元日見ゆる我らは誰ぞ
冬の気配が近付いてくると、待ち時間に空を見ることが多くなった。
大学生や社会人になっても、空模様だけは何も変わらず、そこにあり続けるのだろう。
新しくバイトが入って、シフトがちょっと薄くなった。
バスの椅子に座り、車窓に差した午後の斜陽に目を眇める。
今日は小説を持ってきたのだけど、どうにも開く気になれない。
景色はいつも通りで、スマホの電源を入れたら、ラインの通知が来ていた。
『この前行った琵琶湖の写真だよ。生駒君も良いのがあったら送ってくれない??』
眉を下げて微笑む。
続けざまに写真を投稿した。
『食べ物ばっかりw』
『旅は食べ物が一番記憶に残るんだ』
『そうなの?』
『そうだよ』
まあ、テレビの受け売りだけど。スタンプの応酬をしてその会話は終った。
次のトーク画面を表示する。
『少年、模試A判定だったぞ』
最初に沸き上がった感情が嫉妬だなんて、僕はつくづく。
『やったね。おめでとう』
『ありがと。気を抜かずにガンバル』
狸のガンバレスタンプを押した。
返信がなくて、ちょっと素気なかったかなと後悔する。
でもよく考えたら、この時間は真田さんもまだ予備校で勉強している頃だろう。
僕はスマホを閉じ、学校鞄から入れ違いに文庫本を取り出した。
“教室日記”。
直木賞ノミネート作品って、帯紙に書いてあった気がする。
主人公は男子高校生で、やりたい事を見つけられずにいるらしい。
読んでる内に、近所のバス停に着いてしまった。
帰ったら続きを読む前に、ちょっとギターを持ってみよう。
*
五時間目の授業はいつも眠い。
微睡みに落ちない為に必要なものは気力や根性ではなく、即物的な緊張だ。
僕は教室前方の戸に近い席に座る白川穂南の姿を目で追った。
彼女は平然とノートに板書を写し、時折社会科教師の村橋に視線を送っている。
浪高の制服は男女共ブレザーだ。
着膨れした印象にならないのは、彼女がそれだけ華奢だからだろう。
この僕の位置から視線を送れば、向こうに気付かれてもおかしくはない。
女子をジロジロ見ていたとなれば、何かしら冷やかしを受ける可能性もある。
そんな不安が、僕の意識を覚醒させていった。
「つまり飛鳥時代に於ける氏姓制度とは、ヤマト王権の下に貴族の地位を世襲制によって保障するもので──」
高校の授業ともなれば内容は多岐に渡り、情報の取捨選択は困難を極める。
几帳面になってはいけない。
肝要なのは特定の事柄について深く理解している事ではなく、浅く認識しているだけの知恵を増やしていくことだ。
シャーペンを走らせながら、僕は自らの要領の良さに思わず口角を吊り上げた。
ちらと何気に斜め右前方を見ると、目が合った。
件の白川──ではなく、対角線上の教室中央にいた古谷千夏。
緩くウェーブさせた長い髪を茶色く染め、生徒指導に見つかる度に地毛ですと言い逃れている歴戦のギャルだ。
仏頂面でこっちを睨む彼女の圧に耐えきれず、僕は肩をそびやかせながら黒板に視線を移した。
*
達希と二人並んで階段を下りていく。
「狙ってんの?」
そんな声が掛けられたのは、最初の踊り場に着く前のこと。
振り返ればそこに、膝丈のスカートから細肢を覗かせる茶髪の女子が仁王立ちしていた。
「え?何?」
「穂南と付き合いたいとか思ってんじゃないのって話」
「なぁ、俺邪魔かな」
「……先帰っていいぜ」
級友と手を挙げあって別れ、僕は古谷がこっちまで降りてくるのを待つ。
「別に狙ってるとか、そんなんじゃないよ。可愛いとは思うけど」
「じゃあチラチラ見んなよ。こっちまで気が散るわ」
「僕はただ、白川が真面目だから、見てるとこっちもやる気出るなーっと思って……」
「え……」
その声は、隣よりは少し前に先行して下りていたギャルのものではなかった。
二階から一階への中継地に、ひょこりと白川が顔を覗かせる。
どうやら先に下校していたらしい。
「生駒君、私のこと見てたの?」
「見てたわ。そりゃもう私が気付くくらい情熱的に」
大袈裟に手を振ってみせる古谷を恨めしく思いながら、架空の汗を垂らして僕は弁明する。
「窓際の席からだと反対端の白川はよく見えるんだよ。授業中眠くなった時とか、白川の方見ると目が覚めるから」
「そ、そう……」
嘘偽りなく正直に答えたが、白川はボブカットの前髪をくしくし弄り、何故か挙動不審になった。
古谷がこれまたわざとらしく下手な口笛を吹く。
僕は腕時計を確認して、二人を追い抜くように階段を下りていく。
新人バイト数人があっさり辞めたので、シフトはまたいつもの過密スケジュールに逆戻りだった。
彼女達は追いかけて来なかったが、古谷の「いいの?」という声だけは小さく聞こえた。
*
冬期休暇と言っても、中学生までの頃とは違い、講習と宿題もあるし、期間も年末年始休業をちょっと延長した程度のものだ。
それでも、暇な時間が増えるのはありがたいことで、僕は近場のファミマで発券したチケットを手に、電車で十五分ほどの距離にある劇場へ行って映画を見る。
食べ物コーナーのポップコーンメニューにイチゴカラメルソース味というのがあったのでそれにしたのだが、甘さが濃くて半分くらいからお腹をさすった。
斜め前の席に座る小学生くらいの女子ふたり組は大画面に釘付けになりながらも、その手は同じ味だろうポップコーンをぱくぱく口に運んでいる。
映画自体は実写コメディで、上演前に軽くスマホで調べた限りだと小説を原作として制作されているらしい。
会場では声を出してはいけないものと思っていたが、客席の埋まりは七割といったところで、囁き声や鼻をかむ音なんかしょっちゅう聞こえてくるし、ギャグシーンでは一同揃ってどっと笑う事さえあった。
思ったより気楽な場所だなと思う傍ら、僕の世界は不思議と以前よりひと回り小さくなった気がする。
僕が今焦がれる程に欲しい何かも、手にしてしまえば些細なものに変わってしまうのだろうか。
シアタールームを出た後は自転車に乗って、次の会場に向かう。
今日はこのままチャリで名古屋まで行き、現地のコンサートホールで行われる劇団の舞台見学をするのだ。
別段、観劇に熱を上げている訳ではない。
これは交友関係に於けるマウント合戦で有効なカードをゲットする為の、謂わば布石である。
ま、達希や水原に主導権を取ったから何って感じだが、ひとりの内に経験値を増やしておけば、女の子とデートする時に手慣れてる感を醸し出せるし。
暇と金を持て余した男子学生がひとり、平日昼間の道路を景気よく飛ばしていった。