断章 「おはよう」をあなたに、「おやすみ」をきみに ③
「入れ、早くしろ。俺も疲れてんだよ」
「すみ、ません」
防護服の研究員に、蹴り込むようにして部屋に押し込まれる。時間もだいぶ遅くなったからだろうか、くぐもった声そのはどうにもイライラしているようだった。感情の見えない鏡面仕上げのバイザーにはよたよたと動く自分が映っていて、これでは苛立つのも仕方ないと申し訳ない気持ちになる。
「……ハイドラくん!」
聞こえるはずのない声が聞こえて、びっくりしてそちらを向くと駆け寄ってくる少女の細い膝が見えた。
「なんだお前また来てたのか。ちょうど良いや。後始末しといてくれ」
やる気のなさそうな研究員の声に、クピドの怒ったような声が答えているのが聞こえる。ばたんと背後で扉が閉まって、医薬品ケースを抱えたクピドが駆け戻ってきた。
「……大丈夫?」
さっき怒鳴っていたのと同じ人間とは思えないくらいに、優しい声が問う。心配の色が濃くにじんでいるのがなんだかひどく申し訳なくて、笑顔を作った。
「だいじょうぶ。いつものことだから、なれてる、よ」
なのに、彼女の顔には怒りが浮かぶ。
「もう、馬鹿。慣れちゃダメなんだよ」
促されるままに両手を上げると、するするとシャツを脱がされた。あちこちに血の滲んだ包帯があらわになる。クピドの表情が歪んだ。
潤んだ目を隠すように顔を背けて、クピドが立ち上がる。医療品ケースの中から布を取り出してシンクへ向かった。水の流れる音が少しの間響いて、戻ってきたクピドが黙って包帯に手をかけた。
はらりはらりと、解けた包帯が床に落ちていく。ひんやりとした空気が皮膚を剥がされた背中を撫でて、重い息が落ちた。包帯を巻かれた時ほどの痛みはないので、もう再生しかけているのだろう。
「ごめん、ちょっと痛いかもだけど、拭くね」
ひやりと濡れた布の感触に、一瞬身体が強張った。いつも処置される時の擦り下ろされるような痛みはなく、肌を撫でる濡れた布が徐々に温かくなっていく感触に身を委ねて目を閉じる。処置をしてくれるクピドが防護服も、手袋さえもしていないことを思い出してしまったが、この時間が終わるのが惜しくて押し黙った。
なんだか自分がひどくいじましく、どうしようもない生きもののように思えた。母のくれた名前を胸の内で小さく繰り返す。名前というのは強固なラベルだ。自分が本当は何なのかを、忘れないでいさせてくれる。
微温く心地よい布の感触が離れていき、がさがさと袋の鳴る音がした。そっと背後を見ると、赤黒い染みのついた布類をクピドがせっせとバイオハザードマークのついた袋に片付けている。
「あ……ぼくも、てつだうよ」
「いいよ。新しい包帯巻くからじっとしてて」
そう言われては縮こまっている他なかった。きゅっと瓶の蓋を開けるような音がして、「しみるよ」の声と共にひやりと冷たい感触が身体を這う。ちっとも痛くなかったけれど、冷たい刺激に身体は小さく跳ねた。
手早く消毒を済ませて包帯を巻き付けていく手さばきに、淀みはない。彼女のオリジナルは軍人で、こうした医療措置も訓練の一環として身につけていたんだと、以前にそう聞いた。
やわらかい布が剥き出しの肌を覆っていく。研究員たちにそうされている時は見えないように隠されていくような気がするのに、彼女がするとまるで護りの祈りのようだった。
新しいシャツを着ながら、ぺこりと頭を下げる。
「いつもありがとう。きみには、たすけてもらってばかりだね」
教わったばかりのきみ、という呼び方が少し気恥ずかしい。でもそう呼ぶと、きみは嬉しそうにするから。
クピドは少しくすぐったそうな顔をして、ちょっとだけ唇をとがらせた。
「……ばかりじゃ、ないよ。ねぇ。ごはんは?」
苦笑して腹をさする。今日は色々採られたから、しこたま回復用のゼリーを飲まされた。空腹感はまったくない。
「ぜりー、いっぱいのんだから。おなかいっぱい」
「そっか。じゃあもう寝たほうがいいね」
ベッドに向かって促されるまま、素直に横になる。薄掛けがふわりと掛けられて、ベッド脇に座り込んだクピドが髪を優しく撫でた。
「ありがと、クピド。もう、だいじょうぶだよ」
「ん。きみが寝るまで、ここにいる」
大丈夫なの、と喉元まで出掛けた言葉を飲み込む。そんな事を言ってもきみはきっと帰らない。きみをきちんと、自分のベッドで眠らせたいのなら。
「おやすみ、クピド」
そう言って、大人しく目を閉じる。
「おやすみ、ハイドラくん」
眠る間際に言葉を交わせる事が、あるんだと思った。
ずっと髪を撫でてくれる感触に身を委ねてゆっくりと呼吸していると、徐々に速度の遅くなった手がふと、止まった。ややあって、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてくる。
ごく薄く目を開いてクピドのほうを見ると、薄いベッドの端に上体を預けたまま眠ってしまったようだった。そうっと上体を起こして様子をうかがう。しばらく見ていても起きる様子がないので、そっとベッドから降りるとその華奢な肩に一枚しかない薄掛けをかけた。起こさないように慎重にベッドに戻って、眠るクピドの横で丸くなる。
瞑った目にかかる睫毛が、綺麗だと思った。淡い桃色の、爪の先さえも美しいと思った。美しいものや愛らしいもの、優しいものを指して、天使と言うらしい。
華奢な指の先を、つまむように握った。これくらいなら、化け物が天使に触れても許されるだろうか。
触れた部分から、温かさが染み入ってくるような気がした。とろりと瞼が重くなる。
「おやすみ、クピド」
もう一度だけそう呟いて、ハイドラはその日の意識を手放した。
次回の更新は、8/22です。




