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「どんな環境でも自分が幸せと思えばそうなれるなんて、結局恵まれた人間の言うことだね」
秋の海辺の砂浜の上で、彼女はレンタルした車椅子に乗って、海の向こうを見つめながら言った。
俺は何も言えず、車椅子の彼女の隣で腰を屈めて座り、同じように海を見つめていた。
沈む夕日、潮風、波の音。
すべてが鮮明に、あの日のままだった。
「もし私がね」
彼女が言いかけたところで、世界は暗闇に切り替わり、重たい頭と体の感覚が戻ってきた。
枕元のスマホに手を伸ばして、時間を確認すると朝の4時半で、もうひと眠りしなければ、今日1日を乗り越えられる気がしなかった。
俺はスマホをまた枕元に置いて目を閉じ、沈むいく意識に逆らわずにまた眠りに落ちた。
もう一度、彼女に会えることを願いながら。
紛失していた彼女のスマホを警察署で受け取った帰り道、公園のベンチでペットボトルのコーヒーを飲みながら、子供達がサッカーをしているのを眺めていると、俺の隣に男が腰掛けた。
雰囲気で誰かわかった俺は、何も気にしていないように表情を装って、コーヒーを口に運んだ。
「すいません。会ってもらえないんで、後をつけさせてもらいました」
男の言葉に俺は応えず、子供達のサッカーに、おおナイスパス、とわざとらしく声をあげた。
「警察辞めたからって、好きにしちゃ駄目でしょ」
苛立ちの混ざった声で俺は言い、ベンチに深く座り直して、空を見上げた。
「許してはもらえないでしょうか?」
男の言葉を、俺は恨みを込めて鼻で笑った。
「正気かあんた?」
「俺は仕方なかったことだと思っています。警察を辞めたのは、ケジメであって、彼女やあなたへの罪悪感からではありません」
俺は震え出した手をペットボトルをキツく握ることで抑えながら、怒りを殺す為に笑った。
「おかしな人だな、あんた。だったら何の為に俺に許しを乞うんだよ。罪の意識も何もないんだろ?」
俺は深く息を吸った。呼吸が重苦しく、怒りで気が狂いそうだった。
「終わらせたいだけなんです。俺はもう前を見て生きていきたい」
「終わらせるかよ!」
俺は勢いよく立ち上がって、怒鳴り、ペットボトルを男に投げつけた。ボトルは男の側頭部に当たって跳ね、地面を転がった。
俺は男に背を向けて、足早にその場を離れた。
「あなたも前に進みたい筈です!」
男の声が背中から響いたが、俺は無視して、そのまま歩き続けた。
巨軀の男の影に隠れて、路地から出てきた彼女に気づけなかったと、あの男・佐田は言ったらしい。
鉈を持った男が、路上で子供をつかまえて、支離滅裂な言葉を吐き続けている現場に、佐田海斗が向かい、男の手を振り払って逃げようとした子供の頭上に男が鉈を振りあげた瞬間に佐田は発砲した。
発砲音に驚いた男は、鉈を落として、子供は佐田の下へと駆けた。
男は発砲されたショックからか、黙り込んで、フラフラと鉈をそのままにして、その場を去った。
弾丸は男には当たらなかった。
男の背後にタイミング悪く路地から出てきた俺の婚約者の工藤夏生の右側頭部を撃ち抜き、彼女は即死した。
海辺で紛失したスマホの遺失届を出しに行く途中だった。
待ち合わせをして、俺と一緒に行く筈だった。
彼女が絶命したのは、待ち合わせ場所の近くで、俺はそこへ向かう途中で、車椅子の上で頭を垂れて、白い服を血で紅く染めた彼女を見た。
佐田は泣きじゃくる子供をしゃがんで抱きしめたまま、放心状態で夏生を見つめていた。
夏生が絶命しているのはすぐにわかった。
俺はただ、夏生の下に歩みよって、腰を屈めて彼女の額に自分の額をあてた。
