断章 「おはよう」をあなたに、「おやすみ」をきみに ②
独房のような狭い収容室には、スプリングの存在を知らないような薄くて硬いベッドと、金属の枠組みそのままの小さなシンクがひとつあった。ベッドの上にはきちんと畳まれた薄い上掛けが一枚置かれていて、シンクにはプラカップが一つ伏せてある。それが、この極小の部屋にあるもののすべてだった。
エリアCは生物災害区画だ。もともと人間用に作られた居室ではないのだろう。壁際のスイッチを入れると、優しさのない白光が部屋を明るく照らしだした。まだ事態をよく呑み込めていなそうな小さな身体を、ベッドの端に座らせる。
その前に膝を付いて、転んだ時にぶつけたらしかった頬の様子をあらためようと手を伸ばしかけた時、男の子がおずおずと口を開いた。
「あの……ぜろわん、さん。さきほどのかたの、いっていたように……ぼくには、その、さわらないほうがよいかと」
発声こそたどたどしいものの、言葉の運びは到底幼い子供のそれではない。少女は触れようとしていた手を止めて、わずかに首を傾げた。
「……どうして?」
「ぼくは、ひとではないからです」
金色の目が瞬く。少女が見つめる先で、幼い指が包帯に掛った。ところどころに黒ずんだ血を滲ませたそれを、たどたどしい手つきで外していく。
腕に巻かれた包帯が半分ほど解かれた時、少女はそれを見た。なめらかな幼子の肌に並ぶ、睫毛のない瞼のようなもの。かすかに震えて開き、その奥からそろりと肉の彩が這い出す。
——アザトゥス。人類を侵す敵にして、忌み殺すべきもの。
「あぶないんです」
そう言って僅かに持ち上げられた、触手の揺らめく腕に少女がずいっと顔を寄せる。悲鳴を上げて後退ったのは少年のほうだった。
「わぁああ! な、な、なななにしてるんですか!」
研究員に挟まれて歩いていた時には一切見せなかった怯えの色を色濃く映す金の瞳に、少女は薄い笑みを返す。
「それ、普段はちゃんと仕舞っておけるんでしょ? きみの肌に侵食性があるとかじゃないんだよね?」
「そ、それはない、ですけど」
「じゃあ平気だよ」
「で、でも。ぼくのいしとは、むかんけいに、その、ぼうそう、するかも、しれないし」
肉の彩を隠してきゅっと硬く閉じた孔を隠すように、小さな手が前腕を抱き込む。少女は答えず、にこっと笑うとわずかに俯いた。細い指が眼球の表面に微かに触れて、指の腹に薄い被膜が一枚乗る。少女が再び顔を上げると、優しさのない白光が金の瞳を鮮やかに輝かせた。
「わたしも、人間じゃないんだ」
絶句して見開かれた幼子の目が、少女の剥き出しの腕をなぞる。
「ぜろわん、さんも、あざーてぃ……?」
「んーん、そうじゃないけど。わたしはクローンなの。人間の代替品。何かあってもまた作ればいいんだ。だから、平気」
ああ、と幼い唇が吐息の塊を吐き出す。
「それで、すうじ」
「……?」
「ぜろわんさんに、そっくりなみなさん。も、すうじ、だったので」
そう言って、幼子は薄いベッドの上に引き上げた両足を抱え込んだ。膝の上に伏せがちにした顔から、上目遣いの目が覗く。
「つくりなおしたら、ぜろつーになるんですか?」
「……どうだろ。わたしの作り直し、たぶんバレちゃいけないから。また01なんじゃないかな」
答えに続けて、触っていい? と尋ねれば、細い首がこくんと頷いた。
少女はベッドに這い上がると、膝に埋もれかけている頬に優しく触れる。きめの細かい肌を数秒あらためて、少し首を傾げた。
「あれ、さっきここ結構痛そうだったんだけどな……。もう平気?」
「はい。ぼくのからだは、すぐなおってしまうので」
