白黒コンビ
「ふぅ……少々遅れてしまいましたね……」
道行く人々が、すれ違いざまに振り返る。秋風に揺れるのは夜空を切り取ったような艶やかな黒髪。紫乃は耳に指をかけて髪を払うと、ルビーのような瞳をわずかに伏せ、物思いに沈んだ表情を浮かべた。
黒のレザージャケットにイエローのワイドパンツを合わせたコーディネート。肩からは黒い鞄を斜め掛けしていた。ラフさの中に都会的な洗練と個性が光る装いだった。
「さて、麗音さんは……」
待ち合せ場所は駅前の宝くじ売り場の前。だが、そこにあったのは予想外の光景。売り場を通り越してなお続く長蛇の列。億万長者の夢に群がる行列かと思いきや、その先には、一人の銀髪の少女が立っていた。
長い銀髪をツーサイドアップにまとめ、蒼い瞳を憂鬱そうに伏せながら、スマホを見つめている。
薄手のグレーのカーディガンに白のトップス。ロング丈の濃いグレーのプリーツスカートが上品な印象を与える。左手には白い小ぶりの鞄。その姿は待ち人を静かに待つ人形のようだった。やがて、顔を上げた麗音は唇をわずかに尖らせた。
「……遅いわよ」
「講義が長引きまして」
それより━━━
「この長蛇の列は何なのですか?」
紫乃の問いに、周囲の人々は麗音を仰ぎ見るように手を合わせていた。麗音は何も言わずに、さらりと前髪を払った。
「私に願掛けしてるんじゃない?そういうのよくあるし」
「ああ、そういうことですか……」
紫乃は麗音の言葉に得心がいくと、すぐに興味を失った。紫乃自身も、麗音とは別のベクトルで人を惹きつけるため、この手の異常は日常として受け流せる。
「あの……モデルに興味はありませんか?」
「面倒」
麗音は即答した。その一言は、切り捨てるというより門前払いそのものだった。
「お二人なら、一気にモデルのトップになれること間違いありません!」
人当たりの良さそうなスーツ姿の男。笑顔の奥には、金の卵を見つけた獲物を逃すまいとする執念が潜む。二人はそれを感じ取り、同時にため息を吐いた。
紫乃は鞄から名刺を取り出し、いかにも上から目線で差し出す。
「今日はデート中なので後日ここに連絡してください」
「は、はい!失礼しました!」
麗音は駄目だったが、紫乃から可能性を感じたスカウトマンは嬉々として去っていった。
「……いいの?」
麗音は確認するように問うた。
「構いません。アレは私に近付く人間を処理するためのものなので」
淡々と告げる紫乃。その背後に、東雲家という巨大な影が見えた。麗音は呆れたように鼻を鳴らす。
「紫乃って、性格悪いわね」
「ふふ、麗音さんには負けますよ」
互いの皮肉に笑みを交わす。
「それではお手を。お姫様」
差し出された紫乃の白い手。その行為に一瞬驚いた麗音は、すぐに大胆不敵な笑みを浮かべた。そして、麗音は紫乃の手ではなく、紫乃の腕に身体を絡ませた。
思わぬ密着に紫乃の肩がわずかに跳ね、紅い瞳が一瞬大きくなった。
その反応を見て麗音はからかうように囁いた。
「そうやって人の反応を見て楽しむ癖……直した方がいいわよ」
「……でしたら、突発的な行動で後先考えずに行動する癖も直した方がいいかと」
紫乃の冷静な切り返しに、麗音はむっとして視線を逸らした。
「……照れてない」
麗音はプイッと顔を背けた。紫乃は麗音がカウンターに弱いことを知っているが、その弱さと攻撃力は表裏一体。天然で突拍子もない行動をする麗音には、いまだに不意を突かれることが多い。
「と、友達同士ならこれくらい当然でしょ?」
「……恥ずかしいならやらなきゃいいじゃないですか」
「だから、そんなことないもん……」
頬をぷくっと膨らませ、子供のような抗議をしてきた。これ以上いじると、幼児退行することになるので、紫乃はしぶしぶといった表情でため息を吐いてから、麗音の頭にそっと手を置いた。
「そうですね。私たちは友達ですから」
「ふふん、分かればよろしい」
得意げに胸を張る麗音。その姿はまるで家族の末妹。紫乃はこの純粋な少女が今までどうやって生きて来たのか知らない。けれど、こうして時に負けを認め、麗音の笑顔を守ることに抵抗はない。
駅前に現れた白と黒の二柱の女神。戯れるように歩みを交わすその姿に、衆人環視は釘付けになり、一挙手一等足から目を離せなかった。
◇
「ここよ!」
麗音が子供のように弾んだ声を上げる。案内されたのは、都内の片隅にひっそりと佇む歴史ある建物だった。外壁は黒ずみ、木枠の窓は古びた光沢を失い、地震が来れば一瞬で崩れてしまいそうだ。本は店先まで溢れ、段ボールに積まれたまま雨ざらしになっている。通りすがりなら、店主の怠慢を疑うだろう。