言葉は何も出なかった。
悲しみだけが、身体中を駆け巡り、嗚咽していた。
夏生の命を奪ったのは、海へ誘った俺なのか、紛失したスマホなのか、佐田なのか。
佐田なのは間違いないが、俺の中ではっきりと答えが出ずにいた。
海へ誘わなければ、スマホを紛失していなければ。面倒がらずにその日のうちに遺失届を出していれば。
原因を辿れば自分に辿り着く苛立ちを、俺は飲み込めずに、佐田もそれを見透かしているようだった。
あの場所に彼女が居合わせたのは自分の責任ではないと、佐田はそう罪悪感を誤魔化している。
俺は佐田を責めれば責めるほど、自分の心が切り裂かれていき、自分を許せば佐田を許してしまう気もして、どうすることも出来ずに重苦しい苛立ちを続けていた。
「幸せは自分で決めるものだから、私はいつだって幸せ」
病に侵される前の、明るく幸せそうな夏生が、海を背中にして言っていた。
「お嬢様だなぁ」
からかうように俺は言って笑い、彼女は何よ、としかめ面をした。
「苦労知らずっていいたいの?」
「どこかの国で難民になっても、同じことは言えないだろ?」
「そんなのずるい。私は私の人生を生きてるんだから、誰かの不幸まで背負えない」
「日本に生まれた俺達はそれだけで贅沢で幸せなんだよ。だからそんなお嬢様発言が出来るんだ」
「何よ、自分は全部わかってるみたいに」
彼女はふくれっ面をして、あーつまんない、と俺に背を向けた。
いつだって幸せなんて、思えやしないさ。
「俺は夏生を失ったら、幸せでなんていられない。夏生は俺がいなくても、幸せなのか?」
夏生は肩越しに振り返った。不思議そうな顔をしていた。
「私はね」
彼女が言いはじめたところで、また世界は暗闇に変わり、重い頭と体の感覚が戻った。
スマホを手探りで探して時間を見ると、9時過ぎで、俺は溜息を吐きながら体を起こすと、ぼんやりと今見た夢を反芻した。
夏生を失うことは、どこかでわかっていた。
ずっと幸せでいれないことも。
だからいつも明るく幸せそうな夏生を時折冷めた目で見ていた。
そんな風だから。
俺がそんな冷めた人間だから。
夏生は病魔に侵されたのかもしれない。
それが現実だと、俺にわからせる為に。
夏生の言うように、幸せを信じていれば、違った現実があったかもしれない。
俺の信じる現実が、夏生を病気にしてしまった。
病に打ちのめされた夏生は、明るく振る舞うことは変わらなくても、その幸せには陰りが見えた。
「透の言ってたことがわかったよ」
陰のある笑みを浮かべながら、夏生は言った。
そんなことは、わかってほしくなかった。
明るく幸せな夏生のままでいてほしかった。
夏生のスマホを持って、あの日の海へ向かった。
電車の中で、夏生のスマホのライブラリを見ながら、写真の夏生がもう諦めていることを、感じて胸が苦しくなった。
陰のある笑顔はもう、隣にいる俺との幸せを見てはいなかった。
「私は自分に何があっても、幸せでいられると思ってた」
帰りの車の中で、夏生は言い、痩せた手で俺の頬に触れた。
「私がいなくなっても、幸せでいてね」
今思えば、あれが彼女の別れの言葉だった。
予期していたのか。自分の命が突然に奪われてしまうことを。
駅を出たところで、外国人の女性に声をかけられた。
何かの勧誘かと思い無視しようとしたが、流暢な日本語で、この前海にいませんでしたか?、と聞いてきたので、ええまあ、と俺は頷いた。
「ああ、やっぱり。車椅子の女性と一緒でしたよね?」
「ああ、そうですね」
俺が怪訝に眉を寄せると、女性はああ、ごめんなさい、と両手を合わせた。
