お前だけは絶対に━━━
麗音の凍てつくような鋭い視線が佐野を射抜いていた。それにも関わらず、佐野は一切ためらうことなく、穏やかな笑みを麗音に向けた。
「一か月ぶりぐらいだね。元気にしてた……って、おい……」
麗音は佐野を無視すると、俺と視線の高さを合わせてきた。さっきまでの情けない姿が思い出されて視線を逸らしてしまったが、麗音はしょうがない子供を見るように微笑んだ。
「ごめんなさいね、聡。少し遅れたわ」
「いや、それはいい。それより……」
「その先は必要ないわ」
麗音はそう言いながら、そっと俺の唇に手を当てた。
「聡が私たちのことを大切に想ってくれているのは嬉しいわ。でもね、それが全部、聡への罪悪感に基づいているなんて思われたら……少し悲しいわ」
「麗音……」
麗音はわずかに目を伏せた。けれど、すぐに冷ややかで端正な表情に戻ると、車椅子の取っ手を無言で掴んだ。
「さ、お昼と行きましょう。ラーメンを食べたいって紫乃が言ってたわ。庶民の料理を味わいたいらしいわよ」
「……はは、紫乃らしい」
麗音の冷たくて凛とした声が今は何よりも温かい。不思議だった。さっきまでの息苦しさは少し緩和され、安心感があった。麗音が俺の車椅子を後ろから押してくれる。いつもは気恥ずかしくて、すぐに降りたくなるが、今はとても安心させられていた。
「久しぶり、麗音。元気にしてた?」
「━━━」
「ッ」
麗音は佐野の存在を初めから無かったかのように扱っていた。講堂の扉をくぐると、
「聡君、お待たせ~!」
「うお!」
桜月が俺の車椅子に笑顔で突っ込んできた。そして、面を上げると、打って変わって表情が曇った。
「大丈夫?怪我が酷くなってない?私たちがいないと一人で何もできないから心配で心配で……」
「平気平気。いつも通り」
むしろ、桜月が突っ込んできたせいで余計に痛い。
「心配していたのは私も同じです━━━」
「本当だよ~桜月ちゃんだけ優遇してほしくはないな━━━」
桜月の後ろから口を尖らせた朱奈と紫乃が入ってきたが、声に感情がなくなった。
「え?え?どうした━━━ああ、そういうこと」
桜月が俺の後ろのナニカを視認すると、瞳が真っ黒になり、声に抑揚がなくなった。
「桜月」
佐野が桜月を呼ぶが桜月はその声に反応することなく、俺を笑顔で見据えた。
「麗音から聞いたと思うけど、大学の外に美味しいラーメン屋さんがあるらしいよ。ねっ、紫乃」
「ええ、早く行きましょう。『券売機』なるものを使ってみたいのです」
「相変わらず、お嬢様だね~」
「おい、待てよ……」
佐野がゆらりと揺られていた呟いていたが、俺以外の四人には全く耳に入っていないようだった。何より、俺が後ろを見ようとすると、壁を作って視界を阻んで、俺の車椅子を押し始めた。
◇
「おい……」
足に鉛でも付いているかのように、全く動かない。手を伸ばしても大事なものが掴めない。まるで遠ざかる蜃気楼のようだった。
「待てよ!聞きたいことがたくさんあるんだよ!」
声をかけたが、暖簾に腕押しとばかりに全く反応がない。
「紫乃って、ラーメンがどういうものか知ってるの?」
「愚問です。私を何だと思ってるんですか……」
「好奇心旺盛なお騒がせお嬢様でしょ。お腹に入るかしら……」
「足りなかったら、私に頂戴よ~お腹空いてるんだよね~聡君もでしょ~?」
「え?あ、え~と。まぁ、そうだな」
お前じゃねぇよ!
