断章 「おはよう」をあなたに、「おやすみ」をきみに ①
「おはよっ!」
一番最初にすれ違った時にそう声を掛けたのは、どうしてだったのだろう。防護服を着た研究員たちに左右を挟まれて歩いていくその小さな男の子が、ひどく場違いにみえたからなのかもしれない。
乱雑に長く伸びた赤錆色の髪は櫛も通していなそうな様子でくしゃくしゃに絡まり合い、その奥から金色の目がびっくりしたように朝の挨拶をした自分を見返した。その細い腕のあちこちには包帯が巻かれていて、痛々しいその見た目に反して目には怯えや絶望の色が一切なかったのがなんだか妙に印象に残った。
本当は調整用の薬のせいでひどく気持ちが悪かったのだけど、にこっと笑顔を作った。同じように大人の研究員に挟まれてすれ違い、視界から赤錆色が消える頃、背中の向こうからおっかなびっくりな「おは……よ……ます」の声が聞こえた。
* * *
いわく、彼の名はハイドラ、というのだと言う。
「――ハイドラ。ギリシャ神話に出てくる悪竜の名前です? 随分と悪趣味ですね」
俺に言うなよ、と少女の肘の内側に突き立てた注射器で血液を吸い上げながら、名前を覚える気にもならない白衣の男が顔をしかめた。
「親に貰った名前だとかで、本人がその呼び名に拘ってんだと。案外お似合いの名前なんだろうよ」
「……親?」
「アレは混ざりものだからな。アザトゥスに犯された女が産んだハーフなんだと。化け物の名前もつけたくなろうよ。俺はむしろ親のほうに同情するがね」
真っ赤な血液が、細いチューブを通って採血管に流れ込んでいく。あの男の子が来てから付けさせられるようになった瞳の色を変えるコンタクトが気持ちの悪い目が、じっとそれを見つめた。
オリジナルは子供を産まなかったが、クローン体である自分の事をとても可愛がってくれていた……と思っている。一方でオリジナル由来の記憶の中には、虐待や育児放棄の知識もあった。血を分けた個体なら無条件に庇護欲が沸く、というわけでもないらしい。
きらめく金の瞳を思い出す。穏やかな目だった。それは諦念とも絶望とも違う、まるで自らの運命を当然のものとして丸ごと受容しているような。
少女は無意識に唇を少しだけ尖らせた。オリジナルは死んで、自分を製造した共同研究者の男もここを去った。正直捨てられたような気がして、若干自棄になっていたところだ。オリジナルの記憶をすべて引き継いだ自分の精神は、それなりに成熟している自負があった。
なのに。三歳か四歳そこらに見えた彼より、自分のほうがひどく子供っぽく感じた。
「……可哀想」
採血痕に貼られたパッチシートを撫でながら、ぽつりとこぼす。採血の器具を片付けていた男が片眉を上げてこちらを見た。
「なんだ同情か? ゼロワン」
人ではないものを見る目を見返して、やや躊躇った後にこくりと頷く。そう、あの子は私と同じだ。人間という種で固められた世界からはみ出して、生みの親からも捨てられた可哀想な子。嫉妬にも似た後ろ向きな感情は、その動作を以て同情へと書き換えられた。
* * *
自分と同じ顔をした少女とすれ違う。Type-QPシリーズとして試験運用が始まった分身たちは、記憶と感情にマスキングを掛けられているせいか機械人形のように無機質だった。ただ役目を果たすために増刷され続ける、恐怖を知らない人形たち。原型の自分の代わりに飛んで、自分の知らないところで損耗していく妹たちから、目をそらす。
複製品に人権はない。戦闘で損耗していく他にも、実験体として様々に扱われているらしいことを知っていた。自分と同じ顔をした無数の少女たちは、製造者の男がいなくなってから箍が外れたように量産されては打ち捨てられていく。
そんな中で製造者が作った最初のひとりの自分だけが、苛烈な状況の外にいた。酷い実験に身を晒されることもなく、自殺と見紛うような作戦に投入されることもなく、妹たちの調整のための検査と試験を繰り返す。もしかしたら自分は、エリュシオン第二研究所の中で一番自由だったのかもしれない。研究員たちも、いつ休んでいるのかと思う程度にはみな働き詰めだったから。
