第16話 破殻 ①
どこかで、規則正しい電子音が鳴っている。ぬるい風呂に沈み込んでいるようで、何もかもが自分から剥離して少し上に漂っている気がした。
——ユウ……ユウ
不意に、ひどく懐かしい声が自分を呼んだ。そちらに手を伸ばしたいのに、どうしてかそれか上手くいかない。そういえばさっき切断しちゃったんだっけ、と思った瞬間に全身を衝撃が貫いた。剥離した意識が再び実体に囚われる感覚がして、耳慣れた声が名を呼ぶ。
「ユウ」
耳鳴りがひどい。頭が割れるように痛かった。鉛のように重たい瞼を、時間を開けて持ち上げる。光のない目が、じっと自分を見降ろしていた。
「アサ、クラ……さん」
ほとんど音になっていないその声を、アサクラはちゃんと拾ってくれたようだった。輪郭の定まらない顔の表面で何か言っているように口が動く。それを認識した瞬間に、ぞろりと悍ましい感触が腹の内側を舐めた。
痛みと拒絶と嫌悪と悪寒が駆け上がる。悲鳴を上げたつもりなのに、喉は灼き潰されたように音を紡げず、引き攣って固まった唇の端から喘ぐように空気の塊だけを吐き出した。
すとんと切り落とされた黒髪が視界を覆う。首元のコネクタに端子が接続される微かな感触がして、鼓膜を介さない音が脳の表面を撫でた。
『手短かに言うよ、ユウ。もうキミの身体からは汚染を取り除けない。でも――"箱"の準備は、してある』
「は……こ」
『シエロと同じセッティングだ。キミなら入れる。さぁ、どうしようか? 僕は可能性を提示する。もうここで降りるって選択肢も、キミにはある』
下の方から身体が、心臓の動きを無視して拍動する。時間的猶予はもう一瞬たりともないに違いないのに、こうして意思を確かめてくるのが相変わらずだなと思って、罅割れて固まった唇が僅かに緩んだ。
答えなんて、決まっている。
「ま、だ。やれま、す」
『わかった』
短い声が応えた。
首筋にちくりとした刺激が走る向こうで、何かのモーターが唸りを上げる音がかすかに聴こえた。
* * *
——温存だよ、ハイドラくん。
繰り返しクピドが念押ししたセリフが、空虚にリフレインした。ただただ強い拒絶と絶望が、喉を裂く絶叫となって迸る。頭蓋を満たす絶叫は、それでも狂ったように鳴る撃墜アラートを掻き消してはくれなかった。
致命的損害のラベルが貼り付いた僚機マーカーに、次々と敵のマーカーが重なった。戦線が崩れる、と理解した頭がトリガを握る。その火力は切り札なのだから、といちばん大切なひとは言った。
(——あ、れ?)
あそこに撃ったら、クピドはどうなる?
致命的損害のラベルが貼り付いた時に全て切断されて、ぴくりとも動かなくなった僚機パイロットのバイタルデータに、目線と思考は釘付けになった。
(切り札って……なんだっけ?)
僕の、すべてを、君の、ために。
君を守ると誓った、はずだった。
君を跡形もなく消し飛ばす事が、切り札の使い方なのか?
狂ったように鳴る撃墜アラートに新たなアラートが重なって、もうひとつの僚機にも損害のラベルが貼り付いた。トリガを握った指は凍りついたように動かない。救助隊のマーカーが飛び込んできて、損害のラベルの貼り付いたマーカーに重なった。回線の中に怒号が飛び交う。
『援護を……ハーメルン、ハーメルン! ハイドラくん、援護を頼みます!』
必死さの滲むケイの声に、ぼんやりとトリガを引いた。悍ましい肉の塊が弾けて宙空にばらまかれる。肉の向こう側には、きらきらとキャノピーの破片が現実離れした美しさできらめいていた。
「——————クピド」
スラスタを吹かすペダルを踏み込む。トリガ横のボタンを押した。装填機構が腕を呑み込んで、金属肢が孔から触手を引き摺り出す。引き千切る際の脊椎を刺すような痛みはもはやなく、ただ引き抜かれるぬるついた感触が腕の内を舐めると同時に、セクメトのキャノピーの中が覗き込める位置にハーメルンは躍り出た。
少女が納められている銀の棺は、まっぷたつに折れていた。いや、それが銀色なのかはもう、記憶をなぞった認識でしかない。悍ましい肉塊の膂力に砕けて残ったキャノピーの破片が微かに残るコックピットの中には、脈打つ肉がとぐろを巻いていた。それは銀の棺を締め上げてへし折った後、執拗にその内へ内へと入り込んだらしい。
冒涜的に蠕動する肉襞の間で、宙空でも凍らない粘液が糸を引いた。いっそ何もかもを飲み込んでいてしまっていればよかったのに、そのあわいからはグローブに包まれた指が滅茶苦茶な方向に曲がった華奢な手首が覗いている。
金色の瞳が一度瞬いて、指がトリガを引いた。
