第18話 またこの宇宙《そら》に生まれ落ちて ②
ラウンジの床にぺたんと座り込んで、少女は星の海を眺めていた。ここで車椅子の上から離れていく火星を見た時も、フロストアークの威容を眺めた時も、いつも彼が一緒だったのに、今日は独りぼっちだった。
姉と慕った原型も、最前線で散ったのだと聞いた。自分を支えていた幾つもの柱がぱたぱたと倒れていって、輪郭そのものが曖昧になっていくような錯覚を覚える。ミラではなく、Type-QPというカタマリとして個別の自己としての自分を持たなかった自分に、ずるずると戻っていくようだった。
曖昧になっていく輪郭を確かめるように、ぺたりと頬に触れる。そういえば、と原型やコンラートに連れられてシアタールームで色々見た映画の事を、ぼんやりと思い出した。こうした別れの後、物語の登場人物たちは皆ひどく打ちひしがれて悲しんでいたように思う。
さらりと乾いた感触の頬を撫でる。涙も、感情も、最後にアルテミスを噛み砕いた陽電子砲と一緒に宇宙に投げ出してきてしまったのかもしれない。身体の中身が空っぽになってしまったようで、手に入れたと思っていた感情がもう、何もわからなかった。
――俺を救って、お前も死ななかった、その奇跡がいつまでもお前の上にあるように。
(奇跡なんて。ありませんでしたよ、コンラートさん)
胸の内でそう呟いて、すとんと何もかもが腑に落ちた。奇跡は、何度も起きないから奇跡なのだ。あのひとに形を与えられて、勘違いをしていた。私はあのひとの奇跡になれるのだと。あのひとは私がいれば、大丈夫なのだと。複製品の自分には、過ぎた願いだった。
「……こんなところにいたんですね、ミラちゃん」
だから、そう声を掛けられた時も何も反応出来なかった。かすかな衣擦れの音がして、誰かが隣に座る。視界の端に、鮮やかな青の医療服が映り込んだ。
どこかへ行ってしまったと思っていた感情が、唐突に息を吹き返す。全身が氷漬けになったようで、隣に座ったその人の顔を見ることが出来ない。
消毒液の香りが鼻をかすめて、ひやりと冷たい手がそっと手の甲に触れた。
「……ごめんなさい。メラニーさん」
自分が跡形もなく消し飛ばしてしまったヘイデンの、大切なひと。合わせる顔もないのに、顔を背けたままで謝罪するのがひどく申し訳なくて、そっと視線を上げる。いつも凛とした印象だったその視線が、今日はとても優しく自分を見つめていた。
「ごめん、なさい」
そう繰り返すと、メラニーの口元が微かに揺らいで、言葉はないままに頭に手が伸びてきた。反射的にすくめた首を宥めるように、ひんやりとした指がふわふわの髪を梳く。
「そんな事を言わせるつもりじゃ、なかったんですよ」
何か、言わなければ。そう思うのに空っぽの自分の中からは単語ひとつ出てこなくて、ただはくはくと口だけを動かした。
「無理しなくていいんです。辛かったでしょう」
少女はトリガを握った指に、視線を落とす。メラニーの大切なひとと、自分の大切なひとを、消し去ってしまった指を、ぎこちなく撫でた。打ちひしがれて涙を流す物語の登場人物たちのように、メラニーに泣き縋るのが正解なのだろうか。
「……よく、わかりません」
辛いとは胸を締め上げるような、体の奥底から溢れ出そうとして重く凝るような、あの感覚のことだろう。空っぽのType-QPに戻ってしまった自分には、もうそんなものは残っていない気もした。
「メラニーさんは……辛いのですか」
そっと覗き見るようにして尋ねると、メラニーのグレーの瞳孔がきゅっと締まった。髪を梳いていた指がすとんと落ちて、強く握り込まれる。
「ええ。身体の底に穴が空いてしまったみたい」
絞り出すような声の向こうに、モーターの唸るかすかな音が混じった。整備班に混じってせっせと働いているはずのリペア・アンド・メンテナンスユニットが一台、仕事のあるはずもないラウンジをするすると横切って近付いてくる。
『――ミラ』
ヘーゼルの目が見開かれた。通信機越しのように電子変換されたその声は、何よりも耳に馴染んだものだったから。
「――コン……ラート、さ、ん……?」
淡桃色の、幼いかたちの唇のあわいから名前が零れ落ちる。生きていたんですか。そんなはずは。なんで、そんなところからあなたの声が。続けたい言葉は喉の奥で渋滞して、なんだかよくわからない音だけがあとに続いた。
『ごめんな、ミラ』
マニピュレーターがするりと伸びて、乾いた頬を撫でる。聞きたくて聞きたくて仕方のなかった声の、かすかなイントネーションの違和感に空っぽになったはずの胸の底がささめいた。
「死んだのですね、あなたは」
『――そうだ。俺、電脳上に復元された人格なんだってさ』
頬に触れるマニピュレーターの上に指を這わせる。ごめんな、と電子変換された声が再び言った。
『記録、見たんだ。お前に砲を向けるなんて――ホントに、クソッ、俺は……』
「謝らないで」
苦い色を濃く滲ませた謝罪を、少女はぴしゃりと撥ねつける。
「あなたが、謝らないで……! あなたは、あのひとじゃ、ない……!」
少女の頬に触れていたマニピュレーターが怯えたように跳ねて、肌の上から離れた。そのまま戻っていこうとするそれを、小さな手がむんずと掴む。握った手の拳が、そのままRAMの硬い外装に打ち付けられた。がつんと鈍い音が鳴る。
