触れてしまった境界線
数日後。
夜の帳が下り、街の喧騒が少しずつ静まるころ。
美菜は自室のデスクに向かい、ヘッドセットを装着した。
モニターに映るのは、VTuber「みなみちゃん」としての自分。
現実の美容師・河北美菜とは切り離された、もうひとつの居場所だ。
「はーい、こんばんは~! みなみちゃんだよ~」
軽く手を振りながら挨拶すると、コメント欄が一気に流れ出す。
【待ってた!】
【今日もかわいい!】
【雑談枠助かる~】
【仕事終わりに癒し】
「ふふ、ありがとう。今日は久しぶりの雑談配信だよ~。最近ちょっとゲーム続きだったからね」
実際、ここしばらくはRPGの実況が中心だった。
王道RPG。物語を進め、キャラを育て、少しずつ世界が広がっていく――あの感覚が、美菜は好きだった。
(現実でも、レベル上げみたいな毎日だもんね)
美容師としての仕事も、VTuberとしての活動も、一朝一夕では成果は出ない。
だからこそ、積み重ねることに意味があると、美菜は知っている。
「今日はね、リスナーさんのお悩み相談をやっていこうと思いまーす。コメント拾っていくから、気軽に投げてね!」
【恋愛相談いいですか】
【人生相談でもOK?】
【仕事の悩み聞いてほしい】
「もちろん! なんでも来い~!」
そう言いながら、コメントをスクロールしていくと、ひとつの投稿が目に留まった。
【いま学校で好きな男の子がいるけど、向こうが意識してくれてるか分かりません】
「おお、王道の恋愛相談だね~」
美菜は少しだけ姿勢を正す。
恋愛。
自分にとって、決して縁がないわけではないが、得意とも言い切れない分野だ。
(でも……相談に乗るくらいなら、できるよね)
「うーん、好きな人かぁ……」
少し間を取る。
この“考えてる間”も、配信では大事な時間だ。
「人ってね、無意識の行動に気持ちが出やすいんだよ。」
【ほうほう】
【無意識】
「たとえば、好きな人のことって、気づいたら目で追っちゃってたりしない?」
そう言った瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
(……あ)
思い浮かんだのは、最近よく見てしまう横顔。
仕事中、黙々とカットしている時の瀬良。
鏡越しに、ふと視線を感じて顔を上げた時、目が合うこと。
(いやいや、今は相談、相談)
「だからね、もし『あれ? この人、よくこっち見てるな』って思うことがあったら、それはちょっと脈アリかも?」
コメント欄が一気に加速する。
【なるほど!】
【目線チェック大事】
【分かる気がする】
「もちろんね、好きすぎて逆に見れないタイプの人もいると思うんだけど……」
【それ!】
【それなんよ!】
「そういう場合でも、話しかけた時の反応とか、距離感とか。ちょっとしたところに気持ちって出ると思うんだよね」
美菜は、穏やかな声で続ける。
「声のトーンが変わったり、態度が柔らかくなったり……ほんの少しの変化」
それは、まるで自分自身に言い聞かせているようでもあった。
(……瀬良くん、私と話す時、ちょっとだけ声低くなるよね?)
