第2話 残された時間 ②
残された少年は少女の姿が角を曲がって消えるまでその背を切なげに見つめた後、クピドの使っていたコンパートメントを覗き込んだ。
脱いだままのパイロットスーツは、乱雑に床に打ち捨てられている。ナノクレンジングチャンバーに持っていってあげないと、と言い訳のように呟いたハイドラは緩慢な動きでそれを拾い上げた。
先ほどまで少女の身体に張り付いていたパイロットスーツからは、仄かに甘い香りがする。コックピットの彼女を守る耐Gジェルの苺の匂いの奥にある、あまやかな少女の香り。艶めいた布地を持つ手が震えた。どうしようもない気持ちが溢れ出して、ハイドラは少女の抜け殻をきつく抱きしめる。その瞬間、半袖のシャツから覗く腕に無数に空いた孔が目を覚ましたように開いて、中からぬるりとした肉の彩が顔を覗かせた。
肌の上を這った触手がぞろりとスーツにその指先を伸ばす。ハイドラは慌ててスーツを床に投げ捨てた。常にベルトに挿してある小型の火炎放射器を反射的につかみ取ると、するすると触手たちは肉の襞の内へと逃げ帰っていった。やりきれない気持ちに表情を歪めて、小型火炎放射器を乱暴な手つきでベルトに戻す。
投げ捨てられコンパートメントの隅でくしゃくしゃに折り重なるクピドのパイロットスーツを、どうしたものかと見降ろした。これを再び手に取って、ナノクレンジングチャンバーまで衝動を抑えたまま持っていく自信は正直なかった。
触れずに運ぶための容れ物を何か探しに行かなければ、と小さくため息を吐き出す。カーテンが開きっぱなしのコンパートメントにくるりと背を向けた時だった。どのように声を掛けたものか、と言いたげな目と視線がぶつかる。
「————あ」
見られて、いた。罪悪感が冷たい塊となって背筋を滑り落ちる。おろおろと視線を彷徨わせるハイドラに、コンパートメントの前に佇んでいた整備班長――テッサリアは、すみません、と居た堪れなさそうな声を掛けた。
「覗き見するつもりはなかったんですが……ちょっと心配になってしまって」
「その……どうして」
「クピド君が泣きながら走っていったので……」
ああ、と呟いたハイドラはクピドの走り去っていった方を見てから、視線を爪先に落とす。居心地悪そうにしながらも立ち去るわけでもなく、何か考え込んだ様子で立ち尽くす少年に、テッサリアは少し眉を下げて表情を緩めた。つるりとした自分の頭を軽く撫でて、きょろきょろと辺りを見渡すと壁際に腰を降ろす。分厚い手で自分の隣の床を軽く叩いて、ハイドラにも座るよう軽く促した。
「少し、話してみませんか。気持ちの整理を手伝いましょう。勿論、君が嫌でなければですが」
ハイドラは少し躊躇ってから、緩慢な動きでテッサリアの元に歩み寄って、拳二つ分くらいの距離をあけると膝を抱えて座り込む。しばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「クピドが泣いてたのは僕のせいです。怒らせてしまった。……その。これの、せいで」
ハイドラはそう言うとちらりとシャツの裾を捲り上げて異形の孔を見せる。ハーメルンの整備を手掛けてくれているテッサリアは、ハイドラの異変を知る数少ない人物の一人でもあった。そうだったんですね、と低く優しい声が相槌を打つ。
「分かっていました。黙ってたら傷つけるって。でも知っても傷つけると思って……問題をただ先送りにしてしまった」
「あの子を傷つけたくなかったんですね」
テッサリアの穏やかな声が、ハイドラの言葉を静かに繰り返す。ハイドラは抱えた膝にじっと視線を落としたまま、テッサリアの言葉を頭の中で反芻した。
傷つけたくなかった。それはそうだ。彼女の悲しむ顔を見たくはなかった。でも、もっと違う――そう、彼女のためではない、自分のための理由もあったんじゃないんだろうか。
「そんな綺麗なものではないんです」
しばらくの沈黙のあと、叱られた子供のようにしゅんとした声でハイドラは言った。
