君はゴールから見ていて
ユニクロで買ったマフラーを首に巻き付け、トレンチコートの前を開けてセーターを覗かせながら階段を登る。
すぐに鳥居があって、路に沿って屋台が立ち並んでいた。
人でごった返す境内を見回し、頭一つ高い男を見つける。
「達希」
「よぉ、来たな。あけおめ」
「ことよろ。水原は?」
「サッカー部の連中と行くんだと」
「そうか。じゃあ後は……」
「お、あいつらも到着だ」
振り返ると、振袖姿の女子がふたり立っていた。
赤い派手な色合いは勝気な古谷千夏によく似合っている。
対照的に静謐な印象の紺柄は、白川穂南の利発さを引き立たせていた。
「あけましておめでとう!」
達希が威勢良く頭を下げ、周囲も何事かと振り返る。
白川が慌てて両手を振った。
「古賀君、声が大きい……っ」
「おっと、すまん」
ちっとも悪いと思ってなさそうにニカッと笑う級友に、古谷はため息を吐いてから軽く腰を折った。
「本年もよろしくお願い致します」
「これはご丁寧に」
なんとなく釣られて頭を下げると、古谷が頭を下げたまま吹き出す。
「ふふっ、何その挨拶」
「いや、お前が言い出したんじゃないか」
「お前?」
「いや、うん、古谷、さん……」
「もう、千夏ちゃん?生駒君だって悪気があった訳じゃないんだから睨まないの。だよね、生駒君」
「お、おう」
急に微笑み掛けられ、ついドキッとして生返事してしまった。
「除夜の鐘が鳴る頃なら違ったろうけど、今は思ってたより賽銭箱の列は空いてるな。さっさとお参りして屋台行こうぜ」
「さんせー」
達希と古谷はさっきから明らかに屋台のぜんざいや豚汁に目が行っている。
夜明け前とは言え、新年祈願目当ての参拝客はもうひと通りの段取りを終えて帰り支度をする頃なのだろう。
僕と白川は並んでゆっくり歩いた。
「生駒君、なんだか落ち込んでるね。どうしたの?」
「え」
頬を撫でて、それから苦笑を溢す。
「分かる?バイト先で好きな人がいたんだけどさ、一個上の先輩でもうすぐ受験だからって、バイト辞めちゃったんだよ」
安東日和先輩は辞める前に交友のあった一人ひとりと話す機会を作っていたらしい。
岸辺優也先輩が最後に告白して玉砕したらしいと、シフトの相談をする時店長から聞いた。
「そっか。あーあ、折角高校受験終わってゆっくりできると思ったのに、来年にはもう大学受験に向けて勉強しないとなのかー」
白川は言う割に嫌そうでもなく、眠たげな半目で両手に息を吐きかける。
「僕、東京の大学受けようと思ってるんだ」
「……そう。私決めてない」
晴れ着の彼女はむっとした顔になる。
「受かるか分からないけど、私立文系で受験者が少ないところにすれば、合格率はそれなりに上がると思う。うちは共働きだし、家賃くらい払ってくれる筈。バイトもするけど。それでさ」
「……なに?」
「白川。一緒に東京行かないか?」
互いが無言になったところで、周囲の喧噪が間を埋めてくれた。
達希、古谷ペアは先に列へ並んでおり、他の参拝客が後ろに付いているので、一緒に固まるのは無理そうだ。
だらだらと行列に並んでいると、足踏みする自分が滑稽に思えてくる。
「先生は、そういうので受験校を決めるなって言ってるよ」
「そうだね。でも、目標があるのはいいことだと思うんだ。達成できなくても、モチベーションがあった方が楽しいのかなって」
「……私、そんな遠くでひとり暮らしするような、お金も度胸もないよ」
「ひとりじゃないよ。僕と一緒だ」
「なに、急に」
「ルームシェアすればいい。お互いにお金出し合ってさ」
「男の子となんて、親がなんて言うか」
「まあまあ、仮定の話だから。やり方はこれから考えればいい。とにかく、ふたりで上京するのを目標にしない?白川を見てると僕、なんだか頑張れるんだ」
最後の方は声が震えていた。
気分的には告白か、もういっそプロポーズに等しい緊張があった。
絶対、ゼッタイ断られる。
でも、言った。
自分の気持ちに正直であれた事を、僕は誇る。
「ねぇ、生駒君」
「うん?」
「ありがとう」
僕らの番が来た。
ポケットの財布に五円玉が無くて、ふたりして十円投げる。
鈴緒を揺すり、両手を合わせた。
どうかどうか、勇気をくれたこの子の未来が、満ち足りたものでありますように。
願わくば僕も、その傍にいられますように。
*
終業式を短く感じるようになったのは、僕が大人になったからだろうか。
覚えていない校歌を口パクしながら、選択授業で音楽を選んだ生徒達の熱唱を横目にする。
中学までに比べて静まり返る事の多くなった授業中の教室。
