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推してもらうには近すぎる![改編]  作者: 塩田 樹
優しい世界へのログイン

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二つの世界のあいだで



河北美菜(かわきたみな)は、美容室の大きな鏡の前に立ち、静かにハサミを構えていた。

指先に伝わる髪の感触を確かめながら、無駄のない動きで刃を入れていく。

シャキッという乾いた音が心地よく響き、床に落ちる毛先が彼女の仕事の正確さを物語っていた。


鏡越しに映る自分の表情は、驚くほど落ち着いている。

集中しきった目、余計な感情の入り込まない所作。

それが河北美菜という美容師の顔だった。


お客様の骨格や髪質、普段の服装や雰囲気。

会話の端々から拾い集めた情報を頭の中で組み立てながら、完成形を思い描く。

そのイメージに向かって、迷いなくカットを重ねていく。

切りすぎないこと、重さを残すべき場所、動きを出す位置。

すべてが計算の上に成り立っている。


「このライン、少しだけ軽くしますね。」


低く穏やかな声でそう告げると、お客様は安心したように頷く。

信頼されていると実感できる瞬間が、美菜は好きだった。

髪型はただ整えるものではない。

その人の生活に寄り添い、鏡を見るたびに少し気分が上向くような存在であってほしい。

彼女はいつも、そんなことを考えながらハサミを動かしている。


仕上げにドライヤーをかけ、全体のバランスを確認する。

最後に軽くスタイリング剤をなじませ、鏡を正面に向けた。

柔らかく微笑みながら、穏やかな声で告げる。


「この髪型、きっと似合うと思いますよ。」


お客様は一瞬目を丸くし、それからゆっくりと表情を緩めた。

鏡に映る自分を何度も確認し、嬉しそうに頷く。

その様子を見るたびに、美菜の胸の奥がじんわりと温かくなる。

美容師を続けてきてよかったと、心から思える瞬間だった。


施術を終え、お客様を見送る。

ドアが閉まる音を聞きながら、美菜は小さく息を吐いた。

今日も無事に一日を終えられたという安堵と、心地よい疲労感。


時計を見ると、すでに閉店の時間が近い。

美菜はエプロンを外し、手早く片付けに取りかかった。


床に散った髪を掃き集め、ワゴンの上を整える。

使ったハサミやコームを丁寧に拭き、定位置に戻す。

無駄のない動きで、次々と作業を片付けていく。

この時間は、彼女にとって仕事とプライベートを切り替える大切な儀式のようなものだった。


店内では、他のスタッフたちもそれぞれ帰り支度を進めている。

シャンプー台の方から、水音が止まり、ドライヤーの電源が落ちる。

一日の喧騒が、少しずつ静けさに変わっていく。


「お疲れさまでした。」


すれ違いざまに声をかけ合い、軽く会釈を交わす。

その中で、美菜はふと視線を上げる。


カットチェアの近くで、道具を片付けている瀬良新羅(せら しんら)の姿が目に入った。

無駄のない動きで、静かに仕事を終わらせている。

相変わらず口数は少ないが、その背中には確かな安心感があった。


「瀬良くん、先上がるね。」


美菜がそう声をかけると、瀬良はちらりとこちらを見る。


「ああ。お疲れ。」


それだけの短いやり取り。

けれど、その一言だけで十分だった。

一緒に働く同僚として、多くを語らなくても、通じ合っている感覚がそこにはあった。


レジカウンターの方では、店長の田鶴屋 晃(たづや こう)が帳簿を広げ、レジ締めをしている。

電卓を叩く音が、静かな店内に規則正しく響く。

数字を確認するその横顔は、店長としての顔そのものだった。


美菜は近づき、軽く頭を下げる。


「田鶴屋さん、お先に失礼します。」


田鶴屋は顔を上げ、にこやかに笑った。


「お疲れさま、河北さん。今日も助かったよ。」


「ありがとうございます。失礼します。」


そのやり取りを終えると、美菜はロッカーから荷物を取り出し、肩にかける。

ドアに向かう足取りは、自然と軽くなっていた。


外に出ると、夜の空気が頬に触れる。

昼間の熱気が嘘のように、ひんやりとした風が心地いい。

深呼吸をひとつして、スマホで時刻を確認する。


「よし、間に合うね。」


小さく呟いた声には、抑えきれない高揚感が滲んでいた。

これから始まる時間を思うだけで、胸が弾む。


家路につきながら、頭の中ではすでに次の準備が始まっている。

今日の配信で何を話そうか。

どんなコメントが来るだろうか。

そんなことを考えるだけで、自然と笑みがこぼれる。


自宅に着くと、靴を脱ぎ、すぐに部屋へ向かう。

慣れた手つきでPCを立ち上げ、配信機材をセットする。

昼間の服を脱ぎ、リラックスした部屋着に着替えると、椅子に腰を下ろした。


軽く肩を回し、深呼吸をひとつ。

画面の向こうにいる人たちを思い浮かべながら、配信のスイッチを入れる。


「こんばんはー!みなみちゃんだよ!!」


弾んだ声と明るいトーン。

昼間の落ち着いた美容師の姿からは想像もできない声が、部屋に広がる。

それが、VTuberみなみちゃんだった。


彼女のチャンネル「みなみちゃんといっしょ」には、すでに一万人を超える登録者がいる。

画面には次々とコメントが流れ、挨拶や応援の言葉で埋め尽くされていく。


【待ってたよー!】

【今日も配信ありがとう!】

【みなみちゃん元気そう!】