「僕のこの姿を見たら、クピドはもう僕と一緒に飛んでくれないんじゃないかと思ったんだ。僕がこうなった原因を知ったら、少なくとも彼女はこれ以上僕がハーメルンに乗ることを許してくれはしないでしょう。そうしたら、僕はこの戦場で彼女を守れなくなってしまう」
「クピド君が、それを望まなくても?」
「そうです。これは僕のエゴです。クピドが望まなくても、クピドが悲しんでも、僕は彼女を守りたい」
ハイドラはそう言うと、手のひらを上に向けて差し出す。手首の孔がいくつか開いて、そこから這い出してきた触手が少年の皮膚を舐めて掌にわだかまった。
「僕は、僕のこの身体は、毎日破滅へと歩を進めている。分かってしまうんです、残っている時間がもうほんの少ししかない事が。僕は終わり方を探しているんです」
「君にはハーメルンを降りる、という選択肢もあるんですよ」
「僕はハーメルンを降りません。"笛"を使うことも、反物質砲を使うこともやめません。僕は僕のために、この命を使い潰すと決めている」
金色の瞳が熱を帯びる。
「もう僕は人間ではないんです。いえ、始めから僕は人間ではなかった。僕はもうずっとおかしいんです。僕が自分を使い潰して最後にアザトゥスに呑まれた時、クピドなら僕を殺してくれると信じているんです。彼女を守って、彼女に殺されたい。傷つけたくないと思っているのに、あの子の心を僕で侵して、ずっと彼女に巣食う何かになりたい……」
こんなの、こいつらと何が違うんでしょうね。
そう言ったハイドラの金の瞳は情に濡れていて、テッサリアは地面に叩き付けられる直前のガラス細工を見るような目で彼を見た。
「それはね、ハイドラ君。人間の感情ですよ」
ぐ、とハイドラは唇を歪める。いやいやをする子供のように、小さく頭を振った。
「そんな、はずは。だって……こんな、悍ましい」
「君は人間と感情を誤解しているようですね」
テッサリアは苦笑する。
「人間というものは、君が思っているほど綺麗なものではないんです。誰かを心の内に入れたい、誰かの心に入り込みたい。それは私たちの最も原始的な欲望であって、誰もが持つ類のものです」
「誰もが、持つ……」
「そうです。そして、その欲望がもっと自分本位な形で表出するなんてのはざらにあります。私にだって結婚する前の妻を閉じ込めてしまいたいと思った事がある。君の望みなんて綺麗なものですよ。君はただ、クピドさんの事が大切で、彼女に忘れられたくないだけなんですから」
ハイドラは膝に顔を埋めた。しばらくそうして黙ったあと、小さな小さな声で言う。
「でも僕は、こんな僕を彼女に知られたくない……」
テッサリアの太い腕が緩やかに伸びて、ぽん、と優しい動きで少年の頭に手を置いた。
「その気持ちも、そういうものです。今きみから聞いた話は、私ときみだけの秘密にしましょうね。彼女にはなんと?」
「傷つけたくなかった、と」
テッサリアは目元を緩めて、少年の頭に置いた手で赤錆色の髪をそっと撫ぜた。ハイドラは拒絶の意図を手で示しかけてから、力尽きたように持ち上げた腕を降ろした。シャツの下の異形の孔たちは静かに沈黙を守っている。
「なるほど。彼女のために君が黙っていた事を怒っていたんですね」
「いえ……」
ハイドラは少しだけ顔を傾けて、ちらりと覗く目だけを動かして答えた。
「傷つけてごめん、と言ったら……傷つけてよ、と言われて」
穏やかに頭を撫でていた手が止まる。巌のような体躯に似合わない小さくて優しげな目が、初めて感情の揺らぎを見せて震えた。ほんのかすかなその揺らぎは、ハイドラが金色の目を瞬かせる間に掻き消える。
大きな手が頭から離れて、優しく背中を叩いた。
「それはきっと、きみと同じでありたい、ということなんでしょうね」
ハイドラの装備はちょっと特殊で、出撃時にはインナースーツを着ていないことの方が多かったりします。色々と毟らなければならない都合で。
次回の更新は4/25です。
それではまた、次回。