反物質弾が至近距離で弾け、衝撃が機体を暴力的に殴りつけてヘッド・アップ・ディスプレイに幾つもの警告ウィンドウがばら撒かれた。セクメトのコックピットは絡みついた肉ごと蒸発して、レーダーから致命的損害のラベルごと機体マーカーが消える。獣の咆哮じみた叫びが聞こえた。自分の鼓動が耳元で爆ぜて、何もかもが遠ざかる中に殺意だけがくっきりと浮かび上がる。
回復用のハイカロリーゼリーが口の中に流れ込むと同時に獣の叫びが掻き消え、それが自分の声だったことに気付いた。爽やかな甘さに調整されたそれを、ごくんと飲み込む。
「は、はは。あははは、はは」
ゼリーの欠片と涎が混じり合って、壊れた笑いと共に口の端から零れ落ちた。無造作にトリガを引く。進路上の肉塊が半分消し飛んだ。スラスタを吹かす。白く輝く星の卵の上にべったりと広がった肉へ、その奥に未だ隠れるように凝っている核集合体のほうへと進路を向けて。
『おいハイドラ、待て一人で突っ込むな!』
フォルテが怒鳴る声が遠くに聞こえる。どうでも良すぎて無視をした。残弾を撃ち尽くす前に、左右の腕を替えながら再装填を繰り返す。進路上を塞ぐ敵はすべて薙ぎ払った。痛覚遮断によって知覚しない痛みがあることだけを伝える痛覚が、脳の片隅で悲鳴を上げているがそれも極めてどうでも良い。回復用のゼリーの残量を示すゲージは、みるみる減っていった。
真っ赤なマーカーで示され、葡萄の房のように連なった核の集合体が射程に入る。トリガを引いた。艦砲の攻撃から回復しつつあった肉の表面が弾け飛ぶ。
初めからこうしていれば良かった。温存なんてすべきじゃなかった。だって、幾らでも撃てる。自分一人でも、きっとこれを蹂躙できる。だって自分はこうして他者を侵して、貶めて、蹂躙するその系譜に連なっているのだから。
『——!! ——————!!!! ——! —————』
イコライザが跳ねている。脳はもはや人の言葉を処理することをやめていた。悲鳴と怒号を混ぜ合わせたような音の連なりからは既に意味を拾うことは出来なかったが、それは心地良いサウンドと化して背中を押した。
裂けるほどに開いた口腔から、咆哮が迸る。感情は燃料で、情動は発動機だった。それは悲しみと呼ぶには激しすぎた。怒りと呼ぶには自分本位すぎた。後悔と呼ぶには悍ましすぎた。絶望と呼ぶには、重すぎた。
兵装ウィンドウの端にあるゼリーのゲージが、底につく。チューブからひとしずくが口の中に落ちて、それっきりだった。口の中に押し込まれたチューブを噛み砕く。めきめきと再生を続けていた身体の内側が、ゆるく停滞するのが分かった。金色の瞳だけが、きろりと動く。装填機構の端から出た手を、無機質な視線がじぃっと見つめた。
おもむろにヘルメットを脱ぎ捨てる。脂汗で赤錆色の前髪がまとわりつく頬を、機内の空気がゆるく撫でた。再装填機構を解除する。開いた機構からあふれて、どろりとした動きで歪な球になった褐色の液体を掬い取ってべろりと舐めた。指を舌が絡めて、口腔に引き込む。そのまま、何のためらいもなく少年だったモノは己の指を噛み千切った。細い骨を噛み砕いて咀嚼する。ぱきぱきと骨の砕ける音と感触が頭蓋を揺らして、ごくんと飲み下した腹の奥に熱が篭った。停滞していた自分の内側が再び活力を取り戻したのを感じて、口元が緩く弧を描く。
トリガを引くための指は、残しておかなければいけなかった。金の瞳が肉を見る。もう核を暴く電子の目は必要なかった。蠢く肉のどこが急所なのかが、今ははっきりとわかる。
ハーメルンの砲身から、光が尾を引いた。ミサイルの鮮やかに目を惹く曳光でも、レーザーの鋭い輝きでも、陽電子砲の貫くような閃きでもない、弱々しい光。——触れて、弾ける。
手の甲の眼球を噛み潰しながらそれを眺めている頭が、穏やかに思考した。足はたぶん、一本あれば前へと進める。
パイロットスーツの腹部が膨れ上がった。強靭な素材を侵しながら突き破った触手の群れが溢れ出して、脚に絡みつく。骨が軋んで、痛みはないのに視界だけが明滅した。何か繊維様のものが、めりめりと引き千切れていく感触がする。破れたスーツの合間から溢れ出す温く紅い塊がいびつに歪んで丸くなった瞬間、それは加速度に引きずられて下腹部のあたりにばしゃんとぶちまけられた。ぞろりと動いてそれを啜った触手を、指を失くした腕に絡めて引き千切って、またチャンバーに投げ込む。酷く喉が渇いて、目の前にぷかと浮いた腿肉に噛り付いた。
赤錆の髪をまとめていたゴムが弾け飛んで、コックピットの中を覆い尽くすように広がる。自らを貪りながら、人の枠から転がり落ちていきながら、もう形を成してすらいない衝動にトリガを引く指を任せ続けた。




