暁から黄昏まで何メートル
月曜日だからって憂鬱とは限らないけれど、狭いバス車内で椅子を取り損ね、吊り革に掴まって怠い脚を伸ばしていると、つい要らぬ不安が首をもたげる。
最近英語に全く付いていけない事とか、高校受験を終えたばかりなのに担任の先生が大学受験に備えろってせっついてくる事とか、理科の宿題をやってこなかった言い訳が思いつかない事とか。
幸い家から学校までは二十分くらいの近場で、僕は早々に校門を潜って昇降口を過ぎ、階段を登って教室に着いてしまった。
遠くのマンションから自転車通学してる達希はいつも遅刻ギリギリに来るから、前の席はまだ空いている。
あいつが来ると邪魔されるからと、理科の宿題に取り掛かった。
意外と手古摺らずにすいすい解けて、ホームルームが始まるまで時間が余っている。
次々と入ってくるクラスメイト達が、教室を徐々に騒がしい空間に作り変えていく。
イヤホン、充電しといて良かったな……。
洋楽ブームも過ぎ去って、今はカルチャーリリカリズムってバンドのアルバムに沼っていた。
夏らしい雰囲気の曲調が琴線に響いて、まあ季節はもう秋なんだけれど、バス停で立ち呆けている時とか、夜九時くらいからお菓子を買いにコンビニへ行く道中で、最近よく流している。
ホームページをチェックしてみると、ライブ情報が載っていた。
かなり大きなコンサートホールで盛大に開催するらしく、エックスの告知ポストも相当バズってる。
「東京か……」
かなり小さい声で呟いたと思うんだけど、クラスの何人かがこっちをチラ見したので肩が強張った。
岐阜県から東京への新幹線が通っていないので、愛知県まではバスや電車で向かう必要がある。
高速バスに乗る手もあるが、いずれにしろ三、四時間くらいは見なければならない。
ここいらの地元民にとって、東京に行くことはある種のステータスなのだった。
バイト代でそこそこ儲かっているので、休日であれば泊りがけの遠征も辞さないのだが、公演日は平日らしい。
全国ツアー待ってます!とコメントして、そのままスマホの画面を閉じる。
予鈴が鳴った。
*
授業は滞りなく進む。
これでも、勉強は得意な方だと自負していた。
でも最近、自分は馬鹿なのかもしれないと思い始めている。
数学の教科書を開き放しにしてノートに板書を写しつつ、こめかみから冷や汗を垂らした。
覚えることの量が多過ぎて、頭が全然追いつかない。
周りを視線で見回すと、クラスメイト達は涼し気な顔で手を動かしている。
どうして皆、平然としていられるのだろう。
頭を抱えたくなったが、厳めしい数学教諭の真藤先生を前に、滅多な真似はできない。
僕はせめて振りだけでも分かってますよ、理解してますよという体を取りつつ、とにかくシャーペンを走らせ続けた。
「では次回までに、指定した問題を解いてくるように。来週小テストするからね」
チャイムが鳴って少し経ってから先生が出ていくと、教室はどっと疲れたような空気で満たされる。
それで、他の生徒にとっても難しかったらしいと、ちょっとだけ安心できた。
そんな自分が、あたかも人の不幸を喜んでるみたいで閉口する。
気分を変えようと教室を離れ、流し台まで行って水を飲んでいると、他の生徒達もそれぞれお喋りに興じながら、廊下へ出てきた。
部活に勉強、バイトに恋愛。
忙しそうに生きる彼らの声が飽和して、通路は混沌としている。
逃げるように教室に戻ると、何故かもぬけの殻だった。
これは知らぬ内に異世界への扉を開いてしまったのではと、最近読んだネット小説のネタを思い出してワクワクしながら自分の席に歩くと、黒板に書かれた文字が目に入った。
『次の授業は理科室です。by白川穂南』
*
息を切らせて戸を開けると同時に授業開始の鐘が鳴った。
「遅刻だぞー、席に着けー」
「すいません……っ」
