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黎明のアヴィオン - 第13調査大隊航海記  作者: 新井 狛
第五章 土星の環でワルツを
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断章 さよなら、世界

 「兄さん! 今日はシドロフさんとこのお店の廃棄品を譲ってもらえたの。兄さんの好きなピロシキも買って――」

「ごめんユリア。ちょっと待ってね」


 身体のラインが不明瞭なだぼだぼの服を着て、鍔の擦り切れたハッチングハットを目深にかぶったユリアの声を、兄は掌を押し出すように差し出しながら遮った。廃棄品のパンの詰まった紙袋を抱えたユリアは、眉間に皺を寄せて蜘蛛の巣のような罅だらけの情報端末の画面を睨みつける兄の横顔を眺める。


「――何かあったの?」

「ちょっと気になる話を聞いたから調べてる。ただの噂だといいんだけど」

「……そう。イゴーリさんは?」


 ユリアはユリウスの隣に腰を降ろすと、袋をごそごそと漁りながら尋ねた。


「日雇いの仕事が取れて出掛けたよ。俺が行くって言ったんだけど――」


 ユリウスの言葉が途切れ、湿った咳があとに続く。ほんのり紅く染まる白皙の頬を見て、ユリアは肩を竦めた。


「昨日まで酷い熱だったんだから、無理しないで。ほら」

「ん、ありがと。……美味そうだ」


 ユリウスは目元を緩めて差し出されたピロシキを受け取る。さくりと一口齧って顔を綻ばせた。


「すごいな、まだあったかい。美味しいよ」

「そうでしょう! 揚げたてだったんだから!」

「ユリアも食べたら?」

「嫌よ、風邪が伝染るもの。それは兄さんが全部食べて」


 齧りかけのピロシキを差し出した格好のままで、ユリウスはうぐ、と言葉に詰まった。先に食べるんじゃなかった、とぼやくユリウスを無視して、ユリアはシミだらけの古ぼけたドアに目を向ける。


「イゴーリさんの分もあるのに。冷めちゃうわ……」

「食べちゃえば? その様子じゃどうせ自分の分は買ってないんだろ、じいさんはユリアが食べろって言うと思うけどな」

「嫌よ。今日こそは――」


 しかめっ面のユリアの言葉を遮るように、どん、と扉の叩かれる音がした。おおい、と嗄れて濁った声が呼ぶ。ユリアはぱっと顔を輝かせて立ち上がった。ユリウスが顔をしかめる。


「ひっどい声だな。じいさん、風邪伝染ったんじゃないのか」

「イゴーリさん、おかえりなさい! ……え?」


 弾んだ声でドアを開けたユリアが、凍りついたように動きを止めた。ユリアの背越しにユリウスの手から、齧りかけのピロシキがぽとりと落ちる。


「たダ、いまァ、ユ、リ」


 白髪にわずかな栗毛の交じった艶のない髪の下で、真っ赤に充血した白目がぐりんと縦にあり得ない回転を見せた。兄妹のどちらの名を呼んだのか判然としない口からは、舌を押しのけるように無数の指がわさわさと這い出そうとしている。

 糸繰人形(マリオネット)のような奇妙にぎこちない動きでそれは一歩、室内に足を踏み入れた。ずたずたに引き裂かれた袖の布が絡みつく、赤黒い血と粘液にまみれた腕がユリアに向かって伸ばされる。


「ユリア!!」


 あり得ない長さに伸びてユリアの身体を包み込もうとした腕が空を切った。全力で襟首を引っ張られたユリアが青い顔をして咳き込む。

 そんな妹の腰を抱え上げるようにして立たせると、ユリウスは手近にあった錆だらけの古いスタンドライトを老人の皮を被った何かに向けて投げつけた。粘液まみれの腕が幾つも枝分かれしてそれを受け止める。ばぎん、ごぎんと嫌な音を立ててぬめる肉が硬い金属のシェードを圧し潰し、割れた電球の破片がばらばらと零れ落ちた。枝分かれした先端が、ぬちゃぬちゃと粘着質な音を立てて蠕動しながらそれを啜り始める。

