ちぐはぐのピース
手を、取ってやればよかった。あの可愛い小さな手を。ずっと慈しんできたあの子の手を。
ぬるつく感触と油の匂いが記憶の表面を撫でる。小さな小さなその手に油を掛けた。何度も梳いた髪に、油を掛けた。そうして、私は——。
「——長、班長!」
ユウの呼ぶ声に、テッサリアの意識は唐突に現実に引き戻された。手元では作業用の容器に移し替えていた機械油が、溢れてこぼれている。油の臭いが鼻をかすめて、軽く苦虫を噛み潰した。
「大丈夫ですか。顔色が悪いですよ、班長。ちゃんと休んでます?」
心配そうに見上げてくるユウの右目で、カメラアイが控えめなフォーカス音を奏でる。テッサリアは噛み潰した苦虫を飲み込んでから、努めて穏やかな笑顔を返した。
「……はは、大丈夫です。でもさすがに修理続きですからね。私もう歳なんだから、ちゃんと寝ないといけませんねぇ」
「俺にも仕事回してもらえたら何でもやりますよ。最近整備はご無沙汰だけど……」
こぼした油を拭こうとタオルを持った手を伸ばしたユウが、眉を下げる。その手からタオルを取り上げて自分の始末を自分でつけながら、テッサリアは穏やかに微笑んだ。
「ユウ君、君は貴重なこの隊のパイロットです。この先の戦いはきっと厳しくなる。今はそちらに備えなくちゃ」
そう言ってテッサリアは機械油まみれのタオルでつるりとした頭を拭く。髪のない頭にべったりと油が付着した。しまった、と言った足が蓋を閉めずに置いてあった機械油の缶を蹴倒す。とくとく、と油のこぼれる音を2カウント聞いてから、ユウとテッサリアは顔を見合わせて「あーっ!」と叫んだ。
「もう補給できないのに何やってるんですかね私は……!」
「蓋! とりあえず蓋閉めましょう、班長、ねっ!」
慌てて缶を起こして蓋を閉める。新しいタオルで床にこぼれた油を拭きながら、ユウは心配そうな顔でテッサリアを見上げた。
「ねぇ、班長。やっぱり大丈夫じゃないでしょう」
テッサリアは答えず、気まずそうに目を逸らす。ユウは油まみれの缶の横腹をひと拭きしてから、作業台の上に置いた。
「班長がいっつもみんなの話を聞いてくれてるの、知ってます。パンクしてるんじゃないんですか。整備班のみんなは特に、俺たちに命を預けなきゃいけないから怖がってるんでしょう」
テッサリアは悲しそうな顔になって首を振った。
「いいえ、違います。みんな良くやっていますよ、本当に。私が彼らと同じ年頃に、彼らと同じだけの胆力が持てたかを甚だ疑問に思ってしまうくらいに。これはただの私の――」
言いかけてからハッと口を分厚い手で覆って押し黙る。言葉を続けまいとするテッサリアに、ユウは安心させるように薄っすらと微笑んでみせた。
「俺相手で良ければ少し話してみたらどうでしょう、班長。シエロが未来から来た俺だって話を、当事者として飲み込んだ後です。今なら大抵の話は聞けると思うんですよね。話したら少しすっきりするかもしれませんよ」
「……いえ、これからの出撃を控えている君の負担になるようなことは」
そう言って視線を逸らしたテッサリアに、ユウは「うーん」と少しおどけた様子でわざとらしく腕を組んで考え込むそぶりを見せる。
「困ったな。このままじゃ俺、出撃時にもずっと引っ掛かっちゃいそうです」
「……ユウ君」
「話してください、班長。これは俺の我儘です。この先ちゃんと戦うために……お願いします」
テッサリアの額が下に向かって傾いだ。口元を覆っていた分厚い手は目元に添えられ、露わになった口から長い吐息がゆっくりと吐き出される。吐息に混ざって、苦々しい呟きが漏れた。
「ああ……話を聞いてあげるのは、私たち大人の役目なのに」
「いいじゃないですか。大人になると忘れちゃうのかもしれないですけどね、班長。親が子供を心配するのと同じように、子供だって親を心配するんです。俺だって、班長の支えになりたい」
そう言って笑って、ユウは肩を竦める。
「実は俺も、班長に聞いて欲しい話があったんです。この手伝いはその下心ありありでやってます。だからね、班長。班長の話が終わったら俺の話も聞いてください」
「……ええ、ええ。もちろん。もちろんです」
「さ、座ってください。話して」
ユウは乱暴に床に座り込むと、テッサリアにも座るよう促した。テッサリアは時間を掛けて腰を下ろすと、自分の膝と膝の間の虚空を見つめてぽつりぽつりと話し始める。
「私が思い悩んでいるのは……クピドさんとハイドラ君の事です」
「え……クピドとハイドラの?」
「はい。あの子たちは悲劇の卵をを温めるつがいです。あの子たちの交わる先には破滅しかない。幸せになってほしいんです。でも、どうしてあげたらいいか分からない」
「ま、待ってください班長。ちょっと話がよく見えないんですが」
大抵のことは聞けるはずだ、と言ったユウは早速狼狽えた様子で尋ねた。テッサリアはそうですね、と言って格納庫の天井を見上げる。
「あの子たちの間には恋があるんです、ユウ君。いえ、もはやあれは愛かもしれない。お互いがお互いの事を、とても大切に思っている。それぞれが自分を蔑ろにしてしまうくらいに」