教科書類と筆記用具入れを小脇に抱え、あたふたと真ん中の実験テーブルへ向かう。
教科書を広げる頃には、白衣に眼鏡が特徴の三嶋先生が教卓の実験材料を示しながら説明を始めていた。
「えー今日は中和反応について実験するぞ。塩酸と水酸化ナトリウム溶液を使うから、各班一人ずつ取りに来なさい。薄めてあるけど溢さないようにな」
発言が公に許されたことで理科室は俄かにざわつき、さざめきに笑い声が混ざったりする。
「僕が行こうか?」
「いいよ。座ってて」
色素が薄くてグレーに近い黒髪をボブカットにした女子生徒が、先程ばたばたしていた僕に苦笑を返して席を立った。
「なあ生駒!最近スイッチ買ったからお前が言ってたゲームダウンロードしたんだけどいやマジ良くってこれが」
「ちょちょ、水原、今一応授業中だから」
肩に腕を回してくる水原亮太に引きつつも、僕はちょっとテンション上がっていた。
「前話したってことは、オーバークック?あれ協力プレイするやつだよな。僕は妹とやったけど、お前一緒にやってくれる友達いたのか?」
「いたわ!部活の先輩んちで三組の奴も一緒だったわ!」
僕より全然交友関係広くて、途端にぐんなりする。
「……浪花高校サッカー部ってたしか、インターハイ出場とか言ってたような」
「まあな!俺はまだ一年だからベンチ入りもしてねぇけど、来年にはレギュラーになってやるぜ!」
「ちょっと男子、うるさいわよ」
ふたりして跳び上がり、長い髪を茶に染めた女子がむすっとこちらを睨み付けていた。
「お待たせー。あれ?千夏ちゃんどうしたの」
「穂南、ありがと」
古谷千夏は白川穂南の問いに聞こえなかった振りをする。
ますます水原と身を固くしていると、その内三嶋先生の講義が再開された。
*
中学の頃まであった給食も、高校からは各々用意することになる。
バイトをしていない者は殆どが金欠で、母が作ったお弁当を持参するのが常だったが、バイト組は購買やコンビニで購入した惣菜パンを有人に見せびらかし、自慢する特権を持っていた。
僕は玉子焼き以外冷凍食品で埋められた自作の弁当を広げ、すっかり冷えた白米を箸で掬う。
「しっかしあれだな。高校生になったら自然と彼女できるもんかと思ってたが、こう忙しいとそんな暇無いわな」
達希が焼きそばパンを噛み千切りながらぼんやり呟いた。
「だなぁ。やっと夏休みに入ったら講習だなんだって、結局登校させられるし。残りの二十日間も、宿題片付けて部活やってたら終わっちまうし」
水原が僕の机にアルミホイル入りおにぎりを持った腕を投げ出して疲れた声を出す。
「なあお前ら。集まってくるのはいいが、毎回僕の机にぼろぼろこぼすのはやめろ」
きんぴらごぼうを口に運び、咀嚼しながら机上の鮭そぼろや麺の切れ端をジッと見つめた。
「いやぁ助かる。自分の机で食うと授業中気になんだよなぁ」
「そのパン寄越せ」
手を伸ばしてひったくろうとすると、達希は仰け反って躱しながら大笑いしていた。
「おいおい、あんまはしゃいでっと先生が見に来るぞ」
「……それな。実際一組が真藤にシバかれたらしいし」
水原が教室前後の壁を振り返ると、達希も気まずそうに座り直す。
こいつ部活やってないのになんで別クラスの事情なんか知ってんだろうと、訝し気な目を正面に向けながらミートボールを食べる。
朝にはほかほかだったソースもチーズも、この時間にはもう固くなっていた。
*
六時間目の授業を終え、担任で英語教諭の鳥羽先生が、若手の女性教師らしいハキハキした声でホームルームを締め、放課後となった。
水原はクラスのサッカー部と競うように教室を走り出ていき、それを見た古谷が同じグループの女子に陰口している。
「さぁて、今日もめきめき働きますか」
「コンビニバイトだろ。そんな張り切る要素あるのか?」