言葉にならない声と共に、拳を鈍く打ちつける音が何度も響いた。メラニーが見ていられないといった様子で顔を覆って立ち上がると、足早に去っていく。
ねぇ。どうして。違う。あなたは。だって。あのひとは。どうして死んだの。私が殺したんです。違う、あなたは。私は。どうしてそこに今も、あなたは、コンラートさんは、死んじゃったのに。
途切れ途切れの拒絶と問いが、その後も長く続いた。少女に何度も殴られて軋むRAMが、その合間に男の声を吐き出す。
「……お前を、一人にしたくなかったんだよ、俺は」
あのひとの言葉を吐く作業用機械に、表情はない。少女はいやいやをするように首を振った。もう何度目かわからない鈍い音が響く。握られているのと違うマニピュレーターが、赤く腫れ始めた拳にそっと触れた。
『ごめんな、嫌だったよなこんなの。もう電脳、止めて――』
「嫌、い、いや」
優しくその手を引き剥がして後退しようとしたRAMに、心臓が跳ね上がった。少女は慌てて両手を伸ばすと、抱き込むように作業用機械に縋り付く。
「嫌ぁああ…………コンラートさぁああん……」
華奢な体躯を引きずりそうになったRAMが、つんのめるように停止した。おずおずと伸びたマニピュレーターを、少女が抱き込む。ヘーゼルの目から大粒の涙が次々に溢れた。
「置いて……っ、いか、ないで……やだぁああ…………」
何を言っているのか、自分でも分からなかった。コンラートは死んだ。自分が撃ち殺してしまった。ここに居ていいはずがないし、縋っていいはずもない。でもあのひとの声で、あのひとの思考を語るこのひとが、居なくなってしまうのは、それはどうしても耐えられなかった。
細いマニピュレーターを抱きしめて、喉を反らせて嫌だと泣く。わぁわぁと声を上げて、小さな子供みたいに。
「わたしっ、ひどい……こんなの……うわぁああん……」
ぐちゃぐちゃに絡まった思考が、涙と一緒にぼろぼろと口からこぼれ出る。気付いてしまった。このひとを拒絶するのは、模造品のわたしに名前をくれたあのひとに唾を吐く行為だと。
それでももう戻らないあのひとが恋しい。あのひとの代わりが居ることが、耐え難い。あのひとが完全に居なくなってしまうのは、耐えられない。このひとも模造品になってしまったのが、私と同じになってしまったのが、嬉しくて、ひどく悲しかった。
* * *
ぼんやりと意識が覚醒する。何も見えなかった。真っ暗な世界に、ぽつんと浮かんでいる。どこまでがわたしで、どこまでわたしでないものなのかが判然としない。身体を動かしてみようとした試みは、重さも軽さもない、ただの空虚だけをフィードバックした。
――おはよう、クピド
ふと、頭の中に直接文字を流し込まれた感覚で言葉が流れ込んできた。思考が警鐘を鳴らす。そうだ、事前に説明を受けていた。この、状況は。
『わたし、死んだんですか』
明確に発話として思考した言葉が、意識の表面に浮かぶ。そうだよ、と頭に流れ込む言葉が答えた。
復元されたのなら、全滅はしなかったしこういう作業をする余裕はまだ残っているということだろう。あのよく分からない虚無空間は突破できたのだろうか。
いや、そんなことよりも。
『ハイドラくんは、無事ですか』
――死んだよ。
悲しみと安堵が、虚空の中に溶けてしまった胸にどぷどぷと注ぎ込まれた。ハイドラが死んだ事実は失くした胸をひどく刺すが、自分だけ死んだら彼はきっと壊れてしまうから、そうならなくて良かったと思う。
『ハイドラくんに会わせてください』
彼とは一緒に意識のバックアップを取った。私が起きたなら、彼も起きるか起きているのだろう。
だがクピドの願いに応えたのは、沈黙だった。返事はなく、たゆたう闇の中にぽつんと取り残される。
虚空の中では時間感覚が一切わからない。永遠のようなほんのしばしのような沈黙の後に、言葉が落ちてくる。
――ハイドラの意識は、起動しなかった。
境界が曖昧になっている自分が、一瞬霧散したかと思った。ばらばらに離れていく意識を拾い集める。
よかった、とひそやかに呟いた。ここはどこまでも彼に優しくない世界だった。起きれなくても、それは当然の帰結であるように思えた。
彼は穏やかに眠っているだろうか。きっとそうだよね、と安堵が勝っていく感情が希う。穏やかに眠る彼の安らかな表情が見えたような気がした。人間も、アザトゥスも、戦争も、愛もないところで、静かに。
『ねぇ、お父さん』
この言葉を落としてくるのが、アサクラなのは分かっていた。ずっと奥底に秘めていた呼び名で問いかける。
『わたしも、降りていいですか。この戦争』
――ああ。勿論だとも。
答えは、打てば響くように帰ってきた。
* * *
アサクラは、画面に映し出されたクピドの言葉にじっと視線を落としていた。
長い指が滑らかに動き、電脳のコンソールウィンドウにコマンドを打ち込む。
エンターキーに指を落とす前に、アサクラはぽつりと呟いた。
「おやすみ、僕の天使」
電脳上の娘に届いていないはずのその声に反応するように、コンソールが文字を紡ぐ。
――ありがとう、お父さん。さようなら。
これにて第6章「星の卵」終幕です。
断章を挟んで、翌週より最終章「黎明のアヴィオン」が開幕となります。
どうかもう少しだけ、彼らの旅を見守っていただけると嬉しく思います。
次回の更新は8/15です。
来週は章末の断章をお届けします。
それではまた、次回。




