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石の回廊を進むにつれ、肌を刺す空気が変わった。 湿ったカビの臭いは消え、代わりに、鼻の粘膜を焼くような強烈なオゾン臭が充満している。
「……ッ、オェ……」
ミアが口元を覆い、えずいた。 彼女の顔色は、死人のように青白い。魔力に敏感な彼女にとって、この空間は放射能汚染された原子炉の中を歩くようなものだ。 震える手が、腰のポーチを探る。だが、そこにあるはずの「安定剤」は、もうない。 (ない……なんで……?) 彼女は血走った目で周囲を見回すが、今は問い詰めている余裕すらなかった。
「……うるさい、うるさい……!」
リリィもまた、限界だった。 両手で耳を塞ぎ、うわ言のように呟きながら歩いている。ここに来て、「声」のボリュームが脳を破壊するほどの音量に跳ね上がっているのだ。
レオンは無言で顎をしゃくった。 回廊の突き当たり。闇の奥から、不気味な青白い燐光が漏れ出している。 ガルドが舌打ちをし、短剣を逆手に持ち直す。 四人は、腐った空気を吸い込み、広間へと踏み込んだ。
そこは、かつて礼拝堂だった場所だ。 高いドーム状の天井。壁一面に刻まれた幾何学模様。 そして中央、崩れかけた祭壇の上に、それは鎮座していた。
封印の宝珠。 だが、それは美しい宝石などではなかった。 ガラスの表面を、内側から黒い泥が叩いている。まるで、生まれたがっている奇形児の胎動のように、ドクン、ドクンと脈打っている。
「……趣味の悪い宝石だこと」 ガルドが顔をしかめた。「あれじゃ金にはならねぇな」
「……誰か、いる」
リリィの悲鳴のような囁きが、静寂にヒビを入れた。
祭壇の前。 冒険者たちの煤けた格好とは対照的な、一点の汚れもない清潔な法衣を纏った男が立っていた。 男は、侵入者であるレオンたちに気づいているはずなのに、振り返りもしない。ただ、愛おしい恋人の肌に触れるような手つきで、汚染された宝珠を撫で回している。
「……素晴らしいとは思わないか?」
よく通る、朗々とした声だった。 男がゆっくりと振り返る。 整った顔立ち。慈愛に満ちた瞳。だがその奥には、狂気という名の濁った泥が沈殿していた。
その顔を見た瞬間、リリィが凍りついた。
「あ……あ……」 呼吸が止まる。ガタガタと歯が鳴る。それは、生物としての根源的な恐怖。
「司教……アーロン……様……」
「おや」 アーロンと呼ばれた男は、眉を上げて微笑んだ。 「見覚えのある顔だと思えば……私の修道院から廃棄処分にした『失敗作』ではないか。まだ生きていたのかね、リリィ」
「知り合いか?」 レオンが問うが、リリィは答えられない。ただ首を横に振り、後ずさりする。
「失敗作とは失礼な」 アーロンは愉快そうに笑った。 「彼女の脳に『神の受信機』を埋め込んだのは私だよ。もっとも、感度が良すぎて発狂してしまったがね。……使い物にならないから捨てたのだが、まさかこんなゴミ溜めで再会するとは」
リリィの「声」の原因。 それは神の奇跡などではなく、この男による人体実験の結果だったのだ。
レオンの中で、何かが切れる音がした。 任務だの、報酬だの、そんなものはどうでもいい。 ただ、目の前のこの男が、たまらなく不愉快だった。
「……テメェか。この女を壊したのは」
「壊した? 崇高な実験だよ。……さて、感動の再会は終わりだ」
アーロンの視線が、リリィから宝珠へと戻る。 その指が、宝珠の表面にぐり、と沈み込んだ。
「褒美だ、廃棄物ども。お前たちのその汚れた魂を、最初の餌にしてやろう」
「やめろッ!」
レオンが床を蹴る。 殺意のままに踏み込み、錆びた剣を一閃させる。
だが、遅かった。 アーロンの指が、宝珠を貫通した。
——ピシリ。
硬質な音が、広間に響き渡った。 世界が反転する。 宝珠から溢れ出したのは光ではない。数百年分溜め込まれた、行き場のない「呪い」の濁流だった。