「私、あなたの彼女のスマホを拾って、警察に届けたんですけど、ちゃんと返ってきましたか?」
「ええ??ああ、戻ってはきましたけど」
俺は夏生のスマホを女性に見せた。
女性は笑みを浮かべ、よかったぁ、と安堵したようだった。
「警察の人がちょっと不親切で、もしかしたらいい加減なことされてるんじゃないかって心配で」
「日本の警察は大丈夫ですよ」
俺は言って、夏生のスマホを鞄にしまった。
「海であなた達をみかけた後に砂浜を散歩してたら、スマホが落ちてて。スマホの裏の写真に写ってたあなたが駅から出てきたから、声かけちゃいました」
「ああ、恥ずかしいからやめろって言ってたんですけど」
気恥ずかしくなり俯きながら、俺は言った。
「どうして?素敵じゃない。今日は1人なの?」
「ええ、まぁ」
初対面の、それも親切な女性相手に夏生の死を伝えるのははばかられたので、俺は言葉を濁した。
すると彼女は、それとなく察したようだった。
「ああ、ごめんなさい。そうよね。彼女のスマホを持ってるんだもの。気づかなくて、ごめんね」
「いや、別に。あなたが気にすることじゃ」
一瞬沈黙が起きたが、すぐに女性が間を埋めるように口を開いた。
「私、ヴァネッサ・シモーネ。名前ね。留学で来てるの」
「そうなんですか。留学生か。日本語上手いね。俺の名前は、田丸透」
「トオル・タマルね。これから時間ありますか?」
「いや、まぁないことはないけど」
「あー、勧誘とかじゃないですよ。あなたと恋人の話が聞きたくて。私、作家を目指してるから、とにかく色んな人とコミュニケーションとって、人を知りたいの」
「ああ、まぁ」
俺は少し考えてから、どうせ目的があるわけでもないし、少しこの外国人女性に付き合うことにした。
「少しなら、いいですよ」
「そう。よかった!じゃあ、そこのカフェに入りましょ」
そう言って女性は駅前のカフェを指差し、俺と女性はカフェに向かって、歩き始めた。
「自分に何があっても、幸せでいられると思ってた」
ヴァネッサは左手でノートにメモを取りながら、フンフンと頷いた。
「病気になるまでの彼女はいつも幸せそうだったから、俺も彼女の病気を知った時は、そう思ってた。夏生なら、幸せなまま過ごせるんじゃないかって」
「それは難しいでしょう。脳天気だったんですね、トオルは」
「いや、脳天気というか、俺自身は冷めた人間で彼女と一緒にいても、一生幸せが続くわけはないと思っていたし、どちらかと言えば彼女の方が」
「うーん。楽天的ではあったみたいですけど、想像力に欠ける感じはしますね。例えばいま日本に災害が起きて難民のような生活を強いられた時に同じように幸せな気持ちでいられるかと言えば、ほとんどの人がノーでしょう。家も失って家族も失って街も破壊されて、幸せでいられるなんて、むしろサイコパスですよ」
「あ、夢の中で俺も似たようなこと言いましたよ。彼女はそんなのずるい。とか言ってたな」
「まぁ、幸せな人は幸せな立場でからしか物事を見れませんからね。夢に彼女はよく出てくるんですか?」
「時々ね。いつもじゃない。出る時は鮮明で、まるですぐそこにいるかのようなんだけど、いつも彼女が何か言いかけるところで目が覚める。俺はその先が聞きたいんだけど」
「例えば?」
「夏生は俺がいなくなっても、幸せなのか?って聞いたけど、答えの前に目が覚めた」
「それはきっと、あなたが自分で見つけなきゃいけない答えなんですね。彼女がどんな人間だったか。あなたを本当に愛していたか」
「それは夏生にしかわからないでしょう。俺のことを本当はどう思ってたかなんて」
「ノーノー。わかる筈ですよ。自分の胸の中の彼女を見て。あなたの知っている彼女以外に、彼女はいないよ」
