第20話 魂は今、この冷たい胸の内に ①
星の海に立っていた。空は遠く澄み渡り、芥子粒よりも小さな光が存在を懸命に主張するかのように瞬く。
よく晴れた夜のウユニ塩湖のように、足元にも光が溢れていた。一歩踏み出すと、動きに合わせて波紋が広がり、かき混ぜられた星の海はゆらゆらと揺れた。揺れる様が楽しくて、足がステップを踏む。金色の靴が跳ねるたび、ぴちゃんと清冷な音が鳴った。
子供の頃によく踊らされたワルツのリズムに乗って、相手もないままくるくると。跳ねる水音は、次第に粘ついたものへと変わっていく。
赤く爛れた太陽が、肉の絨毯を照らしていた。一つ跳ねるたび、血と脂肪が足に、脚に、腰に、胸に背中にまとわりつく。甘く倦んだ匂いが空間を満たし、肉は踏まれるたびにぎいぎいと耳障りな悲鳴を上げた。白のワンピースが、裾からどす黒い赤に染まっていく。
ぐっしょりと血と脂で全身を濡らして、重い脚を引きずってなおも踊った。聞こえるのは肉の悲鳴ばかりで、自分以外の誰をも見つけられはしない。
(もっと)
もっと深くに堕ちたら、あのひとがいるだろうか。粘性の肉が足を絡めとる。肉の彩をした点滴のチューブがハイヒールに絡みついて、胃の奥を縮ませながら体が倒れていく。肉の海に叩きつけられる刹那、黒い人影が立ち尽くすようにこちらをじっと見ている事に気付いた。
「————ギル?」
朝露の霜を集めて作ったような白く透ける睫毛を震わせて、紅玉の目がゆっくりと瞬いた。薄緑のカーテンに区切られた狭い空間には、沈黙と消毒薬の匂いが満ちている。見慣れたいつもの風景の中で、変わらぬ52個のカーテンレールランナーがナギを迎えた。
「ギルバートさんじゃなくてごめんなさいね。お生憎だけど天国じゃなくて医務室よ」
冷たい台詞と裏腹に、酷く優しい声が足元から落ちてくる。視線だけを振り向けると、手にしていた文庫本をぱたんと閉じてマリーが立ち上がった。
「あは。もしボクがギルに会えたとしたら、そこが天国じゃない事だけは確かだな」
気の利いたジョークだとでも言いたげに片目を瞑ったナギに、マリーはちっとも笑わない。ただ悲しげに眉を寄せた。
「早い再会を、ギルバートさんは喜ばないと思うわ。あまり無茶をしないで……」
「別に自殺願望があるわけじゃないよ、マリーはんちょ。あそこは生存可能な区画のハズだったんだ。ちょっとアテが外れちゃってさ」
「どうだか」
「うわ、信用されてないな〜。……あれ?」
のそのそと身体を起こそうとして、ナギはきょとりと瞬いた。
「マリーはんちょ、右足が動かないんだけど」
マリーは小さく息を吐き出す。薄掛けをめくって、荒れた指先で白い脚に触れた。
「あなたの脳は低酸素症を起こしてたの。片足で済んでよかったのよ。加圧パックを持ってきてくれたシエロちゃんに感謝しなさい。もう少し遅かったら意識が戻っていたかも怪しいわ」
「そっか」
何の感慨もなさそうに相槌を打って、ナギは浮かせかけていた頭をぽすんと枕に戻した。枕に篭っていた熱が、ぬるく後頭部を迎える。ぶる、と軽く震えたナギの、動かない足の上に薄掛けを戻して、マリーはその額に触れた。顔をしかめてバングルの数値を確認する。
「熱が上がってる。寒くない?」
「ん、へーき」
鼻先まで薄掛けを引き上げてナギがこくんと頷くと、マリーの白衣のポケットの中で呼び出しベルがけたたましい音を鳴らし始めた。ナギが薄掛けの合間から手を出してひらひらと振る。
「いってらっしゃい、はんちょ」
「――変な気を起こさないでね。もう少し寝たほうがいいわ」
「ん、そうする」
素直にこくんと頷くナギを一瞬怪訝な目で見やったマリーを、呼び出しベルの音が催促した。後ろ髪を引かれる様子で出て行くマリーの背中を見つめて、ナギはくすくすと笑う。
「別にもう、どこにも行かないよ」
そうひとりごちて、目蓋を閉じる。熱をはらんだ身体は重怠く、首元から沈んで行くようなその感覚からかつてウサギのように逃げ出そうとしていた焦燥感は既にない。熱く凝るその身体の、真ん中だけは冷え切っていた。とくん、とくんと淡い拍動を刻む心臓は酷く眠たげで、共に眠るようにナギは静かに意識を手放した。




