12
リリィの身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。 レオンが滑り込み、その身体を抱き留めた。
「……ッ、軽るぅ……」
レオンの腕に残った感触は、驚くほど頼りなかった。体重がないのではない。「存在」そのものが希薄になっている。まるで、幽霊を抱いているかのような虚無感。
リリィはうっすらと瞼を開けた。焦点は合っていない。 だが、その口元には、自嘲めいた笑みが浮かんでいた。
「……ざまあみろ、です……。消して、やりました……」
それは聖女の言葉ではない。あぶれ者の意地だった。 ガルドとミアも、泥と血にまみれてへたり込んでいる。誰もが限界だ。指一本動かすのも億劫な沈黙の中――。
パチ、パチ、パチ。
場違いに乾いた音が、広間に響いた。 拍手だ。 瓦礫の山と化した回廊の陰から、埃ひとつついていない清潔な靴が踏み出された。
「ブラボー。実に素晴らしい働きだったぞ、廃棄物ども」
アーロンだ。 彼はまるで観劇を終えた貴族のように、満足げに頷いていた。周囲の惨状とは無縁の、一点の汚れもない法衣が、レオンたちの神経を逆撫でする。
「テメェ……!」 ガルドがナイフを構えようとするが、手が震えて取り落とした。「クソッ、力が入らねぇ……」
「無理をするな。君たちの役目は終わったのだ」 アーロンは愉快そうに瓦礫を跨ぎ、レオンたちの前で立ち止まった。
「感謝するよ。あの黒い影は、長年の呪いで固まった『殻』でね。中にある純粋な『神の力』を取り出すには、誰かに殻を割らせる必要があった」
アーロンの視線が、レオンの腕の中――薄く発光し始めたリリィへと注がれる。 その瞳は、信仰心ではなく、実験動物を見る研究者の冷徹さで濁っていた。
「見ろ、美しい。極限のストレスで精神を焼き切ることで、ようやく『受信機』が完成したわけだ。……さあ、その娘を渡したまえ。私が正しく管理してやろう」
「……管理、だと?」 レオンが低い声で唸る。立ち上がろうとするが、膝が笑って動かない。
「そうだ。教会に戻れば、彼女は『聖女』として祀り上げられる。君たちのようなゴミと野垂れ死ぬより、よほど幸せだろう?」
アーロンが手を伸ばす。 その指先には、護身用の結界魔法が何重にも張り巡らされ、眩いばかりの魔力の光を放っていた。
その時だった。
「……プッ、アハハ!」
突然、ミアが吹き出した。 恐怖で壊れたのではない。それは、決定的な「喜劇」を目撃した者の、乾いた嘲笑だった。
「な、何がおかしい」 アーロンが眉をひそめた直後。
ボコッ、ジュルリ。
嫌な音がした。 アーロンの足元の瓦礫の隙間から、黒い粘液が湧き出したのだ。 リリィの光で焼き払われたはずの「影」。その燃えカス――灰のように降り積もっていた黒い粒子が、意思を持ったように集まり、アーロンの足を掴んでいた。
「な、なんだこれは……放せ、汚らわしい!」
アーロンが足を振るう。 だが、粘液は離れない。それどころか、彼の身体から溢れる「魔力」の匂いを嗅ぎつけ、飢えた獣のように這い上がってくる。
「……わからないの、司教様?」 ミアが、口元の血を拭いながら冷たく告げた。
「そいつは『飢えてる』のよ。私たちみたいな空っぽの出し殻にはもう興味がない。……でも、アンタは違う」
レオンたちには、もう一滴の魔力も残っていない。影にとって、彼らはただの石ころと同じだ。 だが、目の前には、たっぷりと魔力を蓄え、結界で身を固めたご馳走がいる。
「ひッ、あ、あっちへ行け! 私は選ばれた……うわぁぁぁ!?」
黒い泥が一気に膨れ上がった。 結界の魔力そのものを食い破り、アーロンの口を、鼻を、眼球を塞いでいく。
「んぐ、ご、ぼ……ッ!!」
助けを求めるように伸ばされた手。 その指先が、レオンの鼻先をかすめる。 レオンは動かなかった。助ける力がないからではない。ただ、冷ややかな瞳で、その断末魔を見下ろしていた。
「神の力が欲しかったんだろ?」 レオンが唾を吐き捨てる。 「たっぷり食わせてもらえよ。……俺たちみたいな『汚れ役』には、高尚すぎて味がわからねぇからな」
ズズッ、バクン。
下品な捕食音が響く。 アーロンの身体は黒い泥に包まれ、圧縮され、やがて――プチリと弾けた。
あとには、ボロボロになった豪奢な法衣だけが残された。 彼を飲み込んだ泥もまた、魔力を吸い尽くして満足したのか、今度こそ乾燥して砂のように崩れ去った。
「……あっけないもんだな」 ガルドが這いつくばったまま、ヒヒと喉を鳴らして笑った。 「ざまぁみろ、なんて言う気も起きねぇ。……ただの事故死だ」
広間には再び静寂が戻った。 元凶は死んだ。だが、ハッピーエンドには程遠い。
「レ、オン……」
腕の中で、リリィが震えた。 見れば、彼女の指先が――光の粒子となって、透け始めていた。