一瞬言葉に詰まった様子の少女は、すぐにそっか、と言って赤錆色の髪を撫でた。
「すぐ治ってもさ、転んだときは痛かったでしょ。我慢できてえらいね」
赤錆色の睫毛の下で、金色の目がわずかに細まった。少女はそれ以上は何も言わず、腰に着けたポーチの中から折り畳みの櫛を取り出す。
ひどく絡まりあった髪を、先端から時間をかけて優しくほぐし始めた。狭い部屋の中に、二人分のかすかな呼吸音と、髪を梳く小さな音だけが満ちる。
「ねえ。あなたのこと、なんて呼べばいい?」
髪を梳く音がさらさらと流れ始めた頃、少女はそう尋ねた。小さな頭が動いて、金の双眸が少女を仰ぎ見る。腰のあたりまで伸びた赤錆色の髪が、絹糸をこぼしたように滑らかに揺れた。
「ぼくのなまえは、はいどらといいます」
知っているその答えに、少女はニッと笑う。
「……カッコイイね。ドラゴンの名前だ」
赤錆色の睫毛が、金の双眸を半分覆う。その下で、幼い唇が寂しげに弧を描いた。
「おかあさんがずっとこわがっていた、しんわのばけものなんだそうです。ぼくは……にんげんじゃないことを、わすれちゃいけない。これは、そのためのなまえです」
だから、と舌足らずの声が、大人びた言葉を続ける。
「ぜろわんさんも、どうかはいどらと。あなたといると、わすれてしまうかもしれないから」
* * *
「おはよ、ハイドラくん」
「おはようございます。ぜろわんさん」
日課になった挨拶を交わす。
読み書きを仕込めるか、と研究員は言ったが、教える必要はほとんどなかった。ハイドラは読みはなんとなく理解していたし、書くほうはまだ手の機能が追い付いていないことが主因だったからだ。
「ね、ギリシャ神話の本、見つけたの!」
薄いベッドとシンクしかない部屋に入ってきた少女は悪戯っぽい笑みを浮かべて背後に隠していた本を二冊、幼子の前に掲げた。おお、と嬉しそうな声が上がる。
「りっぱなほんですね! こっちは……えほん?」
「そうそう、オリジナルってば私のために買ってくれたんだけど、読み聞かせなんてしなくてもお母さんの知ってる事なら知ってるよ、って言ったらスネちゃって!」
どっち読もうか? と掲げられた二冊の、分厚いほうを細い指が指し示す。
「えほんは、じぶんでよめそうなので。またかしてください」
「おっけー」
頷いた少女が薄いベッドの傍らに几帳面に揃えて立て掛けられた本の横に絵本を並べた。大判の図説をベッドに広げる。そわそわとした様子の金瞳が、それを覗き込んだ。うなじの下で括った赤錆色の髪が揺れる。
ぺらぺらとページをめくる少女の指が、目的のページを見つけて止まった。獣の皮を被った筋骨隆々の男が、無数の首を持つ蛇のような怪物に棍棒で打ち掛かろうとしている。
色彩の美しいその絵の横に印字された文字を、小さな口がゆっくり読み上げた。
「Hercules and the Hydra……これが?」
「そ。こっちの竜だね。ええと……毒の息を吐き、その体液は触れたものをみな腐らせると言われている。恐るべきはその再生能力で、首を切り落とすと新たに二本の首が生えてくる――えー強っ」
「おもったよりにてますね……ぼくに」
「えっハイドラくん頭ふえるの?」
「ふえません! ……たぶん」
ゆびくらいならはえてきますよ、と笑ったハイドラの小さな手に少女の手が乗った。変わらず茶々を入れつつ図説の説明を読み上げ続けながら、ぎゅっと握りしめる。ハイドラもそれ以上余計なことは言わずに、金の瞳で少女の読み上げる文章を追った。
「今日の書く練習はこれにしよっか」