入谷と目が合うと、すぐに壁ができて、視線は合わなくなった。前を行く五人の中で入谷だけが例外的に俺を認識している。皮肉なことにそのことが俺の目の前を歩く四人が幻じゃないと教えてくれていた。
「なぁ、そろそろ、無視しないで俺の話を聞いてくれよ!」
ようやく、俺の身体と頭の意志が一致して、追いかけ始めた。久しぶりの再会だっていうのに、俺を見向きもしない四人に少しだけ苛立ってきたが、努めて冷静さを維持しようと踏ん張った。けれど━━━
「じゃあ、私が食べさせてあげるね~」
「それは、ちょっとズルいんじゃないかな!?ねぇ、聡君。利き手じゃない手でラーメンなんて食べたら、跳ねちゃうから私が手伝ってあげるよ!」
「桜月みたいなお騒がせガールが近くにいたら、聡の食欲が削がれるでしょう?私はそこまでお腹が減ってるわけでもないし、聡の面倒は私が見ておくわ。貴方たちはラーメンを堪能してなさい」
「それはズルじゃありませんか、麗音さん。私ですよね?」
「いや、1人でいいんだけど……」
「おい!やめろよ!」
俺の【四方美女】たちが俺以外の男を取り合っている。しかも、仲が良さそうにだ。俺が告白を保留したのは四人の絆を深める時間を与えるためだった。
けれど、それはすべてこの輪の中心に俺がいるためであって、別の人間のためではない。焦燥感に駆られた俺はもう感情を抑えこむことができなかった。
「何でそんな奴の近くにいるんだよ!お前ら、全員、俺のことが好きだっただじゃん!連絡しても無視するしさ。一体全体何が起こってるんだよ!」
エレベーターの前で四人の背中がようやく止まった。
「はぁはぁ、ようやく止まったか」
俺の呼吸音だけが空間に響く。さっきまで騒がしかった四人が凪のようにピタッと静かになった。
このチャンスを逃すわけにはいかない。
「なぁ、答えるのが辛いなら頷くだけでいい。SOSを出してくれ。何があっても助けるから!」
こんなことを彼女たちが望んでいたはずがない。入谷が優しさに付け込むと同時に何か弱みを握ったのだ。そうでなければ、好きな男にこんなことを仕打ちをするはずがない。
しかし、ランプが二階に差し掛かり、扉が開くと四人は一切俺の方を向くことなく、入谷とエレベーターに入っていった。
「ぐっ!待てって!」
止まってはいけない━━━そう思った俺は勢いよく足を踏み出し、閉まりかけたエレベーターの隙間に足を突っ込んだ。ドアはわずかな衝撃とともに停止し、閉じる動きがピタリと止まった。
「ッ!優しい桜月たちのことだ!弱みでも握られたんだろう!?本当はやりたくないのに、入谷聡に脅されてさ!」
ピクリと彼女達の耳がかすかに動いた。
「入谷も入谷だ!何か言えよ、クソ野郎が!」
最後まで車椅子を押す麗音と紫乃のせいで顔が見えない入谷を責める。何も言わないところが卑怯で狡猾だ。
「ねぇ」
「……桜月か?桜月……!」
俺の必死な懇願が届いたのか、桜月が勇気をもって応えてくれた。
やっぱり桜月は入谷に酷い目に合わされていたんだ。だったら、俺が今すぐ━━━
「━━━死ねよ」
ゾク
桜月の黒を漆黒で塗りつぶしたような恐ろしい瞳と耳を刺すような冷たい声に反応する間もなく、ギリギリに開いたエレベーターのドアから、桜月の右手が素早く伸びてきた。
その細い指が俺の胸倉を掴むと、瞬間的な力強さに何をする間もなく、身体が前に引き寄せられた。桜月の手に迷いは一切なく、俺をエレベーター内へと引きずり込もうとしていた。
「え……?」
混乱と恐怖が入り混じった小さなつぶやきが俺の口から洩れたが、それと同時に桜月が手を引っ込め、無情にもドアが閉まった。
俺は勢いのまま、頭が扉につっこみ、鈍い衝撃が顔全体に響き、痛みに思わず顔をしかめて床に転がった。
「~~~~!」
「━━━」
鮮血が空を舞い、床を彩った。
エレベーターのドアが再び開かれると、桜月が俺をゴミを見る目で見下していた。霞んだ視界の中には朱奈が笑顔で開閉ボタンを押しているのが見えた。
皮肉なことに、痛みのおかげで俺の頭はすぐに再起動した。
「ッ、何を……!?」
俺の言葉はすぐに詰まった。桜月だけじゃなく、紫乃と麗音まで同様の表情で俺を見下していた。
「下衆が……私たちの命の恩人に向かって何様のつもりですか?」
「利用している?弱みを握られてる?私たちの聡を貶めるのもいい加減にしなさいよ」
「は、はぁ?一体何を言ってるんだよ。なぁ、朱奈」
「名前を呼ばないでくれるかな~?━━━穢れるだろうが」
いつもなら穏やかで優しい口調が崩れ、冷たさと怒りを含んでいた。誰をも癒すはずの朱奈の笑顔の仮面が剥がれ、恐ろしいほど真顔だった。
なんだ?本当に一体何が起こってるんだ?
思考と現実が乖離し続けていて、俺の認知が定まらない。すると、桜月が倒れる俺の前に座ると、俺の髪をぐしゃりと掴んで、自分と同じ高さまで持ち上げられた。
視線と視線が合うが、桜月の瞳はブラックホールのようだった。
「散々、私たちを弄んでおいて、よく普通に話しかける気になったよね。挙句の果てに私たちの聡君の心に傷を与えようとするなんてさ。死ね死ね死ね死ね死ね死ね━━━死ねよ」
「ひっ」
今、俺の目の前にいるのは桜月なのか……?
桜月の拘束から無理やり抜け出るために後退したので俺の髪が少し抜けたが恐怖が感覚を遮断し、何も感じることができなかった。桜月が立ち上がると、ドアが無情に閉じ始めた。
「二度と話しかけないで。お前だけは絶対に━━━」
最後の言葉が途切れると同時に、エレベーターの扉が音を立てて完全に閉じた。
俺は放心しきってしまい、頭の中は真っ白だった。その瞬間の桜月たちの侮蔑に満ちた表情が、鮮明に焼き付いて離れない。底知れぬ怒りと冷たさがそこに宿っていた。
コロス━━━
最後の桜月の口元の動きがそう言っているように見えてしまった。
「お、俺が何をしたって言うんだよ……!」
俺の胸には恐怖と困惑、そして━━━
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