少しだけ、近づいた夜
閉店時間が近づくにつれ、店内の空気は少しずつ緩み始めていた。
昼間の賑やかさが嘘のように、鏡の前にはもう客の姿はない。
ドライヤーの音も、シャンプー台の水音も止まり、聞こえるのは壁時計の秒針と、スタッフたちが片付けをするかすかな物音だけだった。
美菜は、最後のクロスを畳み終えると、ゆっくりと息を吐いた。
(……終わった)
思っていた以上に、長い一日だった。
忙しかったけれど、不思議と疲労よりも充実感のほうが勝っている。
今日一日、何度も瀬良の仕事を間近で見た。
カットのリズム、無駄のない動き、迷いのない判断。
どれも洗練されていて、同期とは思えないほどの差を感じてしまう。
(……もっと上手くなりたい)
胸の奥で、静かに火が灯る。
羨望でも、焦りでもなく、純粋な向上心だった。
そのまま片付けに入ろうとした、そのときだった。
「あれ……?」
レジカウンターの前で、後輩のアシスタントが眉をひそめているのが目に入る。
画面を覗き込み、何度かマウスを動かしては首を傾げている。
「どうしたの?」
声をかけると、彼女は少し慌てたように振り向いた。
「えっと……今日の売上入力が、うまく反映されてなくて……」
美菜もカウンターの内側に入り、モニターを覗き込む。
数字が合っていない。
入力されたはずの金額と、集計結果に明らかなズレがあった。
(入力ミス? それともシステム……?)
「とりあえず、もう一度確認しよう」
落ち着いた声で言いながら、操作を引き継ぐ。
だが、何度チェックしても状況は変わらない。
閉店後とはいえ、こういう事務トラブルは地味に焦る。
頭の中で時間だけが進んでいく感覚に、知らず肩が強張った。
(……どうしよう)
そのときだった。
「……どうした?」
背後から、低く落ち着いた声がした。
振り返ると、瀬良が立っていた。
仕事終わりでも姿勢は崩れず、相変わらず感情の読めない表情をしている。
「あ、実は……」
簡潔に事情を説明すると、瀬良は一度だけ頷いた。
「データのバックアップ、確認したか」
「え?」
「たぶん一度入力してる。履歴を見て見るといい。」
迷いのない口調だった。
言われるまま操作すると、確かにバックアップフォルダにデータが残っている。
「……あ、本当だ!」
「最終確定を押せば戻る。」
その通りに進めると、画面の数字がぴたりと揃った。
「……できた! よかった……!」
胸を撫で下ろすと同時に、力が抜ける。
隣で見ていたアシスタントも、ほっとした表情で頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
瀬良はそれに軽く手を振るだけだった。
「焦ると、見えるもんも見えなくなるぞ。」
淡々とした声。
けれど、その言葉には確かな重みがあった。
「……うん」
「次からは、先に履歴を確認しろよ。」
「……ありがとう!」
自然と背筋が伸びる。
叱責ではないのに、言葉の一つひとつが胸に残る。
(やっぱり……すごいな)
同期のはずなのに、まるで先をずっと歩いている人みたいだ。
無駄な言葉はないのに、必要なところだけ、きちんと手を差し伸べてくれる。
「ありがとう、瀬良くん!」
そう言うと、彼は一瞬だけ視線を逸らし、
「……別に」
短く答えただけで、再び片付けに戻っていった。
その背中を、美菜はしばらく見つめていた。
(……ゲームの件といい、今回の件も含めてちゃんとお礼したいな)
心の中に、小さな宿題が残ったまま、閉店作業は終わった。
***
帰宅後、美菜はソファに体を預けるように座り込み、そのまま背もたれに頭を倒した。
「……つかれた……」
思った以上に、今日は気を張っていたらしい。
閉店間際のレジトラブルと、瀬良の的確なフォロー。
その一つひとつが頭の中で反芻されて、ようやく終わったという実感が遅れて押し寄せてくる。
(ゲーム……配信もー…今日はいいかな)
瀬良に教えてもらったゲーム。
剣を持って、町を出て、仲間と旅をして、少しずつ強くなっていく。
派手さはないのに、不思議と夢中になってしまった。
「ここでセーブしてやめよう」と思いながら、もう少し、もう少しと進めてしまった結果、時計を見て慌てて寝たのを思い出す。
