7
影が、決壊したダムのように広間へ溢れ出した。 それは単なる闇ではない。数百年分の呪いが発酵し、腐り落ちた、黒い汚泥の濁流だ。床を這い、壁を舐め、触れるものすべてを腐食させながら、生き物のように脈動している。
「チッ……!」
レオンが舌打ちと同時に剣を薙ぎ払う。 銀閃が黒い奔流を捉えた。だが、手応えは泥を叩いたように鈍い。 斬り裂かれた断面から、血の代わりに黒い靄が噴き出すが、傷口は瞬く間に癒着し、何事もなかったかのように再び膨れ上がる。 物理的な干渉を拒絶する、圧倒的な質量。
「下がれ、レオン!」
背後でミアが叫んだ。 彼女の目は血走り、呼吸は荒い。魔力欠乏の震えが、恐怖でさらに加速している。 (燃やす。燃やし尽くせばいい。……魔力が要る。燃料が要る!)
彼女の手が、痙攣しながら腰のポーチをまさぐった。 そこに、あの「青い小瓶(安定剤)」があるはずだった。あれさえ飲めば、震えは止まり、脳が焼き切れるほどの火力が出せる。
だが。
「……え?」
指先が触れたのは、空虚な布の感触だけだった。 ない。 あるはずのポーションがない。
「嘘……なんで? さっきまであったのに!」
ミアが悲鳴を上げ、ポーチの中身を地面にぶちまける。 枯れた干し肉、小銭、化粧道具。……だが、命綱である青い瓶だけが、神隠しに遭ったように消え失せている。
「ない、ない、ない! 私の薬! 誰よ、どこやったのよ!」
錯乱するミアの背後で、ガルドが「あーあ」と小さく顔をしかめた。 彼の懐には、硬いガラスの感触がある。 (……今さら返せねぇよなぁ。ま、死んだら死んだで頭数が減って取り分が増えるか) ガルドは冷めた目で、パニックに陥るミアを見つめた。罪悪感など微塵もない。あるのは、面倒事に対する徒労感だけだ。
ここで「俺が盗みました」と名乗り出れば、影に殺されるより先に、この狂った魔女に焼き殺されるだろう。 彼は沈黙を選んだ。仲間の命より、自分の保身を選んだのだ。
「早くしろ! 来るぞ!」 レオンの怒声が飛ぶ。
「う、うあああああッ!」
追い詰められたミアが、破れかぶれに両手を突き出した。 外部の燃料がないなら、自身の生命力を燃やすしかない。 彼女の鼻からツーと一筋の血が流れる。血管が悲鳴を上げ、皮膚が裂けるほどの負荷。
「消えろぉぉぉッ!」
詠唱破棄。代償と引き換えに放たれた紅蓮の炎が、影の奔流へと着弾した。 轟音と熱波。 広間が一瞬、真昼のように明るく照らし出された――はずだった。
ジュッ。
炎が、消えた。 燃え広がることはなかった。まるで砂漠に水を撒いたように、黒い泥が炎を「吸い込んだ」のだ。
「……は?」
ミアが呆然と口を開ける。 影が、ごくりと喉を鳴らすような音を立てた。 攻撃を受けたのではない。「食事」を提供されたのだ。 ミアの削った生命力ごと魔力を貪り食い、影は爆発的にその体積を膨張させた。
どろりと垂れ下がる黒い粘液が固まり、一つの形を成していく。 巨大な骸骨を模した頭部。人間よりも遥かに長く、節くれだった異形の腕。 肋骨の隙間には、たった今捕食したミアの残り火が、心臓のように赤く、嘲笑うように明滅していた。
「あ……あ……」
ミアがへたり込む。 魔力切れ。薬もない。あるのは、自分を餌として認識した化け物の視線だけ。
異形の怪物は、空洞の眼窩で四人を見下ろした。 声帯を持たないはずの喉から、風切り音のような咆哮が放たれる。
——ギィィィィィィンッ!
空気が震え、鼓膜が破れそうなほどの圧力が襲う。 レオンは脂汗を流しながら剣を構え直すが、その切っ先はわずかに震えていた。 物理は通じない。魔法は餌になる。退路はない。
完全な詰み(チェックメイト)。
「来るぞ!」
影の巨腕が、天井をこするほどの高さから、絶望的な質量を持って振り下ろされた。