 その様子を目を見開いて見つめながら、息を呑んで動けないままの(ユリア)の手をユリウスは強く引いた。ユリアを半ば引き摺るようにして裏口から飛び出すと、身体を叩きつけるようにして錆の浮いた扉を閉める。湿った何かを扉に叩きつける音がしたが、かつて老人だったそれにドアノブを回す知恵はないようだった。

 素早くユリアの手を引いてその場を離れようとしたユリウスの足が、ユリアに引っ張られる形で止まる。


「待って、イ、イゴーリさんを」

「無理だよ。おいで」


 震えるユリアの言葉に、優しい声で、でも一欠片の躊躇いもないノーを返してユリウスは妹の手を引いた。一瞬たたらを踏んだユリアの足が動き出し、二人で混迷を極める街を走り抜ける。

 宇宙からやってきたというその怪物が飲み込んだのは、行く当てのない兄妹に屋根のある居場所を与えてくれた穏やかな老人だけではないようだった。そこかしこで悲鳴があがり、侵食性の肉が這い寄ってくる。ユリウスの背後でずっと罪悪感と恐怖でぐすぐすと泣き続けながらも、ユリアは懸命に走ってくれた。

 ほとんど眠らずに3日間逃げ続けてユリアの涙もすっかり枯れた頃、兄妹は防衛軍の敷いた防衛線へと逃げ込んだ。


 * * * 


 行く当てのない兄妹にとって、防衛軍の志願制度は渡りに船だった。

 防衛軍の訓練兵舎は、家族を失った少年少女で溢れかえっていた。ユリウスが思っていたより世の中はまともで、子供たちを戦場に立たせまいと大人たちが奮闘した結果、残ったのは子供ばかりというなんとも皮肉な状況であったらしい。


 皆悲しみに暮れる暇もなく、過酷な訓練に叩き込まれた。教官たちはみな厳しかったが、それが生きるために必要なのだということを誰もが肌感として感じていて、必死に喰らいついている者が多かったように思う。それでも過酷な訓練が終わって夜になるとみな悲しくなって、互いに縋り合おうとするのだ。


 それは早くに親を失くして、スラムで孤児として生きてきた兄妹とは無縁の感情だった。ユリアは短い期間身内のように親切にしてくれたイゴーリの事を少し引きずってはいたが、あの老人も別にかけがえのない存在だったかといえばそんなことはない。 

 同期達の悲しみは、家族を喪った時には悲しんで良いのだと言う事を兄妹に思い出させ、かすかな癒やしを与えさえもした。その代わりというわけでも無かろうが、自然二人は悲しみを共に引き受ける役を担いつつあった。


 支え合えば、なんとかやっていける。二人が互いに課していたその価値観は、その範囲を拡大しつつあった。


「ジャンがね、やっと試験に受かったんだって」

「おっ、じゃあ明日から飛行訓練に合流? よかったな」

「どこの班に入るんだろ。リサのとこかな?」

「はは、ユウのやつがやきもきしそうだな」


 訓練を積み重ねて、ひとつずつステップを上がっていく事には奇妙な一体感があった。ジャンは痩せぎすで内気な青年で、基礎体力訓練(PT)においても座学においても他より頭ひとつ劣っていたが、そんな彼がようやく同じラインに上がってきたのはなんだかひどく嬉しかった。

 そんなジャンとようやく一度、二度と飛行訓練を共にした後に、その絶望は訪れた。


「まだ前途ある君たちの命を借り受ける事、どうか許してほしい」


 フォボスで見つかった"巣"の攻略は酷い泥沼の戦場と化し、オレンジ色の練習機に乗った同期達は次々と戦場に駆り出されては死んでいった。常に旗艦の傍で、通信中継の任を担ってほとんど前線に出なかった二人を置いて。


