#1 疑問はすべての原動力となる
2254年――。
人類は「世界の超越」に成功した。
ある狂気の科学者が、既存の物理法則を踏み越え、次元の歪みを通して新たな地球を発見したのだ。
その地球は我々が暮らす世界とよく似ていた。空もあり、大地もあり、人間も存在する。だが、決定的に違う点があった。
そこでは科学技術がほとんど発展しておらず、代わりに「魔法」という力が人類の文明を支配していたのである。
火を灯すのも、病を癒やすのも、空を飛ぶのも、すべて魔法。
彼らにとってそれは空気のように自然で、不可欠な技術だった。
一方、こちらの世界――科学世界は、情報社会を完成させ、AIやロボティクスを駆使し、かつてない繁栄を迎えていた。
そのふたつの世界は本来、交わることなくそれぞれの発展を遂げていくはずだった。
だが、科学者たちは境界を越えた。
そして、悲劇は訪れる。
⸻
初めての交流の際、科学世界から数十人の代表団が魔法世界に派遣された。
彼らは旗を掲げ、「友好」を謳った。だが魔法世界の人間にとって、突如空から現れた見知らぬ人間たちは、脅威そのものだった。
「侵略者だ!」
その叫びとともに火球が飛び、氷槍が降り注ぐ。
科学世界の人間は抗議の暇もなく殺され、残された者も捕らえられ、公開処刑の憂き目にあった。
それは両世界の間に取り返しのつかない亀裂を生み出した。
以後、両世界は断絶し、長い戦争の時代に突入する。
科学世界は科学兵器を。
魔法世界は古代から受け継がれる大魔術を。
だが物量と効率に勝る科学は、じわじわと魔法世界を追い詰めていった。
戦いが長引けば長引くほど、消耗は魔法世界に集中した。
そして――2271年。
魔法世界はついに膝を屈した。
協定は結ばれたが、その内容は一方的に科学世界に有利なものであり、魔法世界の人々は徹底的に管理され、資源を供出させられるようになった。
それ以来、魔道具やポーションといった魔法産物が大量に科学世界に流通することとなる。
⸻
例えば、どんな怪我も治すとされる「ヘビーポーション」。
それは目を失えば再び見えるようになり、欠損した手足すらも再生する。
そんなものが、わずか五千円で購入できる。
また、火打ち石よりも安く売られている「点火石」や、子どものおもちゃのように扱える「小型浮遊石」。
これらが日常生活を一変させ、科学世界の人々はその恩恵を当然のように享受するようになった。
テレビでは連日のように「両世界の友好」と報じられ、人々は便利さに酔いしれた。
だが――本当に、友好など存在するのだろうか。
⸻
長島遼は、信じられなかった。
高専に通う16歳の少年。
父は「異交官」と呼ばれる、魔法世界との交渉を担う特別な職に就いていた。
その父はニュースに映るたびに賞賛され、「世界をつなぐ架け橋」と称される。
幼い頃の遼は、それを誇りに思っていた。
だが今は違う。
――あまりにも安すぎる。
――あまりにも便利すぎる。
その裏で魔法世界の人々がどうなっているのか、誰も気にしようとしない。
父でさえ何も語らない。
「……おかしいだろ、こんなの」
遼の胸には、日ごとに黒い靄のような疑念が積もっていった。
昼休みの食堂。
友人の篠原が笑いながらカレーを頬張る。
「おい遼、また難しい顔してんな。どうせポーションのことだろ?」
遼は曖昧に笑った。
「……ああ。おかしいだろ。五千円で手足が生えるなんて」
「いいじゃん。便利なんだから。俺なんか昨日転んで腕擦りむいたけど、百円の回復札で一発だぞ」
「医者要らずだよな。最高だろ?」
友人たちは笑い、話題はすぐに部活や恋愛へと移っていった。
遼だけが、心の奥に重苦しい影を残していた。
(……本当にこれでいいのか?)
