第2話 残された時間 ①
格納庫脇の簡易なロッカールームで、クピドは暗鬱な気持ちでパイロットスーツの袖から腕を引き抜いた。
足をもつれさせながら無残に焼け焦げたシエロの機体に駆け寄るユウの背中を、ただ見ていることしかできなかった。機体から降りてきたユウが、何とか無事だった、とあのいつもの泣きそうな笑顔で言ってくれる事を望んでいた。だがその望みは叶わなかった。祈るような気持ちで見つめているその視線の先で、突然淡く輝いた機体は跡形もなく消え去ってしまった。
降りてきたアサクラに何が起きたんです、と八つ当たりのように詰め寄った。感情の揺らぎのない深淵の目が自分を見降ろして、淡々と語った事実は映画か小説の中の話のような突拍子もないものだった。
(——こんなのサイエンス・フィクションの世界だよ)
口の中で、苦く呟く。現実味のない、未来遡行などという話。脳だけのパイロット。未来から来た、ユウの異なる在り様。
私も同じだよ、と心の片隅に蹲る小さな自分自身が囁いた。地球圏の天才パイロット、戦女神と呼ばれたソラコ・アサヒナのクローン。オリジナルが死んだ後ものうのうと生き続けている、女神の模造品。天使の欠片のはじめのひとひら。どこか現実と乖離した、人間とは異なる存在。
この異機種編隊に居たのはそんな存在ばかりだ。脳だけのシエロさん。模造品のわたし。混ざりもののハイドラ君。
シエロは世界の矯正力によって消えたらしい。死者は生き返らないと言われた、とアサクラが告げた台詞が冷たく心臓を掴み上げた。
わたしの存在は、世界に赦されていいのだろうか。
そんな思いが、頭の片隅にこびりついて離れない。仲間が消えてしまったばかりなのに、自分の事だけを考えている頭にほとほと嫌気がさした。それでも恐怖じみたその考えは、絡みつく蜘蛛の糸のように薄っすらと、だが強靭に自分の意識を覆い尽くしている。
母の模造品。ほかの天使の欠片たちと異なり、彼女の意識と記憶を完全にトレースしたわたしは、ソラコ・アサヒナが居なくなった世界に立つもう一人のソラコ・アサヒナでもある。これは母への冒涜ではないのだろうか。生命への、神への、世界への冒涜ではないのだろうか。
どっ、どっ、どっ、と、胸の奥で心臓が早鐘を打つ。生物が死ぬまでに刻むことの出来る拍動の数には上限があるらしい、というオリジナル由来の雑学が頭をよぎった。クローンの寿命は短い。その短い寿命を脈打つ早鐘は更に縮めていくようで、そこには何故か泣きたくなるような安心感があった。
かたん、と薄い仕切りの向こうから小さな音が鳴る。クピドはゆるく潤んだ黄金の瞳をぐいと腕でぬぐって、頭から隊服を被った。ちらりとカーテンから頭だけを突き出して隣のコンパートメントの様子を伺い見る。隣で着替えているはずのハイドラは、まだ身支度を済ませていないようだった。
自分の存在に赦しは与えられないと、息をするようにずっとそう認識している、わたしの相棒。赦されていいのか、と考えるだけで息が出来なくなりそうなのに、ハイドラ君はどんな気持ちで、どんな目で世界を見ているんだろう。
薄いカーテンのすぐ向こうにあるはずの金色の理知的な眼差しが、狂いそうなくらいに恋しかった。わたしを見て欲しい。世界に赦しを求めないあなたが、わたしを見てくれたら。
ちいさく息を吸う。淡い笑みを口元に貼り付けた。着替えを済ませた身体をコンパートメントからゆっくりと押し出して、足音を殺して隣のカーテンに近付く。薄い青の布地を手に取って、ちらりとそれを引き開けて顔を突っ込んだ。
「ハイドラ君、着替えまだ――」
「えっ、うわクピド!?」
