第6話 人生の軸に②
「ユリウス。ちょっとよろしいですか」
コックピットに掛けられた梯子から、床につけた片脚が一瞬止まる。何事もなかったかのようにそのまま両足で降り立ったユリウスは、振り返りながらヘルメットを脱いだ。汗を含んだプラチナブロンドが、白皙の頬にまとわりつきながらこぼれ落ちる。
「……中尉。なんか用か」
片腕でヘルメットを抱え込み、残った片手でまとわりつく髪を鬱陶しそうにかき上げながらユリウスは尋ねた。今日も亜麻色の髪をきっちりとまとめ上げたツェツィーリヤは、珍しく勤務服ではなく作業服を着ている。
「シミュレータに、付き合ってくださいませんこと」
ユリウスは答えずに片眉を上げた。この生真面目な上官が、ひっそりとアヴィオンに乗るための勉強をしていたことは知っている。訓練用のテキストを読み込むくらいならシミュレータを使え、とかつて言ったのは他ならぬユリウスだが、それは彼女本人によって否定された道のはずだった。
それにツェツィーリヤは艦長の副官だ。今後支援も補給も望めないこのような状況に陥った今、出撃の機会があるとは考え難い。怪訝な色を深めたユリウスの青玉の目をまっすぐ見返して、ツェツィーリヤは自嘲気味な笑みをこぼした。
「バックアップを取ったんですのよ。これで何かあったあとの事務作業の心配をする必要がなくなりました。だから、この手に手段を持つことにもう躊躇いはありません」
「バックアップ……」
そう言えばそんな通達が来ていた。死んだあとに自らを引き継ぐための、自分のバックアップ。もしユリアのバックアップがあったら俺はまたユリアに会えたのだろうか、と一度思って、かすかな否定と共に閉じた文面を思い起こす。
バックアップは未来の話だ。この先起こり得る自身の終わりに際して、それでもまだ抗うかどうかという意志の確認。自分のバックアップを取るなんて考えもしなかった。過去のイフだけを考えて、自分の未来の事など毛ほども意識していなかった事を思い知らされる。ユリウスは苦いものを飲み下した。淡々と任務をこなして、"今"を漂っているつもりだったが、これでは過去に停滞しているも同じだ。あの時間に、ユリアに、絡みつくように。
「いいよ」
肯定とともに吐き出した溜め息は自分へ向けたものだったが、勘違いさせてしまったらしくツェツィーリヤがわずかに表情を曇らせる。
「いえ、その。無理にとは言わないんですけれども」
ユリウスは汗で蒸れて痒みのある頭皮を、ごまかすようにがしがしと掻いた。
「いや違う。その……これはあんたに向けたもんじゃない。まあなんだ、テキスト読むより有意義だっつったのは俺だしな。どうせ哨戒がなきゃ暇なんだ、付き合うよ」
「そう……。では、お言葉に甘えますわ」
ツェツィーリヤはわずかな逡巡を見せたが、ユリウスの言葉を追及することはせず頷いた。では行きましょうか、と踵を返した背に、ユリウスはぎょっと目を剥く。
「待て、今から?」
「ええ。だって付き合ってくださるのでしょう?」
振り返ったツェツィーリヤが、仄かに挑発を含んだ笑顔を浮かべた。ひく、とユリウスの口の端がわずかに引きつる。せめてシャワーくらい浴びたかったが、ここで背を向けるのは少し癪な気がして黙ってパイロットスーツのファスナーを引き降ろした。
乱雑に脱いだパイロットスーツをこんなとこで脱ぐなよという表情を隠さない整備班のメンバーに預けると、インナースーツの上からジャケットを羽織る。脱ぎ始めに合わせてつんとそっぽを向いていたツェツィーリヤが歩き出し、ユリウスはその後を無言で追った。
* * *
「ユリウス」
シミュレータルームに足を踏み入れると、モニタリングステーションのほうからユウがぱたぱたと駆けてきた。
「ユウ」
「なんか……久しぶり、だね」
ユリウスの前に立ったユウは、そう言うといつもの少し困ったような顔で笑う。シミュレータルームに籠もりっきりでちっとも部屋に帰ってこないユウと、哨戒が終わればすぐさま二段ベッドの上段の隅に潜り込んでしまうユリウスがまともに顔を合わせるのは久しぶりの事だった。
たまにユウが帰ってきた時も、ベッドの上のユリウスに気付かせないためか努めてひっそりと行動していた事を知っている。ユリウス決まり悪そうな表情で頭を掻いた。
「あー……なんかごめん、ずっと気を使わせてて」
「何言ってんだ」
ユウは少し眉を下げる。