ハイドラのくだりも含め、ひと通りの英雄譚を読み終えた少女はそう言って薄手の情報端末を取り出した。フリーメモのアプリケーションを立ち上げ、ペン型デバイスを手渡す。受け取った小さな手が綺麗にそれを構えたのを見て、頬を緩めた。
「持ち方、上手だよ。これはあなたの名前だから、書いてみて」
こくん、と頷いて真剣な表情になったハイドラが、たどたどしい文字を電子パネルの上に綴り始める。かつかつとペン先がパネルにぶつかる音だけが鳴る中、少女はベッドの縁に頭を預けて目を閉じた。
穏やかな時間が流れていく。置いていかれた悲しみも、妹たちへの罪悪感も、この部屋にだけは入ってこられないような気がした。可哀想なこの子に情を分け与えているつもりで、その実癒されているのは自分なのかもしれない。かすかに頭をかすめたそんな気持ちには、見ないふりをした。
ペンの音が止まって、ぼんやりと目を開く。ちょこんと居住まい正しく座って、自分に声を掛けようか迷っていた様子のハイドラの頭をくしゃりと撫でて、画面を覗き込む。いくつも並んだたどたどしい「Hydra」に、上手に書けてる、と更に撫でると猫の子のようにくすぐったそうにした。
ふと目が留まる。いくつも綴られた彼の名前の最後に、数字の0と1が書かれている。
「あは、わたしの名前も書いてくれたんだ」
「はい!」
元気よくそう答えてから、ハイドラは少し眉を下げた。
「でもなんか……ちょっとさみしい、きもします。すうじ」
「……クピド」
反射的に、その単語が口に上った。しまった、と思った時には光を取り戻した金瞳がきらめいて自分を見つめている。
「それが、ぜろわんさんの、ほんとうのおなまえ?」
「……どうだろ。本名っていえば製造番号のほうになるような気も――」
「おかあさん、がつけてくれたんですか」
「は、ハイドラくん。ちょ、ちょっと待って」
いつになくぐいぐい来るハイドラに、少女が珍しくたじたじになる。ぎゅっと目を閉じて苦い顔で一度深呼吸してから、観念したように金の双眸を見返した。
「つけたのは、わたしを作ったひとだよ」
「そうなんですね。いみを、おききしても?」
「……天使。ちっちゃいやつ」
ぽんと手を打ったハイドラが、ぱらぱらとページをめくる。翼の生えた小さな子どもたちが矢をつがえるページで止めて、これですね! と頬を上気させる。少女は小さく肩をすくめた。
「だいたいあってるよ。ちょっと神話体系の違うとこの天使だけど」
「くぴどさんが、めがみさまのぶんしんだから?」
そう問われた少女は、虚を突かれたように瞬いた。
「そう、なのかな。……分かんないや、あのひとはもうここにはいないから」
キューピーってマヨネーズが僕の母国にあってさぁ、とかつて言った男の声を頭から追い出す。あれが照れ隠しだったのか本心なのか、あの男のいつもの軽薄な口調からは分からなかった。そうだといい、と思っている自分が少し嫌だった。
「くぴどさんのおなまえも、かけるように、なりたいです」
金の瞳が懇願する。少女はもう一度肩をすくめてから、画面の少ない余白に小さく「Cupid」の文字を綴った。頭の中だけで、Qじゃないんだぞ、と顔色の悪い白衣の男に突っ込む。
綴られた文字を見て張り切った様子でペンを持ったハイドラの額を、小さく小突いた。
「わたしのこと、クピドって呼ぶならその他人行儀な口調を変えよっか」
「え? え……と」
「名前で呼ぶならもう友達だもん。ほら」
「……あ、はい、じゃなくて……うん……?」
「ん」
すこしむすっとした顔のクピドが頷いて、ハイドラの手が少女の名前を綴り終えた時、ハイドラを呼び出す電子音が狭い部屋に鳴り響いた。