廊下に出る男子生徒は皆大柄で、自分より遥かに強い生物に見えた。
バイトをする生徒達は学校の外に世界を持っていて、高校卒業したら就職するって話してる男子とか、作曲でもう定収を得ているって女子とかもいて。
バラバラに分裂していく心を無理やりひとつの箱に押し込めた体育館は、ひんやりとした空気の中に暴走寸前の熱を湛えている。
背の順に並んだ生徒の中、前の方にいる白川穂南の背を見つけた。
僕は彼女に、情けなくも縋っている。
そんな事をしても強くなれる訳じゃないと分かっていたけれど、誰かを、支えを、求めずにはいられなかったのだ。
明日から春休み。
服を買いに行こう。
泊りがけで旅行してみよう。
早く大人になって、それで。
僕は背に組んだ両手をもぞつかせる。
それで、僕らは一体、どこへ向かうのだろう。
教室に戻り、鳥羽先生が珍しくしっとりした態度で、ホームルームを終えた。
そういえば、新学期からは文理選択次第で別々の教室に通うことになる。
彼女がこのクラス、一年五組の担任を受け持つのも、今日が最後なのだ。
感極まって涙ながらに先生と抱擁する女子達。
そんな姿を教室後ろからにやけ顔で冷やかす男子達。
猥雑な感情の渦を、開け放しの窓から吹き込む春風が浚っていった。
学校鞄を肩に掛け、教室を出る。
バイトに行って、金を稼ごう。
人生の豊かさは、預金残高に比例する。
学校の先生が教えてくれない、この世界の真実だ。
「秋広、待てよ」
追いかけてくる声に歩調を緩めた。
隣に並んだ大柄な男子が肩を竦める。
「冷たい奴だな。最後くらい一緒に帰ろうぜ」
「柄にもない事言ってんなよ。大体、違うクラスになるとは限らないだろ」
「秋広は文系だろ。理数ダメダメだもんなお前」
「うるさいな」
「俺、理系に進むわ」
立ち止まった僕をおいて、達希はどんどん先を歩いていく。
「正気か?」
「名大医学部受けようと思ってる。勿論、幾つか堰も受けるけどな」
階段を降り始める級友に走って追いつき、踊り場の上から声を張った。
「止めとけよ。お前にできる訳ないだろ」
「……何ムキになってんだよ」
「だって……っ」
達希が胡乱な視線で刺してくる。
息が詰まった。
「……ごめん。焦った」
「いいよ。そういう時期だ。誰だって」
言葉の途中で、達希は二階へ下りてしまう。
僕は黙ったまま、前髪を握り込んだ。
*
リビングには珍しく親父もお袋もいた。
ふたりとも私服姿で寛いでおり、それが逆に落ち着かない。
マンション世帯で狭いうちの部屋に、ソファはない。
ダイニングテーブルの椅子に座ってマグカップ片手にニュースを見る親父と、ラグカーペットに座って洗濯物を仕分けるお袋。
「母さん。タグに名前書くくらいなら、自分で洗おうか?」
お袋は妹が新しく買った服のタグにマジックで美琴と書きながら笑った。
「いいわ。何度も洗濯機回してたら電気水道代が大変だもの」
脱衣所にあるドラム式洗濯乾燥機を思い出し、それもそうかと僕は教科書に目を戻す。
「秋広は、こんな時期からもう受験勉強か。まだ高校入ったばかりだろう」
「現役の大学教授が何言ってる。意識高い奴はもう皆本格的に勉強始めてるよ」
「ねぇお父さん。予備校に入るのも手じゃないかしら」
「バイトしながらか?根詰め過ぎて勉強嫌いになるくらいなら、楽しめる範囲で取り組めばいいと思うがな」
英語問題集を解きながら息を付いた。
「僕、東京の大学に行きたいんだけど」
「「……」」
「友達とシェアハウスするんだ。賃貸契約は定収がないと難しいと思うから、父さんにお願いしたい。その分、生活費は友達に持ってもらう。学費は自分の口座からバイト代で払うよ」
「それじゃ足りんだろう。しょうがない。家賃と学費は父さん母さんでなんとかするから、生活費は自分でなんとかしなさい。まあ、そのお友達の親御さんとも話してみないことにはなんとも」
「お父さん、気が早いわよ。まだ一年生なんだし、秋広もそのお友達も、これから心変わりしないとも限らないんだから」
その通りだと僕も思った。
ただ、白川穂南の声は、今でも鮮明に覚えている。
『ありがとう』
「今すぐって訳じゃない。だけど、上京はしたい。それで、できれば、可能なら……」
僕は忙しなくシャーペンを走らせつつ、つっかえながら言葉を吐く。
「音楽が、やりたいんだ」
こんなこと、親に伝える必要はないのだろう。
進路のこと聞かれても、まだ決めてないとか誤魔化しながら、大学行きつつこっそりギターの練習なりしてれば良い。
それでもきっと、意味はあった。
手の震えを見下ろして笑う。
あるじゃないか。
僕にもちゃんと、やりたいことが。