トイレのドアが開かない!
夕方の4時頃。
立石紗耶香は自宅のトイレに入った。用を済ませて水を流し、ドアを開けようとした。しかし、ドアが開かない。
「うそ!?」
いくらドアをガチャガチャさせても、ドアは一向に開かなかった。
「閉じ込められた……。どうしよう……」
紗耶香が住んでいるのはマンションなのでトイレに窓がない。しかも5階。部屋には誰もいない。スマホは、ダイニングテーブルの上。
「マジでやばいじゃん……」
紗耶香は、トイレの便座に腰かけた。
「落ち着け、落ち着け、私」
自分に言い聞かせる。
夜の6時半頃には、夫の智也が帰ってくるはず。そしたら、きっとドアを開けてくれる。
それまで待つんだ。
幸い今日は10月8日。まだ、それほど寒くもない。
2時間半くらいトイレで過ごしたとて風邪を引くこともないだろう。
紗耶香は、智也が帰ってくるのを、ひたすら待った。
ピンポーン!
チャイムの音がした。
「ん?」
いつもなら、勝手に鍵を開けて自分で入ってくるのに、今日に限って何で?
それとも、誰か来た?
ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!
チャイムは鳴り続ける。
「あー!!」
紗耶香は大変な事に気づいた。
智也は、今日、鍵を家に忘れて会社に行ったのだった。
なんで今日に限って……!
紗耶香が出ないからか、スマホの着信音が聞こえてきた。
「あー!せめて、スマホ持ってトイレに行ってれば!」
続いて固定電話の着信音が聞こえてきた。
どっちにも出られないんだよー!
スマホと固定電話の着信音が、交互に聞こえていたが、そのうち、どちらも聞こえなくなった。
紗耶香が留守だと思って、智也はどこかに行ってしまったのだろう。
「もー!どうしよう!」
紗耶香は頭を抱えた。
午後7時。
立石智也は、家の近くのコンビニで時間をつぶしていた。
妻の紗耶香は専業主婦で、いつも自分が帰ってくる頃には家にいる。
しかし、今日は、チャイムを鳴らしても出てこなかった。
スマホや固定電話にかけても出ない。
スマホを置いたまま、何か買い忘れたものでも買いに行ったんだろうな。
そう思っていた。
午後7時半。
智也は、いい加減帰っているだろうと、紗耶香のスマホにかけてみる。しかし出ない。固定電話の方も出なかった。
おかしいな。どうしたんだろう?
鍵さえ忘れなきゃなー。朝、寝坊して、めっちゃ慌ててたからなぁ。
午後8時。
紗耶香がトイレに閉じ込められてから、4時間がたっていた。
27年間生きてきたが、こんなことは初めてだった。
紗耶香は、去年智也と結婚した。6歳年上の智也は、住宅購入のために貯金をしており、結婚するときにローンを組んで中古のマンションを買った。しかし、築30年。紗耶香としては、もう少し新しいマンションの方が良かったのだが、そういった大きな買い物は智也任せだった。
トイレのドアが開かなくなったのも、30年もたっているからに違いない!
やっぱり反対するんだった。
しかし、今更嘆いたところで事態は変わらない。
きっと智也がどうにかしてくれる。今は、そう信じるしかなかった。
午後8時。
智也はファミレスにいた。
どうせ今日は、家で晩ご飯は食べられないだろうと思ったからだ。
紗耶香のやつ、どこに行ったんだろう?友達の家?まさか、浮気とか……?
いやいやいや、それはない!絶対にない!