「それ、は……」
心当たりがあるのか、ユウは眉間に皴を刻んでさっき自分が置いた機械油の缶を眺めた。しばしの逡巡のあと、テッサリアに向き直る。視線をテッサリアの目線から少し外して、照れ隠しのように口元に手を当てながら言った。
「でも、恋ってそういうものじゃないんですか。愛って……その、省みない事だと思うんです。それ自体は、別に悪い事じゃないんじゃ――」
「孫がね、産まれるはずだったんです」
「…………?」
「私は…あの日、身重の娘の事が心配で。何もかもを放り出して、駆け付けたんです。でも小さな田舎町でしたからね、間に合わなかったんですよ、軍も、……私も」
「侵攻時の……話ですか」
尋ねるユウの声が僅かに震える。はい、と静かに頷いて、テッサリアは視点を床に落としたまま話し続ける。
「あの子の家で見たものは、無惨に変わり果てた娘と、その股の間で蠢いていた小さな肉塊でした。待ち望んでいた、とても可愛い、小さな手を見た。小さなピンク色の爪がついた可愛い手が、ああ……一体何本生えていたのだろう。娘を奪われた憎しみと、あの子の見るに耐えない異形の姿に、私はどうしてやればよかったのでしょう」
それは酷く重い、過去の悔恨だった。艦の誰もが父親のように慕う、温かな包容力を持った大きな男の肩が酷く弱々しく見えて、ユウは相槌も打てずにただその言葉を聞き続ける。
「あの手を取ってやればよかった、と今でも思うんです。私に伸ばされた、あの小さな手を。私は小さな小さなその手に油を掛けた。ただ一言、殺してと訴えた、動けないほど肥大した娘にも。小さな頃に何度も梳いたその髪に。念入りに。念入りに。そしてどちらの手もとらずに背を向けて、火をつけた」
そう言ってテッサリアは自分の手を見た。分厚く大きな手には、まだ先ほどこぼした機械油の残滓が残っている。それを見つめる目が、悲しみと自嘲をひどく曖昧にかき混ぜたものに歪んだ。
「炎に包まれるそれを、最後まで見ることができなかった。でもその場から離れることも出来なかった。どうするべきだったのか、わからないんです。あの時どうしたかったのかも、まだわからないでいます。わからない。わからない。わからないんです……」
紡がれる言葉の狭間に、低い嗚咽が混じる。
「守ってあげたい。助けてあげたい。ハイドラ君も。クピドさんも。あの子たちの育む小さな愛も。あの子たちが互いに伸ばした手を取って生きていけるように。でもね、どうしてもあの時の娘の姿がちらついてしまうんです。あの子たちのためにどうしてあげたらいいのか、わからないんです。私はね、ユウ君。この艦のみんなを私の子供たちのように思っている。君たちのような若い命に頼らなければいけない世界に対する、ささやかな反抗をしていたつもりだったんですよ」
「…………」
「でもね、違った。違うと気付いてしまった。いいえ、それも違いますね。分かっていたんです、これは代替行為だと。私は誰も生き残らなかった、私の子供たちの姿を君たちに重ねていたにすぎない。その事からずっと目を背けてここまで来てしまった。そしてついに、目を逸らせない局面に来てしまったんです」
「それは、みんな同じじゃないんですかね」
そこまでずっと黙って聞いていたユウが、ぽつりと言った。
「同じですよ、きっと。俺たちは奪われすぎました。この艦に居る奴はみんなそうでしょう。みんながみんな、いなくなった誰かを互いに見てるんですよ。俺が、シエロにリサを見てたみたいに」
焦げ茶の瞳と、吸い込まれそうな青い機械眼が、揃ってテッサリアの小さな目を見据える。ユウは淡い青色のラインが走る左腕を、生身の手で撫でた。
「死者は生き返らない。俺たちの胸にあいた穴に、元のピースがはまることは二度とないんです。あるもので埋めて先に進むしかないんだ、俺のこの身体みたいに。それは別に、悪い事じゃないと思うんです。それにね、班長」
ユウは小さく笑う。
「俺たちがお子さんの代わりなんだとしても、班長が俺たちに向けてくれた情は本物でしょ。皆救われてるんですよ、班長に。それで班長も救われてるってんなら、ただの言うことないウィン=ウィンじゃないですか。後ろめたく思う必要がどこにあるんです」
「そう、なんでしょうか」
「そうです。それでもまだ俺たちの救いを否定するなら、それは傲慢ですよ。俺たちの救いは俺たちのものであって、班長のものじゃないんだから」
それにね、と整備班長の部下は続ける。
「親になると忘れちゃうのかもしれませんけどね。子供って案外強いものです。親の手からいつの間にか巣立っていくのが雛でしょ。何でも大人が何とかしてやろうとすることはないんじゃないかな。どうしてあげたらいいのか分からないなら、見守ってあげたらいいと思うんです。見守るのが辛いなら、それを我慢するのがきっと大人の仕事なんですよ」
テッサリアは元々軍属の整備士です。侵攻時にも普通に軍務があったはずなのですが、それをすべて放り出して家族の元に駆け付けて、でも何も救えなかった人間です。
次回の更新は5/9です。
それではまた、次回。




