第20話 魂は今、この冷たい胸の内に ②
全身を淡く揺さぶるようなエンジンの轟音が、ふっつりと止まった。一人きりの機内で、シエロは操縦桿を握っていた手を離す。いつも内部カメラ越しに見ているコックピットの中を、一人称視点で見渡した。義体でここに座るのはこれが初めてのはずなのに、分離していた魂が身体に戻ってきたかのような、奇妙な安堵感がある。
フライトコンソール、操縦桿、フットペダル。普段思考と直結したそれらが即時応答するのに対して、義体を介してワンテンポずれるはずの操作は酷く手に馴染む。言葉で表すならばそれは"懐かしさ"のようで、シエロは短い皮手袋をはめた義体の手をじっと見降ろした。
"本体"に意識を戻す。無限に続く空間の中に切り取られたコックピットの中には、青い髪の女が座っている。コックピットの座席に座っていた時は紛れもなくそこが自分のものだという確信があったのに、そこに座っているのがユウではないことには逃げ出したくなるような違和感があった。
違和感。義体を手に入れた日から、乖離は日増しに大きくなっている。何かが決定的に、間違っているのを――知っている気がした。
(——無視しろ)
噛みしめるように、自分に言い聞かせた。蓋は開きかけている。それは二つのベリリウム半球の間に差し込まれたドライバーのように酷く不安定で、触れた瞬間に弾けて何もかもを破壊しつくしてしまうような恐怖を伴う予感があった。
(予感、ではない。これは演算、された予測で。危機管理システムの一環で――)
箍の外れかけた意識を無理やり切り替えようとする。そう、予測だ。予感は予測であり、感情は演算であり、信念はデザインされた英雄という類型だ。
――予測。
出撃する時のユウを待てないと思った、あの焦燥感。ナギならきっと無茶をする。だから、一秒でも早く駆け付けなければならなかった。これは作戦という式に定義された変数に、ナギというパラメータが代入された結果の出力に他ならない。
(——本当に?)
存在しない臓腑を絞り上げる焦燥で機体を駆って、タンクエリアの開いたドームを見たその瞬間に。ナギに加圧パックが必要なのだと、分かってしまった。ほかにも可能性はあったはずだ。だが無数に分岐した可能性の枝の中から、この思考はただ一つの正解を引き当てた。
出力を決定するには、すべての変数を埋めなければならない。あの理解が演算の結果なら、それを出力を決定するための材料は自分を満たす0と1の海のどこにあったというのだろうか。
(私は何を、知っている?)
自分は演算に使われるデータセットの中身をすべて把握していない。演算の過程の処理のすべてを理解してはいない。だからこれはきっと、複雑なデータと演算が組み上げた、未来予知めいた予測の結果なのだろう。たとえ他の誰もが知らない事を知っていたとしても、それは最新鋭の技術の粋が生んだ自分の性能にすぎないはずだ。
除染の終わりを告げるブザーが鳴る。思考が途切れた。安堵に似たこの感覚は、きっと演算が中断されてリソースが解放されたからだ。
敢えて義体を操作してキャノピーを開ける。シートから身体を引っこ抜いて梯子に足を掛けた。右足、左足。足の動きに演算リソースを敢えて振り分けて、ゆっくりと梯子を降りていく。じいっと自分を見上げているユウの視線には、気付かないふりをした。
二本の足が床につくのに重ねて、違和感をすべて潰して押し込める。相棒だけには、この内面を垣間見せるわけにはいかないと思った。表情には達成感と疲労に、ひとつまみの申し訳なさを足す。自信に満ちた動きで振り返った。
「さっきはすみません、ユウさ――」
ユウが何も言わずに、ひしと義体を抱きすくめる。用意していた言葉が途切れた。空色の髪の合間に指が潜り込む。ジャケット越しに、逃がすまいと言わんばかりの手が背中を掻いた。
「……おかえり」
色々な感情を飲み込んで、ようやく絞り出したかのような小さな小さな声がぽそりと告げる。焦げ茶の髪が頬に擦れた。肩に埋もれたその顔の表情は見えない。同じく向こうからも見えないであろう表情を、シエロは緩く歪めた。宥めるように相棒の背を軽く叩く。
知っている。凡人の身で英雄に祀り上げられた彼が、その理想に殉じようとしていることを。知っている。自分が行かなかったせいで相棒が帰ってこない可能性を酷く恐れていたことを。知っている。英雄になんてなりたくなかった。先へなんて進みたくなかった。すべてを投げ捨てて逃げ出してしまいたかった。
(――それでも今、ここにいる。貴方も、私も)
人体の孕む熱が、じんわりと義体に沁み込んでいく。温度と一緒に身体が融け合っていくようだった。融け合うように重なった思考は、何故かひどく懐かしくて愛おしかった。
今日のエピソードは3分割構成です。18時頃に続きを更新します。




