10
黒い雨が、重力に従って地面に溜まるのではない。 それは意思を持って集まり、蠢き、再びあの忌まわしい巨体を形成しようとしていた。
一度は霧散させたはずの「番人」。 だが今目の前にあるのは、そんな生易しいものではない。封印という枷を外され、純粋な災厄として顕現した「死」そのものだ。
ズズズ……と、湿った音が広間に響く。 不定形の泥が鎌首をもたげるたび、周囲の空間がミシミシと悲鳴を上げ、壁の石材が腐ったようにボロボロと剥がれ落ちていく。
「……冗談きついぜ」
ガルドが呻くように言った。 短剣を構える手が、わずかに震えているのがわかる。 「さっきので死ぬ気でやったんだぞ? あれよりデカいのが出てくるなんざ、聞いてねぇよ」
「魔力も……ほとんど残ってない」 ミアが唇を噛み切りそうなほど強く食いしばる。「今のあいつは、周囲のマナを根こそぎ喰らってる。魔法を使おうにも、燃料がないのよ」
物理は通じず、魔法も封じられた。 逃げ場もない。
完全な詰み(チェックメイト)。
レオンは剣の切っ先を下げそうになるのを、気力だけで押し留めた。 死ぬのはいい。あぶれ者として生きた末路が、名もなき遺跡での野垂れ死にだとしても、それは自業自得だ。 だが、あんな「泥」に飲み込まれて、惨めに消化されるのだけは御免だった。
「……どうする」 レオンが誰に問うでもなく呟く。「一か八か突っ込んで、玉砕するか?」
「いいえ」
凛とした声が、絶望的な空気を切り裂いた。 リリィだ。 彼女は黒い泥の奔流を直視したまま、一歩前に出た。
「私が、もう一度封じます」
レオンが驚いて振り返る。 「封じるって、どうやってだ? 宝珠はもう粉々だぞ」
「宝珠はただの『器』です。術式そのものは、まだこの場の残留思念として漂っています。……それをかき集め、再構築します」
「そんなことが可能なのか?」
「やります」 リリィは強く言い切った。「それしか、あいつを止める方法はありません」
彼女の横顔には、悲痛なほどの決意が滲んでいた。 先ほどの「ごめんなさい」という言葉の意味を、レオンは問いただしたかった。だが、今はその時ではない。
「……時間は?」
「わかりません。でも、私の祈りが完成するまで……どうか、私を守ってください」
それは、実質的な自殺命令に等しかった。 迫りくる怪物に対し、攻撃手段を持たないまま、ただ「壁」となって時間を稼げというのだから。
ガルドが「ハッ」と短く笑った。
「最高だなおい。金も貰えねぇ、逃げ場もねぇ、挙句の果てには聖女様の肉壁かよ」
彼はナイフを逆手に持ち直し、獰猛な笑みを浮かべる。
「だがな……あのクソったれなギルドの思い通りに、無抵抗で死んでやるのも癪だ。そうだろ?」
ミアも深呼吸を一つし、杖を構え直した。 「……悔しいけど、同感ね。あんな泥人形に負けたまま終わるなんて、私のプライドが許さない」
あぶれ者たちの瞳に、暗い炎が宿る。 それは希望の光ではない。理不尽な運命に対する、最後の反抗の意思だ。
レオンは剣を掲げ、リリィの前に立った。
「聞いたな、リリィ。……死んでも終わらせろ」
「はい」
リリィが膝をつき、祈りの姿勢に入る。 同時に、黒い巨人が咆哮を上げた。
――オオオオオオオオッ!
鼓膜を破るごとき絶叫と共に、無数の触手が四人へと殺到する。
最後の防衛戦が始まった。