慌てたようなハイドラの声は、耳を通り抜けたあと脳まで届かずに霧散した。声だけではない。赦しだとか、自分の存在がどうだとか、そういったものも全部まとめて吹き飛んだ。真っ白になった頭の中には、シャツを引き下ろす直前だったハイドラの、一切日に焼けていない肌の色が焼き付いている。違う。わたしが、見たのは。
「————っ」
喉が奇妙な音を立てた。腹部までをびっしりと覆った、異形の孔の群れ。それが在ったのは、腕だけだったはずだ。そう。ほんの、数ヵ月前までは。
ヒトの身に混ざり合った異形の影響で一月が一年と同じ意味を持つ彼の、数ヵ月前には同じ高さだった目線はすっかり見上げるほどの高さになっている。その高みから困ったような、後ろめたいものを見られたような光を宿した金色の目が、おどおどと少女を見降ろした。
「……き、着替えの途中で、覗くのは、よくないとおも、う……」
その言葉に頭にカッと血が昇るのが分かった。クピドは反射的に狭いコンパートメントの中に踏み込み、次の瞬間。
ぱぁん、と高い音を立てて、ハイドラの頬を張り飛ばした。
「————っ、ハイドラ君の、馬鹿っ!!!!」
言いたい事は、言うべきことは何も口から出せなくて、ただ困った顔の彼を罵った。ほんのりと赤くなった頬を指の腹でゆるく撫でて、少年と青年のあわいに在る彼は消え入りそうな声でごめん、と呟く。
「なんで隠してたの! 最近検診についてくるな、って言ってたのはこのせいなんでしょ」
ねぇ、と言い募ってその胸に縋り付いた。同質の柔らかさを持っていたはずのハイドラの身体は、知っているそれより硬くて厚い。危ないから、と優しく労る声が落ちてきて、壊れ物のように触れられた肩を押して身体を離された。
きっ、と理性と優しさが混ざった面差しを睨み上げる。赤錆の色をした髪がひとすじ、ぱらりと頬に掛った。困らせるだけだ、傷つけるだけだ、と分かっている言葉を、ただ否定して欲しいだけの自分本位で投げつける。
「わたしってそんなに信用ない? それを知ったって、怖がったり否定したりしないもん。お互いに似たような立場で、家族みたいな親近感を持ってるのはわたしだけなの?」
「違う、違うよクピド。心配させたくなかったんだよ。きみを傷つけたくなかった」
「傷つかないもん!」
違う、と言われたことが嬉しくて、傷つけたくなかった、と言われたことが悲しくて、叫んだ声に涙の色が混じる。
嘘。傷ついてる、わたし。隠されていたことが悲しい。でもそれ以上に、あなたという存在がわたしから離れていくのが悲しい。同じだった目線の高さがもう合わない。まだヒトという枠組みから出られないわたしを置いて、あなたはどんどん変わっていく。
躊躇いがちな指がそっと伸ばされて、滲んだ涙をぬぐってくれた。一瞬触れ合った下目蓋の皮膚が、あつく熱を孕む。
「ごめん、傷つけて」
自分の事ではそんなそぶりを見せたこともないくせに、酷く傷ついた様子でハイドラが言う。ああ、このひとは何もかも分かっている。嬉しくて、腹立たしくて、どうしようもなく悲しい。彼が傷ついているその事実もまた悲しい。自分のせいで彼が傷ついていることが、ひどく嬉しい。
ハイドラが拭ってくれた眦から、その行為を無碍にするように涙が幾筋も溢れ出た。
「…………傷つけてよ」
呪いのようなその言葉は囁くような小さな声量で吐き出されたにも関わらず、ハイドラの肩をびくりと震わせる。まだ回転しようとする舌を押しつぶすように、クピドは唇に拳を強く押し付けた。自分で自分に、黙れと怒鳴りつけたい。とてもではないが、もう1秒だってこの場に居られそうにもなかった。
くるりと踵を返して、少女は走り去る。振り返ることは出来なかった。




