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レオンの怒声が合図だった。 影が鞭のように腕を振り下ろす。石畳が豆腐のように無音で抉られ、砕け散った破片が散弾となって四人を襲う。
ガルドが床を転がって回避し、影の死角へと回り込む。盗賊特有の音のない足運び。 彼は影の背後から跳躍し、愛用の短剣をその首元へと突き立てた。
ズブッ。
だが、手応えがなかった。まるで濃密なヘドロに棒を突っ込んだような、気持ちの悪い感触。 影の輪郭がぶれ、傷口がガルドの手首ごと飲み込もうと蠢く。
「ッ、この野郎!」
ガルドは慌ててナイフを引き抜き、バックステップで距離を取った。 だが、手元を見た瞬間、彼の顔が引きつった。 愛用の短剣――刃こぼれひとつなかった業物が、強酸に浸したようにボロボロに腐食し、煙を上げていたのだ。
「……ふざけんなよ」 ガルドが呻く。 「これ一本で金貨二枚はしたんだぞ……! 弁償しろよ、クソお化けが!」
商売道具の破損。彼にとってそれは、自分の指を折られるのと同じくらい痛烈な損害だった。
「どきなさい!」
後衛のミアが叫ぶ。彼女の両手には、すでに脂汗と共に練り上げられた魔力が赤熱していた。 レオンとガルドが左右に開く。射線が通る。
「消えろッ!」
放たれた火球が、唸りを上げて影の顔面へと直撃した。 爆音と熱波。狭い回廊が紅蓮に染まる。
「……やったか?」 レオンが腕で顔を庇いながら目を細める。
だが、煙が晴れた先にいたのは、無傷の影だった。 炎は影の表面で揺らめき、そしてズルズルと内側へ「吸い込まれて」いった。
「……は?」
ミアが間の抜けた声を漏らす。 効かないのではない。影は、火球の魔力そのものを糧にして、さらに巨大に、より濃密な闇へと変貌していた。
「嘘……食べた?」 ミアの声が裏返る。 「ふざけないでよ……私の魔力なのよ! 返してよ!」
それは恐怖というより、貴重なリソースを奪われた薬物中毒者のヒステリーに近かった。
影の虚ろな眼窩が、明確な意志を持ってミアを捉えた。 魔力を持つ者。最も美味な餌。 影が膨れ上がり、無数の黒い触手となってミアへ殺到する。
「ッ……!」 ミアは腰がすくんで動けない。
万事休す。 誰もが最悪の結末を覚悟した、その時。
「――静まりなさい」
鈴を転がすような、しかし氷のように冷徹な声が響いた。 リリィだ。 彼女はパニックに陥る戦場の中で、一人だけ不気味なほど静かに佇み、両手で耳を塞いでいた。
彼女の唇が紡ぐのは、慈愛に満ちた祝詞ではない。もっと利己的で、切実な拒絶の言葉。
「うるさい。……消えて。……私の頭の中で、喚き散らすな」
リリィの全身から、音のない波紋が広がった。 光線ではない。ただ、その波紋に触れた空間から「色」が抜け落ちていくような、透明な衝撃波。
それが影に触れた瞬間、怪物は悲鳴すら上げられなかった。 黒い泥が白く泡立ち、乾燥し、砂のように崩れ落ちていく。物理攻撃も魔法も通じなかった不死身の影が、リリィの「拒絶」に触れた部分から、存在そのものを世界から削除されていく。
数秒の後。 回廊に残されたのは、僅かな黒い塵と、荒い呼吸を繰り返す三人のあぶれ者たちだけだった。
「……おい」 ガルドが、引きつった顔で壊れた短剣を捨てた。 「今のはなんだ? 僧侶の浄化魔法にしちゃあ、効きすぎだろ。まるで『存在ごと消し去った』みたいだったぞ」
「……ただの祈りです」 リリィは無表情のまま、頭痛に耐えるようにこめかみを押さえた。 「彼らは、ここに留まることを許されない『異物』でしたから。……だから、追い出しただけです」
レオンは剣を鞘に収めながら、リリィの横顔を無言で見つめた。 彼女が教会を追われた理由の片鱗を、見た気がした。それは救済というより、強制的な「排除」に近い。
「だが、助かった」 レオンが短く言うと、リリィは小さく首を振った。
「いえ……喜んでいる場合ではありません。今の影は、ただの残りカスです」 「残りカスだと?」 「あれは、封印から漏れ出した『汚水』のようなもの。中身が腐り落ちて、外に溢れ出している……つまり」
「……最深部じゃ、もっとヤバいのが待ってるってことか」 レオンが吐き捨てるように言った。
扉は開いていた。影が溢れていた。 それは、この遺跡がすでに「死んでいる」ことの証明だった。
「行くぞ。……止まるわけにはいかねぇ」
レオンが駆け出す。 回廊の奥、闇の向こう側から、ゆらゆらと青白い燐光が漏れ始めていた。