仕事の疲れと、その余韻。
スマホを手に取り、ぼんやり画面を眺めていると、不意に着信音が部屋に響いた。
「……?」
表示されたのは、知らない番号。
一瞬だけ迷ったあと、通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
『……あ、もしもし。瀬良だけど』
低くて、落ち着いた声。
「……え?」
一瞬、理解が追いつかない。
「瀬良くん!? えっと……お疲れ様!」
『急に悪い』
「ううん、大丈夫。どうしたの?」
少し間を置いてから、瀬良は本題を切り出した。
『お前、財布』
「……え?」
『スタッフルームに忘れてたぞ』
「……あっ」
言われた瞬間、今日一日の記憶が一気に蘇る。
帰り支度、片付け、挨拶。
そのどれにも、財布を確認した記憶がない。
(ほんとだ……全然気づいてなかった)
『閉店後の確認で机に置き忘れてるの見つけた。』
「ご、ごめん……全然気づかなかった…」
『今日集中力あんまり無かっただろ。』
「……え?」
『顔、疲れてた』
責める調子ではない。
ただ事実を述べるだけの声。
「あはは〜……昨日、ゲームちょっとやりすぎちゃって」
『ふん』
短い相槌。
その声はどこか暖かかった。
「というか、電話番号、どうしたの?」
『店長に聞いた』
「なるほど、ありがとう、わざわざ」
『明日、朝渡すな』
「助かる……本当にありがとう。」
『それと』
「?」
『探し物してたら、ノートが出てきた』
「ノート?」
『レジ締めの手順、まとめたやつなんだけど』
美菜は思わず身を起こした。
「え、それ……」
『俺が新人の頃に作ったやつ。今日みたいなの防げるだろうし、明日渡すから読んでみて。』
「……え、いいの?」
『うん。必要であれば。』
押し付けるでもなく、恩着せがましくもなく。
ただ「役に立つから渡す」という温度。
「……ありがとう。すごく助かる!」
『別に』
そのあと、少しだけ沈黙が落ちた。
(……?)
電話を切るには、少し間が長い。
瀬良が何か言いかけて、止めた気配がする。
「……他にも何かある?」
『……いや』
一拍置いてから、低い声が続いた。
『昨日のゲーム』
「え?」
思わず声が上ずる。
『教えたゲーム、やったって朝話しただろ』
「あ、うん!」
『どうだった』
「楽しかった……!
戦闘はシンプルだけど、町の人の話聞いたり、少しずつ強くなる感じがよくて」
『最初はそれでいい』
「え?」
『RPGは急ぐと面白くない。探索した方が楽しかったりするしな。』
なるほど、と美菜は頷く。
「レベル上げとか?」
『それも。あと、装備』
「装備……」
『武器より防具。死なない方が大事だから。』
レジの話と、同じ口調。
淡々としているのに、ちゃんと相手のことを考えているのが伝わる。
「なるほど……そう考えると、瀬良くんのプレイスタイル、想像つくかも」
『関係ない』
「えー、絶対関係あるよ」
少し間があって、瀬良が小さく息を吐いた。
『……また、よかったら』
「うん?」
『他にも、いくつかおすすめある。今やってるやつのコツも。必要であれば。』
「ほんと? じゃあ聞きたい」
『……そうか』
声がほんの少し柔らぐ。
その後、瀬良からゲームのコツや今流行りのゲームの話をし、時間はあっという間に過ぎていった。
「ねえねえ、ちなみに瀬良くんは普段どんなゲームするの?」
『んー……内緒』
「えー」
『あんまり大したゲームじゃないよ。』
「じゃあ、RPG?」
『色々』
またはぐらかされたけれど、不思議と嫌じゃない。
『……もうこんな時間か。結構話したな。』
「あ、ごめん。引き止めちゃった?」
『いや』
短い否定。
『じゃあ、明日』
「うん。ありがとう、瀬良くん」
『……おやすみ。またゲームの事とか分からないことあったら聞いて。俺でよければ教えるから。』
「ふふ、ありがとう。おやすみ。」
通話が切れる。
美菜はスマホを見つめたまま、しばらく動けなかった。
(……距離、少し近づいたよね)
踏み込みすぎない。
でも確実に、昨日より会話が増えた。
(……明日の朝、ちょっと楽しみ)
そんなことを思いながら、美菜はベッドへ向かった。
胸の奥に、静かで確かなときめきを残したまま。