「当たり前だろ、家族を亡くしたんだから。落ち込んでていいんだ。俺だってリサが死んだ時には誰とも話したくなかった」
そう言ってからユリウスのインナースーツにちらりと目を走らせて、しょんぼりと俯く。
「もう哨戒に出てるんだな。……知らなかった。無理してない?」
「ああ……うん、まあ」
「定期哨戒終わったばっか? 何かあったの?」
曖昧に頷くユリウスに代わって、ツェツィーリヤが進み出た。
「わたくしがシミュレータに付き合ってくださるように頼んだんですの。その……練習、したくて」
「そういうこと。引っ張ってこられたんだよ」
肩を竦めるユリウスに気遣わしげな視線を送って、ユウはちらりとモニタリングステーションを覗き込んだ。ちょうど実施中のシミュレータ戦が終わったようでリザルト画面が表示されている。次々と開き始めるカプセルに向かって、ユウがおおい、と声をかけた。
「クピド! ちょっといい?」
「はいはい、なんです? ……あら? イリヤさん?」
とてとてと駆け寄ってきたクピドが、シミュレータルームに佇むツェツィーリヤという珍しい光景に目を瞬かせる。
「練習したいんだって。付き合ってあげられない?」
「わぁ! いいですねぇやりましょう! ふふん、任せてください。ユウさんを仕込んだのも私なんです。さささ、こっちにこっちに」
「わ、クピドちゃん!? 引っ張らないでくださいまし!」
ニッコニコのクピドにツェツィーリヤが引きずられていく。ぽかんと見送ったユリウスの肩に、ユウがぽんと手を置いた。
「シャワー浴びて着替えて、気乗りするならまたおいでよ。今日は俺もちゃんと帰る。来ても来なくても夕飯は一緒に食べよう」
その優しい眼差しが痛くて、思わず目を背ける。自分の中の何かが溢れそうになっているのが分かった。
「ああ、んじゃお言葉に甘え、る――」
溢れ出しそうな何かを堪えたまま、そっぽを向いてボソボソと呟く言葉が止まる。
「ユリウス」
止まった言葉に被せるように、ジャケットの裾を掴んだフォルテが、ユリウスの名を呼んだ。
「会い、たかった。謝りたかったんだ、あんたに」
ぐ、と唇が歪む。
「ごめん、ユリウス。ちゃんとユリアを守れなくて。ごめん――本当に、ごめん」
「……いい、んだ。あれは、どうしようも、なかった」
目を背けたまま応える、ユリウスの声が震えた。フォルテの肩が小さく揺れる。
「いいわけ、ねーだろ」
「……やめろ」
「よくねーんだよ! 怒っていいんだ。俺を責めていい!」
フォルテがユリウスにしがみつく。ユリウスの目から、ぼろっと涙が一粒こぼれ落ちた。それ以上をこぼすまいとするように、ぎゅっと目を閉じる。
「……やめてくれ。もう終わったんだ。俺はもう、ちゃんと泣いたんだから――」
「何も終わってないだろ、あんたの顔見たら分かるよ。飲み込まないでくれよ。何回泣いたっていいんだよ」
きつく閉じた目の端から、涙の粒が幾つも落ちた。
「……なんで、ユリアだったんだ」
食いしばった歯の奥から、後悔と絶望が滲み出る。
「なんで、お前じゃなかったんだ。なんで、俺じゃなかったんだ。なんで、ユリアが死ななきゃいけなかったんだ…………」
しがみつくフォルテの腕の力が強くなる。ユリウスは膝を折って、抱きつぶすように少年の身体を抱きしめた。言っても仕方がないのだと、押し込めていた感情が次々とこぼれ落ちる。
「フォルテが生きてて、嬉しいんだ。責めたく、ないよ」
「……うん」
「でも、悲しいよ。腹、が立つ。な、なんで、ユリアだけ死んだん、だよ」
「……だよな」
「なんで、なんでだ。なんでこんな事に――」
ぼろぼろと泣きながら、ひどく利己的な涙だと思った。ユリアのために泣いていない。今はただ、自分のために泣いていた。
自分はどうしょうもないやつだという気持ちと一緒に、悲しみがようやく自分の中心に落ちてきたような安堵があって、それがまた堪らなく悲しかった。
「駄目なんだよ、終わりにしなきゃ……。ユリアが死んだのを、理由にしちゃ、駄目なのに、俺は」
「いいんだ、ユリウス。それが自分に必要なら、理由にしたって構わないんだ。きっとみんな、そうやって前に進んでる」
泣き縋るユリウスを、ユウがフォルテごと抱きしめる。それはかつてユリアがユウにしたのと同じ仕草で。ひどく温かいのだと、知った。
次回の更新は5/23です。
それではまた、次回。




