく、家族に背負わせ続ける負担を手放したいのだ”と。


 一方で、葵にとっては、その一か月は宝物のような時間だった。

「じいじ、今日はどこ行く?」

 近くの小さな水族館でいろいろな魚を見て、公園でしゃぼん玉を追い、アイスを半分こし、写真アルバムをめくりながらずっと笑い続けた。

 その無邪気さが、和夫の胸を締めつける。

(本当は、もっと一緒にいたい。けれど……どこかで終わりを選ばなければ、家族は壊れてしまう。)

 葵の小さな手の温もりが、和夫の覚悟を静かに形づくっていった。


 一か月後。

 安楽死施設の白い部屋。

 和夫はベッドに座り、家族の顔を見つめた。

 身体はまだ動くし、意識もはっきりしている。しかし、この国の仕組みの中では……

 “家族に背負われながら老いるしかない老人”だった。

「父さん……まだ元気じゃないか。こんな終わり方……」

 悠真の声は震えていた。

 和夫はゆっくり首を振った。

「元気だからこそ……なんだよ。もっと弱ってからじゃ、自分で選べなくなる。

 お前たちが壊れる前に……俺の手で終わらせたかった」

 陽菜は堪えきれず泣き崩れた。

「そんな……そんなふうに終わる必要なんてありません……!」

「分かってる。お前たちが悪いんじゃない。ただ……この国が、老いた人間の居場所を用意できなくなったんだ。そのツケを……もうお前たちに払わせたくなかった」

 葵が泣きながらしがみついた。

「じいじ、かえろ……! えんそくいこうって、いったじゃん……!」

 和夫は、葵の小さな身体を抱きしめた。

 そのぬくもりを胸に刻むように。

「……葵。じいじのこと……ずっと覚えててくれたら、それでいい」

 涙が頬を伝い、白いシーツに落ちた。


 その夜。

 山田家の庭には、柿の実がいくつも落ちていた。

 葵は一つ拾い、両手で抱きしめた。

「じいじ、これ……たべるって……いってたのに……」

 陽菜はそっと柿の木を見上げた。

「……この国、どうしてこんな形で人を追い詰めてしまうのかな……」

 悠真は答えられなかった。


 柿の実がぽとりと落ちる音だけが、静かな夜に広がった。

 その音はまるで、“老いてゆく人が落ちていく場所が、この国にはもう残っていないのだ”と告げているように響いた。


あとがき


「誰も悪くないのに、誰も救われない未来」を描くということ


 この物語で描いた世界は、ちょっと先の「この国の未来」です。


 しかし、そこに登場した“重い現実”の多くは、もうすでに日本社会の足元に存在しています。高齢化は加速し、2030年代には国民の三人に一人が高齢者になります。

 その一方で、現役世代は急速に減り、税や社会保険料を払う“支える側”は細くなるばかりです。

 もし、この状況で外国人労働者すら日本に来なくなってしまうとどうなるでしょうか。


 ここでは、その先に広がる光景を、ひとつの家族の物語として描いています。

 和夫のような「多少元気だが働けない」高齢者は、制度の隙間に落ちます。寝たきりでもなく、医療依存度も高くない。でも働けないし、年金も十分とは言えない。

 こんな“中間状態”の高齢者は、実はこれから急激に増えていく層です。


 しかし、施設は満床。ヘルパーは人手不足。

 現役世代は高い社会保険料に押しつぶされ、共働きでも家計に余裕がない。

 そうなると自然に、「家族で介護」という空気だけが残ります。


 誰も悪くないのに、家族だけが静かに、ゆっくりと追い詰められていく。

 ここで描かれているのは、そんな未来です。


 和夫が若いころに信じていた“価値観”のツケが、巡り巡って老いた自分と家族に返ってくる。

 その皮肉は、決して物語だけのものではありません。

 もし「社会そのものが老いていく」ことを受け入れず、支え合う仕組みづくりを怠れば、老後は“家族の善意”だけに委ねられた過酷なものになります。


 そして最後に犠牲になるのは、いつも静かに、声を上げない人たち……和夫のような老人であり、陽菜のような嫁であり、悠真のような働き盛りの現役世代であり、何より“そんな時代の空気を吸って生きる”葵のような子どもたちです。


 人は、社会に居場所がなくなったとき、

 自ら出口を選ばざるを得なくなることがあります。


 外国人政策や人口構造の議論を追っていると、最近、さまざまな場所で“安楽死”という言葉が、まるで暗い水底からゆっくりと浮かんでくる泡のように、ふっと現れる瞬間があります。私自身、はじめは、そんなことは荒唐無稽な話だと思っていました。


 しかし、社会保障が縮み、家族が疲弊し、「誰が誰を支えるのか」という問いが解けないまま先送りにされるとき、その言葉がひっそりと存在感を増していくのではないかと、どこか拭いきれない不安を覚えずにはいられません。


 物語で描いた“安楽死が合法化される社会”は、そんな極端な未来の象徴です。

 誰も悪くないのに、誰も救われないという社会だけは、絶対に避けたい。

 そう願って、この物語を書いてみました。


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