その日のスケジュールはほとんどが空白だった。午後からわずかな時間のデータ採取がある他は、特に予定もない。
人間の模造品の肩の深いところにはMAPsチップが埋め込まれている。火星の上空を巡る二十八基の衛星群のおかげで、何処にいるのかなんて情報はいつも丸裸だった。だから特に監視を付けられることもなく、自由に過ごすことを許されている。
それにこのエリュシオン第二研究所は、防衛軍の整備工場と試験飛行場を挟んで都市部とは反対側に位置していた。仮に脱走したとて子供の足では何処へも行けはしないのだ。
だからその日、ふらりと実験区画に赴いたのは本当にただの気まぐれだった。いや、正直に言えば、心の何処かであの男の子の事が気になって仕方がなかったのだろう。きょろきょろと廊下からあちこちを覗き込んだ少女の目が、赤錆色を見つけたのは少し歩き疲れてきた頃だった。
以前と同じように防護服に身を固めた大人に挟まれた男の子は、ずいぶんと顔色が悪かった。小さな身体が躓いて、顔から冷たい床に倒れ込む。緩慢な動きで起き上がろうとする男の子を、白一色の防護服たちはじっと見下ろすだけで手を貸そうともしない。考えるより先に、身体が動いた。
「大丈夫?」
駆け寄って膝をつき、起こしかけの上体を支えようと手を伸ばす。おはよ、と声をかけた時と同じに驚いたような金の瞳が、少女を見上げた。
そのまま立ち上がるのに手を貸していると、頭上から面倒臭そうな声が落ちてきた。
「おいゼロワン、余計なことをするな。そいつにやたらと触るんじゃない」
「余計? こんな小さな子が転んだのをただ見下ろしてるだけの怠惰な方に言われたくはないですね」
「うるせぇな、混ざりものに触らねぇのは怠惰じゃなくて危機管理だよ。お前も汚染されたら面倒なんだから触るんじゃないよ」
ミラー加工された防護服のバイザーには、苛立ちを隠す気のない自分の顔が映っていた。装備者の表情はその向こうに隠れてよく見えないが、面倒臭さと苛立ちがバイザー越しのくぐもった声の上に募っている。
それを無視して、男の子を立たせた。幼さを宿すラインの頬には赤い痕が痛々しく残っている。指先でそっとそれを撫でると、男の子はびくりと体を震わせて身を離した。
「ごめんね、痛かった?」
そう尋ねれば、ふるふると首を横に振る。少女は手入れされていない様子で絡まり合った髪を見てから、防護服の男たちを見上げた。
「あの、一つ提案があるんですけど」
「……なんだ」
応じる声には渋みが混じる。それには気付かないふりをして、言葉を重ねた。
「見たところ、ちゃんとお世話できていないのでは? わたしが面倒を見ましょうか。こういう仕事はわたしみたいな代替品がやるのがぴったりでしょ?」
「馬鹿言え、何度も言わせるな。お前だけはエリュシオン第二研究所に権利がない。おいそれと汚染環境にぶちこめるものかよ」
「キリヤ・アサクラはもういません。オリジナルのデータは残ってるんでしょう? どうせ遺伝情報も同じなんです、作り直したってバレたりしませんよ」
表情の読めないバイザーの向こうで、男は押し黙った。見上げる少女の、ヘーゼルの両目が半眼に眇む。
「まあ、あなたが今のお仕事をどうしても続けたいなら、無理にとは言いませんけど」
2人の防護服たちは黒いバイザー同士を見合わせた。片方が頷き、もう片方が厚いグローブに包まれた指で何かを叩くような仕草をする。バイザーの裏側に微かに緑色のUIが透けた。
「……エリアCの7番収容室だ。おいゼロワン、世話ついでにそいつに読み書きを仕込めるか?」
包帯を巻いた腕の上から手袋をはめさせられた小さな手を取った少女は、見上げた顔に勝ち気な笑みを浮かべて見せた。
「もちろん」