「馬鹿言え。公共料金や配達の受領印押したり、店頭買い食い商品厨房で作ったりとか、色々覚える事あんだよ。新人教育とかしてくれねぇから、慣れるまでひたすら客にクレーム言われるしな」
「……お前も苦労してんだな」
達希とは同中で、家から近いって理由で浪高を選んだ。
僕は小学校六年生の時、大学教授である親父の転勤に合わせて広島から岐阜に越してきたが、その時は別クラスで絡みがなかった。
初めて話したのも、たしか中学三年生に進級したばかりの頃だ。
地区予選負けするような弱小チームとは言え、達希は野球部員として周囲から羨望を向けられていた。
僕はと言えば帰宅部で、誕生日に買ってもらったCDプレイヤーでラジオと音楽を聴くのが唯一の趣味。
当然仲良くなる余地などない筈が、家と学力が近いせいで志望校が被って、入試案内の度に顔を合わせることになった。
「じゃあな」
「うん、また」
手を挙げながら駐輪場の方へ歩き去る級友に背を向け、僕は校門を出てバス停の方へ向かう。
ポケットのイヤホンを探って、やっぱりやめた。夕暮れに鳴くひぐらしの声が聴こえたのだ。
バイトというのは慣れてしまうと同じ作業の繰り返しで、同僚とお喋りする余裕が出てきたりする。
「はぁ、彼女欲しー……」
そう物憂げに呟きながらモップの柄を掴んだ手の甲に顎を乗せ、安東先輩をじーっと見つめる青みのある髪を長く伸ばした青年。
岸辺優也先輩は大学二年生で、地方私立大学の経済学部に所属しているそうだ。
『サークル活動とかタルいしやってらんねー。それよかバイトして稼ぐわー』
とは僕がバイトを始めた当初の岸辺先輩の言である。
「先輩も二十歳ですよね?未成年に手を出したらアウトじゃないですか」
「ばっかお前、分かってねーな生駒。学生同士の恋愛は無礼講なの」
たまに帰りしなで会う安東先輩は制服を着ている事も多いので、彼女は高校生だと思われる。
直接尋ねる勇気はないが。
「配膳行ってきまーす」
「オーダー十三番テーブル、私やるよ」
近くの席同士で注文が来て、僕と安東(あとう先輩)は途中まで一緒に歩いた。
「彼氏とかいたことないなー……」
「えっ」
ボソッと囁かれた声はひとり言だったのかもしれないが、僕はつい大袈裟に振り返ってしまう。
「どうしたの、生駒君」
からかうような声音に、赤くなってバッと顔を背けた。
「いや、あの……。先輩も、そういう事言うんだなと思って……」
「何それ。ってか、生駒君こそ、彼女とかいないの?」
「いやぁ、僕はそういうのは」
「そっかー、真面目だもんねぇ」
その後すぐそれぞれの仕事に取り掛かる。
僕は営業スマイルを浮かべてカップル客に皿を差し出しながら、内心真面目ってどういう意味だろうと、延々考え込んでいた。
カートを戻しに行く時も、ハンディ端末を持って帰る先輩と同道した。
「でも、女子の友達とかはいるんでしょ。クラスメイトとかさ、気になる子とかいないの?」
「いや、そんな仲良しクラスじゃないんで。まあ、僕が誘われてないだけでラインのグループぐらいあるかもしんないですけど……」
「……な、なんかごめんね。そうだ!生駒君、私のこと友達追加してくれてる?もしクラスの男子になんか言われたりしたら、私のこと自慢していいよ」
「あ、はい。バイトのグループに入ってるんでそれは。でも、他の奴に見せるのはちょっとアレですよね、なんか彼氏ぶってる感でちゃうっていうか」
「んふふっ、ぇえ~、気にし過ぎだと思うよ。お、もうできたのか。早いな」
先程彼女が取っていた注文の品が出来上がったらしい。
他に仕事が無ければ、原則注文を取った人が配膳を担当する事になっている。
誰がどれを頼んだのか把握している方が、テーブルに皿を出す時に効率的だから。
カートを押し運ぶ安東先輩の赤みがかった後ろ髪を眺めていると、岸辺先輩がこっちを睨んでからオーダーに向かった。