協定の裏に、必ず秘密がある。
遼はそう確信していた。
夜。父が外務庁の会議へ出かけた隙を狙う。
遼は書斎に入り、机の奥から小さなケースを取り出した。
そこには、職員しか持てないIDカード。
普段なら触れることも許されないものだ。
震える指でそれをポケットに忍ばせる。
さらに市販の「変身札」を取り出した。
十分間だけ、姿を他人に変える魔道具だ。
「……これで、真実に近づく」
遼は静かに呟き、夜の街へ歩き出した。
重厚な門の前。
二人の警備員が立っていた。
「長島異交官。今夜は外務庁へ行かれたのでは?」
遼は心臓を跳ねさせながらも、父の癖を真似て眉をひそめる。
「……予定が変わった。確認が必要な案件がある」
警備員は一瞬だけ戸惑ったが、すぐに敬礼した。
「承知しました。お通りください」
IDカードが読み取られ、ゲートが開く。
遼は汗ばむ手を握り締め、施設内へと足を踏み入れた。
白い廊下。
無数の研究室に、見たこともない魔道具が並ぶ。
遼が足を止めた瞬間、警報が鳴り響いた。
《警告。予定外の入室を確認。侵入者の可能性あり》
「くそっ……!」
背後から武装した警備員が駆け寄る。
さらに前方からも現れ、完全に挟まれた。
「観念しろ!」
銃口が一斉に向けられる。
(もう終わりか……?)
だがその瞬間、警報音が変わった。
低いテンポが急に速く、高くなる。
「な、なんだ!?」
「この音……非常転送か!?」
光が走り、警備員たちの姿が一人、また一人と消えていく。
遼の足元にも同じ光が広がり――視界が白く弾けた。
気づけば広大な部屋に立っていた。
中央には紫色に輝く巨大な水晶。
一軒家ほどもあるその光は、脈動するように遼の瞳を射抜いた。
「……なんだ、これ……」
あまりの輝きに息を呑む。
心臓が早鐘を打ち、足が勝手に前へ進む。
(……これが、全部の原因……?)
ガラスは特別な魔道具で作られており、核兵器でも破壊できないと言われている。
だが近くの制御装置を操作すれば、一時的に解放できるらしい。
機械いじりが得意な彼にとって、複雑な制御盤も「挑戦」だった。
IDカードを使いながら淡々と作業をする。
「……よし……!」
数分後、ガラスが低い音を立てて引き上げられた。
直に見た水晶は、まるで意志を持つかのように光を脈動させていた。
「……吸い込まれそうだ」
思わず手を伸ばす。
その瞬間、背後の扉が開き、職員らしき男が飛び込んできた。
「そこから離れろ!」
だが遼は振り向かない。
伸ばした指先が水晶に触れる。
眩い光。
世界が反転するような衝撃。
そして――意識は闇に飲まれた。
目を開くと、そこは草原だった。
蒼い空、風の匂い。科学世界とは違う。
「……ここは……」
「動かないで」
振り返ると、茶色の髪の少女が杖を構えていた。
年は遼と同じくらい。
だが黒い瞳は冷たく、容赦がない。
「その服装……科学世界の人間ね」
「ち、違う! 俺は――」
「言い訳は聞きたくない!」
杖が光り、遼の身体を光の鎖が縛る。
「ぐっ……!」
地面に押し倒され、呼吸が苦しくなる。
少女は名を告げた。
「私は――中埜 美央。この世界の魔導士見習いよ」
遼が必死に弁解しようとすると、美央の瞳が揺れた。
一瞬、冷たい氷の中に、深い影がのぞいた。
「……私自身、科学世界の人間と話すのは初めて」
「なら……!」
「でも――私の両親は、科学世界の攻撃で死んだ」
遼は息を呑む。
美央の声は震えていた。
「村が焼かれて、目の前で奪われたの。
助けられなかった。炎と泣き声を……今でも夢に見る」
冷静に装っていても、彼女の言葉は悲しみと憎しみで濡れていた。
「だから私は、あなたが何を言おうと信じられない。
周りがそう言うからじゃない……私自身が、信じられないのよ」
遼は何も言えなかった。
鎖に縛られたまま、美央の瞳を見返すことしかできなかった。