「えへへ、ありがとう!今日も来てくれて嬉しいな。」


自然と笑顔になる。

ここでは、昼間の緊張感は必要ない。

誰かに元気を与えながら、同時に自分も癒やされる場所。


仕事のことは伏せたまま、日常の出来事を少しだけ脚色して話す。

するとコメント欄がさらに賑わい、空気が一気に温まる。

その一体感が、たまらなく好きだった。


美容師としての自分も、VTuberとしての自分も。

どちらも偽りではない。

どちらも、河北美菜という一人の人間を形作る大切な一面だった。


昼は鏡の前で、誰かの人生にそっと寄り添い。

夜は画面の向こうで、誰かの心を明るく照らす。


今日もまた、美菜は二つの世界を行き来しながら、自分らしく生きている。

それが彼女の日常であり、誇りだった。



***




「……はい、ということで、今日はみんなとの雑談枠だったけど、またこんな感じの枠もとりたいねー。

みんなとお話できて楽しかったよーー!!コメントたくさんありがとう!全部読み切れなくてごめんね。

それじゃぁ今日はもう遅いし寝ようか〜。

みんなありがとー!いい夢見てね!おやすみなさい!」


【またねー!】

【乙】

【おやすみなさい〜】

【楽しかったよー!】

【また配信待ってますね】


配信終了のボタンを押すと、画面が静かに暗転する。

時刻は午前0時ちょうど。


自分の「好き」だけを詰め込んだ時間は、どうしてこうも一瞬で過ぎてしまうのだろう。


(あーーー……楽しかった〜〜。

やっぱりこの時間が私の至福なんだよね〜。)


ヘッドセットを外し、椅子に深くもたれかかりながら、美菜は大きく息を吐いた。

昼間は美容師としてサロンに立ち、夜はVTuberとして画面の向こうの誰かと笑い合う。

忙しいはずなのに、不思議と疲労よりも充足感の方が勝っている。


ふと、配信画面に残ったコメントログをスクロールして見返す。

いつも通りの【楽しかった】【今日も癒された】という言葉の中で、ひとつだけ目に留まるコメントがあった。


【みなみちゃん、ゲーム実況もやってほしい!】


その文字を、何度も何度も読み返す。

ゲーム実況。

その言葉は、美菜にとってあまりにも縁遠いものだった。


(……ゲームかぁ。)


みなみちゃんとしての配信は、雑談、歌、相談枠が中心。

リスナーの悩みを聞いて寄り添ったり、たわいない話で笑ったり。

そこにゲームという選択肢は、今まで一度も浮かんだことがなかった。


なぜなら——。


美菜は、人生でほとんどゲームに触れたことがなかったからだ。


幼い頃、たった一度だけ。

それは小学校低学年の頃だっただろうか。

クラスメイトたちが放課後、集まってゲームで遊んでいるという話をしていた。


「昨日さ、○○のボス倒したんだよ!」


「えー!すごいじゃん!」


その輪の中に、美菜は入れなかった。

話題がわからない。

何がすごいのかも、何が楽しいのかもわからない。


ただ、楽しそうだな、羨ましいな。

そんな気持ちだけが胸の奥に溜まっていった。


その日、意を決して母親に話しかけた。


「お母さん、あのね。

みんながやってるゲーム、私もやってみたいなって……。」


一瞬、母親の手が止まった。

そして、こちらを見もせず、冷たい声で言った。


「……ゲームなんて時間の無駄よ。

そんなことしてる暇があったら勉強しなさい。」


それだけだった。

理由も、説明も、選択肢も与えられなかった。


「でも……」と続けようとした言葉は、母親の鋭い視線に飲み込まれた。


「あなたは頭がいいんだから。

いい大学に入って、いい会社に就職すればいいの。

余計なことに時間を使う必要はないわ。」


「はい……。」


その日から、美菜の中で「ゲーム」という単語は封印された。


ゲームをしたいと思う自分は、わがままで、出来の悪い子。

母親を失望させる存在。


そう、無意識に刷り込まれていった。


母はいつも言っていた。


「あなたのためを思って言ってるのよ。」

「将来困らないようにしてあげてるの。」


けれどその言葉の裏にあるのは、母自身の理想だった。


周囲に誇れる娘。

学歴も職歴も申し分ない、完璧な子。


美菜は、その理想を壊さないように必死だった。


怒らせないように。

がっかりさせないように。

常に「お母さんの望む美菜」を演じ続けた。


「すごいね。」

「さすがね。」


その言葉をもらうために、無理をするのが当たり前になっていた。


本当は何が好きなのか。

何をしたいのか。


考える余裕すらなかった。


(……親に刷り込まれた価値観って、ほんと根深いよね。)


画面に映るコメントを見つめながら、美菜は苦笑する。


ゲームは時間の無駄。

そんな言葉を信じて、避けて生きてきた。


けれど今は、もう大人だ。

自分で選んでいいはずだ。


美容師になったのも。

配信を始めたのも。

全部、自分で選んだ道。


(結局さー……あんなに言われてた有名大学入学も、大手企業就職もせずに反抗期こじらせて家出てきたんだけどねぇ……。)


思い返せば、あれは初めての反抗だった。


母の描いたレールから外れることへの恐怖と同時に。

自由になった安堵も、確かにあった。


━━━━━これからは、もっと好きな自分になりたい。


その言葉が、今の自分を一番よく表している気がした。



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