「チキン南蛮セットでございます」
頼んだ料理が来た。智也はとりあえず食べることにした。
午後8時。
「おい!ちょっと待てよ!」
玄関で靴を履いている小嶋真知子に向かって夫の浩は言った。
真知子は振り返り、キッと浩をにらみつけると、旅行バッグを持ち家を出た。
午後8時45分。
「喉乾いたー。今が夏じゃなくて、ほんと良かった。夏だったら熱中症で死んでたかも」
紗耶香がトイレに入ってから5時間近くがたっていた。
「そうだ、座ったままだとエコノミー症候群になるかも」
紗耶香は、立ったり座ったりして、なるべく身体を動かした。
「はー、余計喉乾くわ……」
午後9時。
智也は、再びマンションの505号室の前にいた。
チャイムを鳴らす。紗耶香は出ない。
「まだ帰っていないのか。こんな時間まで外にいるなんて、今までなかったぞ。なんか事故にでも巻き込まれたのかな……」
智也は不安な気持ちに襲われかけていた。
すると
「あら、智也さん」
背中から声をかけられた。振り返ると紗耶香の母親の小嶋真知子が立っていた。
「お義母さん!どうしたんですか?こんな時間に!?」
「ちょっと、主人とけんかして、思わず飛び出してきちゃったのよ。でも行くあてもないし、今日は紗耶香のところに泊まらせてもらおうかと思ったんだけど、紗耶香、電話に出ないのよね」
「あ、やっぱり電話に出ないんですか!俺も、ずっと電話してるのに、全然出ないんですよ。おまけに今日、俺、鍵忘れちゃって、家の中に入れなくて困ってるんです」
「あ、鍵ならあるわよ。一応ね、合い鍵、持ってるの、私」
そう言って、真知子は玄関ドアの鍵穴に鍵を差し込み、そしてドアを開けた。
午後9時3分。
紗耶香の耳に玄関ドアが開く音が聞こえた。トイレは玄関の近くにあった。
「あら、真っ暗ね」
「やっぱり帰ってないのかな?」
そして、母親とおぼしき声と智也の声が聞こえた。
「おかーさーん!ともやー!私、ここ、ここ、トイレだよー!!」
紗耶香は声を限りに叫んだ。
紗耶香の声は、2人に届いた。
「紗耶香?」
智也がトイレに駆け寄った。
「智也?良かったー。トイレのドアが開かなくて、困ってたの。開けてくれる?」
「わかった!」
智也がドアのノブをつかんで回すが、なかなか開かない。
「困ったわね。どうしましょう」真知子はおろおろしている。
「あー、なんかドアがひしゃげてるっぽいな。持ち上げればなんとかなるかな?」
智也が試行錯誤し続けると、なんとかドアは開いた。
「あー!なんとか開けられたー!良かったー!疲れたー……」
智也は肩で息をしている。
「あー!!やっと出られたー!!」
紗耶香はへとへとだった。廊下にへたり込んでいる。
「紗耶香、大丈夫?」
真知子が聞いた。
「水、水が飲みたい……。喉がカラカラ……」
「水ね、わかった」
真知子は、キッチンへ行き、グラスに水を注いで娘に渡した。
紗耶香は一気に飲み干した。そして、それだけでは足りず、2杯、3杯と立て続けに飲んだ。
「はー……。生き返った気分……」
「何時からトイレにいたの?」
智也が聞いた。
「4時くらいかな?」
「4時?ということは、5時間も閉じ込められていたってことか……」
「智也が鍵を忘れなければ、6時半に帰ってきたとき、すぐに開けてもらえたのに」
紗耶香が、若干恨みがましく言った。
「ごめん。これからは気をつけるよ」
「あとさ、やっぱり、このマンション古すぎなんじゃないの?もう少し新しいのにすれば良かったのに……」
紗耶香が、またしても恨みがましく言った。
「まぁ、ドアは修理してもらえれば大丈夫でしょ。たいしたことないって」
「そうなのかなぁ……。他にも不具合出ないといいけど……」
「とりあえず直るまでは、完全にドア閉めないで入るようにしないとね」
「確かに。それ大事」
そこまで言って、紗耶香は真知子の方を見た。
「そういえば、お母さん、どうしてここに居るの?」
「それは……」
と真知子が言いかけたが
「とりあえず、リビング行きませんか?」
と智也が言った。
「そうね。紗耶香も疲れているだろうし」
3人でリビングに向かったときだった。リビングの固定電話が鳴った。
「誰だろう?」
智也が電話に出た。
「もしもし?」
「あ、智也君か?」
「お義父さんですか?」
「そっちに、真知子はいないか?」
「あ……いらっしゃいますけど……」
「やっぱりそうか。何度スマホにかけてもつながらないし、もしかして紗耶香のところかと思ってね」
そういえば、けんかして家出てきた、とか言ってたな、と智也は思い出す。トイレ騒動で忘れていたが……。
「今から、そっちに行くから」
「え?今からですか?」
智也が聞き返したときには、電話は既に切れていた。