扉を押し開けると、鈍い金属のベルが小さく鳴った。カウンターの奥から現れた気難しそうな店主は、丸眼鏡をクイッと指で押し下げ、紫乃たちを一瞥しただけで興味を失くしたように視線を逸らす。掠れた声で「……いらっしゃいませ」と聞こえた気もするが、麗音はまるで聞こえていないかのように、まっすぐ本棚に向かっていった。
「古本が欲しいのなら、私の家で取り寄せますよ?」
紫乃は当然のように提案する。
「分かってないわね、紫乃」
麗音は片手で指を鳴らし、もう片方の手で舌を軽く打ち鳴らして得意げに言った。
「傷んだ紙の手触り、擦れたインクの掠れ具合、やる気のなさそうな店員、年季の入った木製の棚。そしてその上に置かれた謎の人形や木彫りの熊。そう言う全てが混ざり合って、古本屋は完成するの。分かる?これはれっきとした一つの文化よ」
「ほぅ……」
紫乃は店内を見回す。古紙の独特な匂いが鼻腔をくすぐり、外の雑踏の喧騒から一枚の薄い膜に隔離されたような気分になる。確かに麗音の言う通り、この空間には都会の中でひっそり息付く別世界の気配があった。
「ふふ、これは一本取られました。私が認識を改めてなければなりませんね」
紫乃が素直に賞賛すると、麗音は得意げに頷いた。
「でしょ?……ああ、でも」
「ん?」
「……紫乃はこういう話を分かってくれるから好きよ」
麗音はそう言って文庫本に顔を隠した。けれど、ほんのり耳が赤くなっていた。
「……私も選びますか」
紫乃は本棚を見上げ、一歩踏み出した。ぎっしりと並んだ背表紙の群れは、まるで無限の可能性を孕む迷宮だった。軽く一周しても、選択肢は増えていくばかり。
「そういう時は━━━運命ね」
「運命?」
「ええ。本には無限の可能性があるの。だから、どれを選んでもそれは巡り合わせ。だから、何も考えずに一冊、手に取ってみると良いわ。私もそうやって選んだもの」
「そうなのですか?」
「ええ。だって、どれが自分の感性に響くか分からないじゃない。嫌々読み始めた本が、自分にとって名作になることだってあるわ」
「なるほど……」
郷に入っては郷に従え。
麗音の言うように、特に何も考えることなく、真ん中からやや右下の一冊を引き抜いた。
「さて……」
タイトルは『曹操のフリー恋』。紫乃が普段絶対に手を取ることがなさそうなタイトルだった。
あらすじは曹操の恋愛譚っぽいが、帯のキャッチコピーに『自害しろ』と大書されているのが妙に気になった。
「……まぁ、これも運命でしょう」
微笑んで表紙を撫でる紫乃の横で、麗音も数冊の本を大事そうに抱え、こちらを見ていた。
「紫乃は決まった?」
「ええ」
「それじゃあ、行きましょう」
◇
「今日は付き合ってくれてありがと……」
帰り道。麗音は再び紫乃の腕に絡みつき、横顔を見上げながら微笑んだ。その声色は、先ほどまでの軽やかな調子とは違い、どこか柔らかく沈んでいた。
「ふふ、お安い御用です。こちらこそありがとうございました」
紫乃はいつものように微笑む。古本屋自体にあまり興味がなかったが、新しい価値観を知れたので来てよかったと心の底から思う。
「紫乃は、本当に私と楽しもうとしてくれるから……誘いがいがあるわ」
「そうですか?」
紫乃は自分から何かを提案することは少ない。だから、そう言われたのは意外で、胸の奥がわずかにくすぐったくなる。
「桜月は本屋に誘ったって来ないだろうし、朱奈は目を離したら何をしでかすか分からないし……」
「それは確かに……」
二人の脳裏に、容易に想像できる光景が浮かび、思わず小さく笑いが漏れた。
「聡さんは?」
「楽しいに決まってるわ」
麗音は即答する。その声音には、微塵の迷いもなかった。
「だけど、四人の中で紫乃と一緒にいるのが楽よ……どんな些細なことでもちゃんと理解しようとしてくれるし……」
「……こ、光栄です」
紫乃は思わず服の襟を持ち上げ、口元を隠した。麗音の真っ直ぐな言葉は、社交界で幾多の心理戦をくぐり抜けてきた紫乃にも、抗いがたい力を持っていた。
「照れてる?」
「……その言葉そのままお返ししますよ」
軽口を交わしながらも、握り合った手の温もりは離れない。その温度が、街灯の明かりよりも確かに二人を照らしていた。
「また、付き合ってくれる……?」
麗音の問いは、空気の中にふわりと溶けた。
「ええ……もちろん」
その答えと同時に、電光掲示板の光やネオン街の輝きが、二人の姿を鮮やかに縁取る。
黒と白。
対照的な二柱の女神は、静かな笑みを交わしながら駅前の雑踏へと溶け込んでいった。