そんな考えが浮かび、慌てて頭を振る。
(違う違う。同期だから。仕事の話が多いから、真剣なだけ)
【めっちゃ参考になる】
【観察してみます!】
「うんうん。あんまり気負わずに、相手の反応を見てみてね!」
笑顔でそう締めくくり、次の相談へと進んだ。
***
その後も、進路の悩み、友人関係、自己肯定感の話――
いくつもの相談に答えているうちに、気づけば時計は午前0時を回っていた。
「そろそろお時間だね~」
【もうそんな時間!?】
【楽しかった】
「今日も来てくれてありがとう! みんな、無理せず、ちゃんと寝るんだよ~」
そう言って、いつもの締めの挨拶。
「それじゃあ、おやすみなさーい!」
配信終了のボタンを押し、画面が暗転する。
部屋に訪れる、静寂。
ヘッドセットを外し、椅子に深くもたれかかると、どっと疲れが押し寄せてきた。
「……ふぅ〜」
ベッドに倒れ込む。
(好きな人、か……)
さっきの相談が、頭の中で何度もリピートされる。
そして、意図せず浮かんでくる顔。
無表情で、何でもできちゃうのにどこか少し不器用で。
でも、誰よりも真面目で、努力家で。
(……瀬良くん)
「……違うってば」
小さく呟き、枕に顔をうずめる。
(同期だから。仕事仲間だから)
自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
けれど、思い返せば――
仕事終わりに、並んで歩いた帰り道。
ゲームショップで見せた、ほんの少し楽しそうな横顔。
居酒屋で語られた、同期との距離の話。
自分の言葉を、静かに受け止めてくれたこと。
(……私、あの時すごく嬉しかった)
瀬良が「悪くない」と言った、その一言。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
(あれ、なんで……?)
こんなふうに誰かの言葉を反芻するのは、久しぶりだった。
(気のせい、だよね)
そう結論づけようとする。
まだ、自分の気持ちに名前をつける勇気はない。
(明日も仕事だし、考えすぎるのはよくない)
そう思い、目を閉じる。
だが、その夜――
夢の中で、美菜はまた瀬良と並んで歩いていた。
無言なのに、居心地がよくて。
隣にいるのが、当たり前みたいで。
目が覚めた時、胸に残ったのは、言葉にできない違和感と、微かな期待。
(……本当に、気のせい?)
答えはまだ、出ない。
けれど確かに、彼の存在は、少しずつ、美菜の心に根を張り始めていた。
***
次の日。
目覚ましが鳴るよりも早く、美菜は目を覚ましていた。
というより――ほとんど眠れた気がしない。
(あー……)
天井を見つめたまま、ゆっくりと瞬きをする。
脳裏に、昨夜の夢の残滓がまだこびりついていた。
並んで歩く背中。
何も言わないのに、すぐ隣にある温度。
肩が触れそうで触れない距離。
(なんで……あんな夢……)
布団の中で身じろぎし、顔を両手で覆う。
(瀬良くん、ただの同期でしょ……!)
そう言い聞かせても、胸の奥がざわつく。
夢の中の感触や空気感が、妙に現実味を帯びていて、余計に始末が悪い。
結局、完全に気持ちが落ち着かないまま、支度を済ませて家を出た。
***
まだ客のいない静かな店内で、ハサミの音だけが規則正しく響いている。
いつもなら、この時間帯は心が落ち着く。
余計なことを考えず、ただ技術に集中できる貴重な時間だ。
――けれど、今日は違った。
(……集中、集中……)
ウィッグの髪を取り分け、角度を確認しながらハサミを入れる。
動き自体は、普段と変わらないはずなのに。
(……視線、感じる……)
ふと気づく。
瀬良が、こちらを見ているような気がした。
正確には、ちらちらと。
まるでタイミングを測るように、何度も。
(なんで……)
昨夜の夢が、嫌でも頭をよぎる。
瀬良が近くにいるだけで、距離感や息遣いを思い出してしまって、胸の奥が妙に熱くなる。
(だめだめだめ……!)
顔を上げられない。
目が合ったら、何を考えているか悟られそうで怖い。
そんな美菜の様子を、瀬良はしばらく黙って観察していた。
いつもなら、淡々と練習を進める美菜が、今日はどこか不自然だ。
ハサミを入れるタイミングが、ほんの少し遅れる。
呼吸が浅い。
「……お前」
低く抑えた声。
「何か悩んでるのか?」
その一言で、美菜の肩がびくりと跳ねた。
「ひゃっ……!」
(な、なに!? 今、顔赤くなってない!?)
心臓が一気に跳ね上がる。
(夢のこと? 気づいた? いや、無理無理無理!)
「べ、別に!? なんでもないよ!」
やや早口で答えると、瀬良は一瞬だけ眉を寄せた。
「……そうか」
それ以上は深掘りせず、視線をウィッグに戻す。
けれど、美菜の違和感は拭えない。
(……気のせいか?)