「お義父さん、今から、こっちに来るそうです……」
ソファに座っている真知子と紗耶香に向かって言った。
「えー?それじゃ、家出てきた意味ないじゃないの!」
真知子が言った。
「家出てきたって、何があったのよ?」
紗耶香が聞く。
「ちょっと、晩ご飯のとき、けんかしちゃってね……」
「晩ご飯のとき?あ、そういえば、智也、晩ご飯まだだよね?」
「あ、俺、もうファミレスで食べて来ちゃった」
智也が、ちょっと申し訳なさそうに言った。
「じゃあ、食べてないの、私だけか。今日は、もうカップラーメンでいいか」
そう言うと紗耶香はキッチンに行き、戸棚からカップラーメンを出し、やかんでお湯を沸かし始めた。真知子もダイニングの方に移動してきていた。
電話台の側で突っ立っていた智也は空いたソファに座った。なんとなく母子2人の方が話やすいかな、と思ったのだった。
「なんで晩ご飯のときけんかしたの?」
ダイニングテーブルでカップラーメンを食べながら、紗耶香は、自分の真向かいに座っている真知子に聞いた。
「晩ご飯にアジの開きと野菜炒め出したのよ」
「はぁ……」
なんだか、けんかの理由としては、よくわからないなと思いつつ、一応相槌を打つ。
「そしたら、魚焼きすぎで硬いって。おまえはいつも焼きすぎるんだって。だって、ちゃんと焼かないとお腹こわすでしょ?」
「まぁ、そうよね」一応紗耶香は同意する。
一方智也は内心、確かに紗耶香も焼きすぎな傾向はあるな、と思ったが黙っていた。
「それに、なんで晩ご飯に開き出すんだ、って。開きっていったら朝ご飯だろって。別に夜出したっていいじゃない?」
「まぁ、確かにね。生だと、いろいろ面倒だしね」
俺のイメージも朝だよなぁ、と智也は心の中で思う。でも、ま、別に晩ご飯に出てきても、それはそれで構わないけど、とも思う。
「毎週野菜炒めが出てくるから飽きたとか、おまけに、みそ汁が薄いだのなんだのって。お父さんの血圧が高めだから、こっちだって気を使って薄味にしてるのに。それにね……」
紗耶香は、カップラーメンを食べ終わったが、真知子は、まだ話し続けている。
「お風呂場のカビ、なんとかしろ、とか、窓が汚いとか。私だって更年期で今、かなりしんどいのよ。肩やら腰やらいろいろ痛いし。すぐ汗かくし、のぼせたみたいになるし。それでも頑張って家事やってるのに、口を開けば文句ばっかり。そんなに気になるなら、自分でやれば!って言ったら、それはお前の仕事だろって。もうね、ほんと、うんざりよ」
真知子の話は、なかなか終わりそうになかった。紗耶香は
「あ、そうだ、お茶。お茶出してなかったね」
と言って、再びお湯を沸かしにコンロの方に行ったときだった。
ピンポーン、とチャイムが鳴った。
午後10時。真知子の夫の浩が到着したのだった。紗耶香の実家は、電車で15分ほどのところなので、来ようと思えば、すぐに来ることが出来た。
「あ、お義父さん、お久しぶりです」
智也が出迎えた。
「おお、智也君、悪いね、夜遅くに。でも、明日は土曜日だから、会社、休みだろ?俺のところも休みだから、だったら、ま、いいか、と思ってね。じゃ、上がらせてもらうよ」
「は、はぁ……」
今顔を合わせても修羅場になるだけなのに……。智也がそう思っていると
「ちょっと、トイレ借りていいかな」
「あ、はい……」
智也が言うと、浩はトイレに入った。
智也は、とりあえずリビングに戻った。真知子と紗耶香は、リビングのソファに並んで座り、お茶をすすっていた。
「お義父さん、今、トイレ……」
と言いかけて
「あ、今、うちのトイレやばいじゃん!」
トイレに行こうとする智也に向かって真知子が言った。
「智也さん、行かなくていいわよ」
「そうね、別にいいんじゃない?」と紗耶香。
「え?だって、ドアが……」
やがて、ジャーとトイレの水を流す音が聞こえてくると同時に
「あれ?ドアが開かないぞ?おーい!ドア、ドアが開かないぞ!」
という浩の声が聞こえてきた。
「いいんですか?」
おろおろしながら智也が聞く。
「いいの、いいの。少しは思い知らせてやらないと」と真知子。
「ま、そうね」と紗耶香。
「おーい!このトイレ、ドア、壊れてるぞ!おーい!!聞こえないのか!?」
優雅に茶をすする母と娘を見て、数十年後は、自分もこんな目に合うのだろうか、と智也はぞっとした。まぁ、そうならないように、紗耶香の機嫌を損ねないようにしないと……。とりあえずはトイレのドアの修理依頼か……。早く直るといいけどな。
智也が考え事をしている間も、浩は、わーわーわめいている。
もう夜の10時を過ぎている。下の階の人から、うるさいって苦情来ないかな、と別の心配もする智也なのであった。