「だったら、幸せじゃなかったかもな。俺は冷めた人間だったから。幸せを好む彼女には、不似合いだったかもしれない」
「それはあなたの意見で、彼女のことを見れてませんよ」
「いや、幸せそうじゃなかったよ。もし俺といれて幸せなら、病気になっても幸せそうにしていられた筈だ」
俺の言葉にヴァネッサは、うーん、と唸り、メモを取るのをやめて腕を組んで、宙を見つめた。
「彼女はあなたといるのが不幸ではなくて、幸せでいられなくなった自分が嫌になっただけなんじゃないかなぁ」
「それは普通のことだよね。病気になって幸せでいられる人もいないでしょ」
「病気になったからというより、自分の弱さに打ちのめされたんだと思いますよ。どんなことがあっても幸せでいるってことは、強さの証明でもある気がします。ただ、強いと幸せはまた違うんですけどね。強いからって、幸せな人生を送れるとは限らない」
「強さねぇ。そんなのを求めてるようには見えなかったけどな」
「彼女が幸せにこだわる理由があった筈ですよ。ネガティブなものを見なきゃ、そこまで幸せを追求したりしませんから」
「あー、、、。もしかして、それって俺?俺が冷めた人間だから、夏生は明るく幸せでいようとしたのか?」
「かもしれませんね」
「なんだそれ、、、」
「それが愛なんじゃないですか?彼女のあなたへの。まぁ、わかりませんけど」
ヴァネッサは言って、ペンをケースに片付けるとノートを閉じた。
「もういいの?」
「はい。とても勉強になりました。愛って良いですね。色んな形があって」
「まぁ、彼女が生きててくれればね」
「彼女がいなくても、愛はあなたの中で変わり続けて、成長だってしますよ。彼女のことだって、今よりもっと愛せるようになります」
「いないのに、どうやって」
「繋がってますから。目の前から消えても、いなくなることはありません」
「そういう話は信じられないな」
俺は苦笑して、コーヒーを口に運んだ。
「わかる時が必ず来ます」
ヴァネッサは笑ってそう言うと、ペンケースとノートをバックにしまって、立ち上がった。
「ありがとうございました」
ヴァネッサは頭を下げて、テーブルから離れた。
離れるヴァネッサに、俺は情けない自分を晒した。
「もしも君がスマホをすぐに拾って、俺達が帰る前に彼女に届けてくれたら、夏生は死ななかったんじゃないかって、思ってしまった。駄目だな、俺は」
ヴァネッサは、少し黙っていたが、俺の方は見ずに、口を開いた。
「やっぱりあの女性だったんですね。ニュースで車椅子の女性って見た時に、まさかと思いました」
「もしもばかり、考えてしまうんだ。ずっとそこから抜けられない」
「それはあなただけじゃないですよ。私も彼女に関わっていたすべての人が思っていることです」
ヴァネッサはそれだけ言い、去っていった。
俺は彼女と過ごした砂浜を歩いた。
波音が孤独の心を叩く。
私がいなくなっても、幸せでいてね。
病に打ちのめされた夏生が果たせなかった、何が起きても幸せでいること。
きっと、俺に託したんだろう。
何が起きても幸せでいること。
悲しみも怒りも、そうでしか乗り越えていけない。
幸せでいれば、薄れて消えていく。この悲しみも怒りも。
そう信じて、生きていくしかない。
夏生のスマホを取り出して、スマホの裏の写真を見た。
幸せだった2人が、そこにいる。
俺が覚えておくのは、この2人だけでいい。
幸せだったことを、ずっと忘れずにいれば。きっと悲しみも消えていくだろう。
涙が溢れてきた。
「自分を許して、愛してあげて」
夏生の声が聞こえた気がした。