 ようやく飛べるようになったジャンは、真っ先に死んでしまった。通信中継を担っていた二人の上を、戦死報告はすべて余すことなく通り過ぎていく。同期の中でもひときわ仲の良かったリサの死の知らせを最後に、フォボスの戦いは幕を閉じた。

 戦死(KIA)の報を中継するたびに麻痺していった心は、すっかり人気のなくなってしまった訓練兵舎を見た時に溶け落ちた。どうしてか悲しみよりも、虚しさが勝った。ユリアは抱きしめてくれた兄の腕の中で、小さく呟く。


「ねぇ兄さん。私、居場所を見つけた気がしていたのよ」

 

 両親は双子がほんの幼い頃に死んでしまって、ユリアには親の記憶はほとんどない。彼女にとって家族と呼べる者はユリウスだけだった。住むところもなく、ただ兄に縋って、兄を支えて、それだけで生きてきた日々だった。


 そんな二人を気の毒に思った老人が、居場所を貸してくれた。隙間風のひどい、狭い狭い家だったけれど。寂しい老人と親を失くした兄妹は、あの瞬間、確かに互いを必要としていた。

 だがその居場所は、星外から訪れた異形という予想だにしない理不尽によって、わずか半年も経たないうちに奪い去られてしまった。

 いいや。果たして、あれは奪い去られたのだろうか、と今でも少し思う。私たちは振り返らずにあの場を去った。去れてしまった。あの老人が本当の家族だったら、果たしてそう出来ただろうか。あれは奪われたのではなく、捨ててしまったのではなかったのだろうか。

 あの時流した涙は、同期たちが家族を喪って泣いたそれとは違ったのだと今なら分かる。胸を満たしていたのは罪悪感で、悲しみではなかった。喪失を悲しめなかったその事実が、あれは居場所ではなかったのだという無慈悲な事実を突き付ける。

 ユリアの白い頬を、涙が一雫滑っていった。


「みんな、いなくなっちゃった。ずっと一緒に飛べると思ってたのに。私今、すごく寂しい。でも、みんなが死んだ事じゃなくて――誰も、居なくなっちゃったことが、悲しいみたい」


 私って非道い奴ね、と自嘲ぎみに胸の中で淡く笑った妹を抱く力に、ユリウスは力を込めた。その腕に身を委ねて、胸に頭を預ける。視線を兄の胸の上に落としたまま、ユリアは呟いた。


「結局()()の居場所は、この世界のどこにもないのよね」


 私、ではなく私達、と言ったユリアの頭を、ユリウスが優しく撫でる。どこにも居場所のない世界の、互いの手の届く範囲だけが二人の居場所だった。


「大丈夫だよ、ユリアちゃん。お兄ちゃんがいるからね」


 優しい兄の声が、かつて幼かった自分を宥める時のトーンで背中を撫でて、ユリアは顔をしかめた。


「その呼び方、やめてよ。もう子供じゃないんだから」

「どんなに大きくなってもユリアは俺の可愛いユリアちゃんなんだよ」

「やめて。恥ずかしい」


 むっすりと頬を膨らませて兄の胸を突き放す。半ば突き飛ばされるような形だったにも関わらず、兄は笑っていた。こうして突き放せるのは兄が絶対に自分を置いて何処かへいかないからだと確信している、その気持ちには見ないふりをする。それを見てしまったら、同期たちの悲しみを受け止めていたのは、突き放せなかったのは、酷く利己的な理由だったと認めなければならないから。


(兄さんさえ、いればいい)


 絶対に口に出さない言葉を、胸の底に仕舞い込む。ユリウスさえいれば良かった。そして居場所のない世界は、やるせなかった。


「ねぇ兄さん。調査隊に、志願しよう」


 同期たちに囲まれていた時には目を背けていた選択肢に、手を伸ばす。どうせどこにも居場所がないのなら、帰り道のない切符を手に取るのも悪くないと、そう思った。

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