瀬良はハサミを動かしながら、横目で美菜を見る。
耳まで赤い。
しかも、無意識に距離を取っている。
(……熱でもあるのか?)
そう思いながらも、踏み込む理由が見つからず、瀬良は口を閉ざした。
***
やがて後輩たちが出勤し、店内は少しずつ賑やかさを取り戻していく。
朝練は終わり、オープン準備へ。
美菜はセット面の鏡を丁寧に拭いていた。
指先の動きは落ち着いているが、頭の中はまだざわついている。
「河北さん」
隣の席で同じように掃除をしていた田鶴屋晃が、穏やかな声で話しかけてきた。
「最近どうだ? 業績も上がってきてるし、仕事は楽しいか?」
田鶴屋は、誰に対してもフラットで、けれど要所をきちんと見ている人物だ。
店長としての厳しさと、人を安心させる包容力を併せ持っている。
美菜は手を止め、背筋を伸ばした。
「はい。楽しいです!」
迷いのない声。
「先輩方に教えてもらったことが、今すごく活きてるなって思います。……でも、まだまだ足りないところも多いので、もっと勉強したいです!」
謙虚でありながら、前向きな言葉。
田鶴屋は一瞬、目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「いやぁ……頼もしくなったな」
そう言って、何の躊躇もなく、美菜の頭をがしがしと撫でる。
「わっ……!」
突然のことで驚いたものの、不思議と嫌な気はしなかった。
むしろ、純粋な労いと期待を感じる。
「店長、それセクハラって言われますよ~?」
冗談めかして言うと、田鶴屋は「ははは、気をつけます」と笑った。
***
――その様子を、受付カウンターから瀬良は見ていた。
状況は理解している。
店長が美菜を特別扱いしているわけではない。
信頼している後輩。
成長を認めている部下。
それだけだ。
(……分かってる)
分かっている、はずなのに。
胸の奥に、言葉にできない違和感が生まれる。
(……なんだよ、それ)
頭を撫でる手。
距離の近さ。
(……俺も、やってるだろ)
事実、自分も美菜の頭を撫でたことがある。
なのに。
(……なんか、違う)
理由は分からない。
ただ、気に入らなかった。
瀬良は無意識のうちに立ち上がり、二人の元へ歩いていた。
「店長」
「ん?」
「今日の予約の流れで、ちょっと確認したいことがあるんですけど。」
自然な口実だ。
田鶴屋は美菜から離れ、予約表を覗き込む。
「ここなんですけど……」
しばらく業務の話をした後、田鶴屋は「ありがとう」と言って受付に戻っていった。
その場に残されたのは、瀬良と美菜だけ。
一瞬、妙な沈黙が落ちる。
瀬良は、美菜の頭を見る。
さっき撫でられたせいで、髪が少し乱れている。
(……そのままなのも、なんか)
気に入らない。
考えるより先に、手が動いた。
「……っ」
美菜が小さく息を呑む。
瀬良は、無言で美菜の頭をくしゃっと撫でた。
さっきより、少しだけ強く。
「えっ……?」
目を丸くして見上げる美菜。
その反応に、瀬良は一瞬だけ視線を逸らす。
「……ばーか」
ぶっきらぼうに吐き捨てるように言いながら、指先で乱れた髪を軽く整える。
そして、何事もなかったかのように踵を返し、自分の持ち場へ戻っていった。
***
しばらくの間、美菜はその場から動けなかった。
(……なに、いまの……)
心臓の音がうるさい。
撫でられたところが、じんわりと熱を持っている気がして、思わず両手で頬を押さえる。
(なんで……急に……)
さっきまでのモヤモヤとは違う。
もっと直接的で、もっと厄介な感情。
瀬良の背中を見つめながら、美菜は小さく息を吸った。
(……私たち、ただの同期だよね?)
そう問いかけても、答えは出ない。
この日、二人ともまだ知らなかった。
この些細な違和感が、もう後戻りできない入口だったことを。




