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轟音と共に、石畳が粉砕された。 影の巨腕が叩きつけられた場所には、クレーターのような亀裂が走り、爆風がレオンの身体をボロ布のように吹き飛ばす。
「ぐっ……!」
レオンは瓦礫の上を転がり、壁に激突して止まった。 肋骨が数本逝った感触がある。口の中に広がる鉄錆の味。 だが、休む暇はない。影の腕はすでに液体のように形を変え、次の獲物――頭を抱えてうずくまるリリィへと鎌首をもたげていた。
「チッ、好き放題やりやがって!」
横合いからガルドが跳ぶ。 彼が狙ったのは怪物本体ではない。天井を支える梁から吊り下がっていた、巨大なシャンデリアの鎖だ。 ナイフが一閃する。金属音が響き、数トンの鉄塊が影の頭上へ落下する。
ズドンッ!
怪物は一瞬押し潰された。だが、物理的な衝撃など意に介さないように、影はその鉄塊すら飲み込もうと蠢き、表面から黒い泡を噴き出した。
だが、その一瞬の隙で十分だった。
「――寄るな! 入ってくるな!」
リリィが顔を上げ、絶叫した。 それは祈りではない。自分の領域を侵す者への、生理的な拒絶反応。
「消えろぉぉぉッ!」
リリィを中心として、空気が爆ぜた。 魔法のような光線ではない。波紋のように広がる、透明な「斥力」。
波動が影に触れた瞬間、怪物が音のない悲鳴を上げた。 ジュワワワッ……と、強酸で肉を焼くような音が響く。 物理攻撃も魔法も無効化した黒い粘液が、リリィの「拒絶」に触れた部分から白く泡立ち、強制的に分解されていく。
「中身が見えたぞ!」
レオンが血を吐きながら叫ぶ。 崩れ落ちたヘドロの奥。再生しようと蠢く闇の中心に、赤黒く明滅する心臓のような「核」が露出している。
「ミア! やれ!」
「ッ、……ふざ、け……!」
ミアが膝をついたまま、悪態をついた。 (やれ? 簡単に言ってくれるじゃない……!) 魔力は空だ。さっきの一撃で、生命力すら削り取った。 ――ああ、あの薬さえあれば。 ポーチから消えた青い小瓶。あれ一本あれば、こんな苦労もなく吹き飛ばせたのに。
視界が霞む。血管が焼き切れそうだ。 だが、ここで撃たなきゃ全員死ぬ。あのコソ泥も、薄汚い自分も、ここで肥料になるだけだ。
「……持ってけ、ドロボウ!」
ミアは自身の杖を握りしめた。 媒体にする。杖に込められた魔石ごと、自分の指の毛細血管を破裂させて、無理やり魔力をねじり出す。
バヂィッ! 杖が砕け散ると同時に、彼女の指先から血飛沫が舞った。
「穿てェェェッ!」
放たれたのは、血の色が混じったどす黒い炎の槍。 それは悲鳴のような風切り音を上げ、露出した「核」へと一直線に突き刺さった。
ドォォォォォォン……!
断末魔。 影が内側から爆ぜる。 飛び散った黒い飛沫は、床に落ちる前に霧となって蒸発し、鼻をつくオゾン臭だけを残して掻き消えた。
あとには、荒い呼吸音だけが残された。
「……ハァ、ハァ……ッ」
ミアが前のめりに倒れ込む。 手は炭のように黒く焦げ、指の感覚はない。 (……最悪。赤字もいいとこだわ……) 彼女は霞む視界で、無傷で立っているガルドの背中を睨みつけた。あの男が懐に入れている薬があれば、指を犠牲にすることはなかった。殺意が湧く。だが、声を出す気力すらなかった。
レオンは剣を杖にして身体を支え、脂汗を拭った。
「……終わった、のか?」
誰かの呟きが、広間の空虚さを際立たせた。
祭壇の上には、ひび割れた宝珠がまだ浮いている。 だが、それを見守っていたはずの黒衣の男――アーロンの姿は、どこにもなかった。
「逃げたか……」 レオンが舌打ちをして周囲を睨むが、足跡ひとつ残っていない。まるで最初から幻影だったかのような消え際だ。
「おい、これ」 ガルドが祭壇に歩み寄り、顔をしかめた。「本当に持ち帰っていい代物なのか? どう見てもガラクタ寸前だぞ」
リリィがふらりと立ち上がり、うつろな目で宝珠を見た。 「……封印は、維持されています。でも、もう限界です」
沈黙。 持ち帰れば金貨五十枚。だが、ちょっとした振動で砕け散りそうな代物だ。
レオンが、決断を下そうと口を開きかけた、その時だった。
――ピキッ。
硬質な音が、静寂を切り裂いた。 全員の視線が祭壇に釘付けになる。
――パキキキキッ……。
宝珠の表面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走った。
「……おい、嘘だろ」 ガルドが一歩後ずさる。
ドクンッ。 遺跡全体が、心臓の鼓動のように大きく跳ねた。
「なっ……!?」 「倒したはずでしょ!?」
ミアの悲鳴を打ち消すように、亀裂の隙間から、ドロリとした「本物」の闇が溢れ出した。 さっきの影は、ただの「殻」に過ぎなかったのだ。




