モラル
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朝、玄関を開けたミサコは顔をしかめて呟いた。
「また、汚れてる」
彼女はアパートの廊下にポタポタとたれている汚れを踏まないように注意しながら歩き、ゴミ置き場にゴミを出した。
部屋に戻ったミサコはため息をついた。
一年前に隣の部屋に女子大生が入居してから週に二回、燃えるゴミの日は毎回、あの有様だ。
隣の住人は大雑把な性格の様で生ゴミから出る汁がゴミ袋からもれてポタポタと廊下を汚しても気にならないようだ。
でもキレイ好きなミサコには耐えられない。
彼女はバケツと、この為にわざわざ買ったデッキブラシを持ち廊下に出ると掃除しはじめた。
次のゴミの日。
「きゃあ」
ゴミを捨てようと廊下に出た彼女は叫び声をあげた。
そこにはいつもの様にポタポタと汚れがあったが、それだけではなかった。
汚れにくっついている黒い物体があった。
ゴキブリである。
彼女は部屋からデッキブラシを取って来るとゴキブリ目がけて振り下ろした。
だがヤツは同じ様な局面を何度もかいくぐり生き延びてきた強者だった。
いとも簡単にデッキブラシをよけると走り回る。
「きゃあー」
叫び声をあげながら彼女は何度もデッキブラシを振り下ろした。
その時だった。
「ちょっと、中島さん」
名前を呼ばれてミサコが振り返ると大家が立っていた。
「何してるのさ」
「ゴキブリがいて」
「ゴキブリ? どうでもいいけど、あまり廊下を叩かないでよ。傷がつくからさ」
ミサコはムッとして大家に詰め寄った。
「大家さん、隣の女子大生に注意してくれましたか? ゴミの汁を垂らさないようにって」
「う、うん。ま、まあね」
大家の目が泳いでいる。
注意していないのだ。
彼が若い女性に甘いのは前から知っていた。
「ちゃんと注意して下さい。でないとゴキブリが寄って来ますから」
「・・」
「大家さん。お願いします」
「もう、口うるさいなあ」
「え?」
「だから、おばさんは嫌いなんだよ」
大家は憎まれ口をたたくと一階の端の自分の部屋に帰って行った。
気付けば、ゴキブリは姿を消していた。
そして、ミサコは怒りで唇を震わせながら立ち尽くしていた。
三日後の明け方。
大家の部屋のベランダにミサコはいた。
エアコンをつけない大家が夏は窓を開けて寝ているのをミサコは知っていた。
彼女は音をたてない様にアミ戸を開けると中に入った。
そして凶器として使えそうな物はないかと室内を見渡し、重そうなガラスの花瓶を見つけると手に取った。
彼女は指紋がつかない様にゴム手袋をしていたし返り血を浴びてもいいようにレインコートも着ていた。
大丈夫よ、大丈夫
ミサコは気持ちを奮い立たせた。
そして・・寝ている大家の頭に花瓶を打ち付けた。
遺体が発見されたのは翌日の事だった。彼女は窓から騒がしい外を不安げに見ていた。
すると玄関のチャイムがなった。
おそるおそるドアを開けると背広姿の男性が立っていて警察手帳を提示して言った。
「こんにちは、中央警察署の森口です。少しお時間、いいですか?」
「はい」
「事件の事はご存知ですか?」
「はい」
「それで昨日、何か物音を聞いたり不審な人物を見たりしませんでしたか?」
ミサコの心臓は早鐘を打つようだったが彼女は必死に自分に言い聞かせた。
大丈夫よ、血のついたゴム手袋やレインコートは昨日、ゴミに出して収集車が持って行ったから大丈夫
彼女は笑顔で答えた。
「いいえ、気になる事はありませんでした」
「そうですか、わかりました。ありがとうござ・・」
だが・・
刑事の言葉は途切れ、その目はある一点にくぎ付けになっていた。
彼の視線の先にあるのは玄関の床についている小さい汚れ。
それはゴミ袋から垂れた、わずか一滴の血痕であった。




