魔王様、廊下は走ってはいけません!
「なぜだ、緊急事態なのだぞ!」
魔王様は玉座から立ち上がるとマントを翻し廊下を疾風の如く駆け出した。
漆黒の磨かれた大理石の床にマントの裏地が鮮やかな紅を映しだす。
普段は冷静沈着な魔王様がおっしゃる緊急事態とは……いやな予感に冷たい汗が流れる。
「緊急事態とはいったい何事ですか――」
魔王様は美しくしなやかな金髪の前髪を流れるような仕草で整えながら答えた。
「勇者が来たのだ――。この魔王城に勇者一行が攻めてきたのだ――」
――!
「これほどの緊急事態、千年に一度、いや、一光年に一度、いやいや、千年に一度あるかないかの緊急事態なのだぞ――!」
それだけを告げると、またしても全力疾走で硬い大理石の廊下を走る。磨かれた木靴の甲高い靴音がカッカッと城内に響き渡り、音までもが磨かれているかのように美しい。
「しかし魔王様、『魔王城内の廊下は走ってはいけません』と決められたのは魔王様ご自身であったはず。それを魔王様が破るのはいかがなものでしょうか……」
小学校の廊下を校長先生が全力疾走するようなものですぞ――!
「黙らっしゃい!」
「……」
……らっしゃい?
「はっ、はっ、はっ、よいかデュラハンよ。世の中は目まぐるしい進化を遂げている。今この一瞬の間にも止まることなく進化し続けているのだ」
「御意」
「はあ、はあ、はあ、その進化に臨機応変に対応できねばならぬ。『廊下は走ってはいけません』という取り決めは、普段の平穏な魔王城での取り決めなのだ。緊急事態にもそれを守ってモタモタ歩いているようでは『四天王』の名が聞いて呆れるぞ」
「……しかし以前、廊下を走って出会い頭にぶつかりお怪我をなされたのは魔王様お一人様だけです」
しかも柱と正面衝突……。出会い頭の定義に当てはまるのかどうか。
「柱は走らない……」
「――!」
忘れもしない。玉座の間から出て直ぐの角を曲がったところで柱にぶつかって魔王様がまさかの流血事故。あの時も些細なことで走り出した魔王様の自業自得だったはずだ。
紫色の鼻からポタポタと流れ落ちる真っ赤な鼻血……。ポケットティッシュを持っていたからよかったのだが……詰め込むティッシュが大き過ぎて大騒ぎになってしまった。そもそも私の両手は常に銀色のガントレットを装着した状態。小さくティッシュを千切って丸め、魔王様のお鼻に差し込むのは至難の業――。思い出すだけで泣きそうになる。
「なにが可笑しいのだデュラハンよ」
「いえ、なにも可笑しくはございません」
「ではなぜニヤニヤしておる。さては思い出し笑いか?」
「めめめ滅相もございません!」
さすがは魔王様だ。私は首から上がないモンスターなのに、ニヤニヤしているのがバレてしまった。
「はあ、はあ、はあ、城内がいくら広いとはいえ、最近、運動不足だなあ。はあ、はあ」
「さようでございますね」
廊下を走っているのは魔王様だけ……。普段は瞬間移動ばかり乱用しているため足はかなり遅い。……短いとは口が裂けても言えない。
「そもそも、予は走ってはおらぬ。早歩きをしておるのじゃ」
「……御意」
その言い訳が通用するのは――小学生までですぞ!
「あれを見よ。勇者一行パーティーだ!」
魔王城四階の窓から魔王門の辺りを見ると、小さくだが人影が見えた。魔物と違うので一目瞭然だ。
「勇者、戦士、魔法使い、僧侶、弓矢使い、ごくごく普通のパーティーのようです。よくここまで辿り着けたものだ。その運の良さに感心してしまう」
もしくは運が悪いのか……。
「我が魔王軍は働き方改革で夜勤を無くしたのと、残業時間管理を徹底した賜物だな。十七時以降は歩き放題だ」
……それでいいのか本当に。
「おのれ勇者一行パーティーめ」
「早く入って来ないかなあ~」
……。
「ひょっとしてですが魔王様。喜んでいらっしゃいませぬか?」
勇者の到来を楽しみにしているなど不謹慎極まりない。あってはならない。
「バ、バカ野郎!」
……バカ野郎? この私が? 顔に飛び散った魔王様の唾をハンカチで拭いた。顔はないのだが。
「こうしてはおれん。デュラハンよ、奇襲をかけるぞ」
「え! 魔王様が勇者を奇襲するのですか?」
卑劣な手段だ……。瞬間移動を唱えようとする魔王様の口元を押さえた――。
「フゴフゴ、なにをするデュラハンよ。ちょっと無礼だぞよ」
「ダメですよ魔王様! 魔王が勇者を奇襲するだなんて話、聞いた事がありません。あんまりです」
この魔王城の存在意義がなくなります。一階から四階までを苦労して進んでこその魔王城なのです。
宝箱に仕掛けた呪われた防具や武器や飛び出すスプリング。扉の鍵穴に詰め込まれた噛み古したガム。赤錆の水が出るトイレの蛇口。和式トイレのウォシュレット……。全ての罠は勇者対策であり、その意味がなくなります――。
「じゃあ、『スライムが仲間を呼んだ』作戦はどうだ」
「……『スライムが仲間を呼んだ――魔王が現れた!』ってやつですか?」
桁違いのモンスター呼び過ぎだ。っていうか、スライムごときに呼ばれておちおち魔王様が出て行くなと忠告したい。
「違う。『スライムが仲間を呼んだ――スライムが現れた』だ」
「……? おっしゃる意味が分かりませんが」
ニヤリと魔王様は不敵の笑みを浮かべる。
「さらに『スライムが仲間を呼んだ――スライムが現れた』さらに『スライムが仲間を呼んだ――スライムが現れた』さらに『スライムが仲間を呼んだ――スライムが現れた』さらに『スライムが仲間を呼んだ――そして魔王が現れた!』じゃ!」
――なにが違うんだ!
「違うではないか! スライム五匹に囲まれて魔王が登場するのだぞよ!」
「スライムなど一匹でも二匹でも関係ございませぬ」
「一匹二匹ではない! 五匹だ!」
右手をパーにしている魔王様がいささか歯痒い。なんか腹立つ。
「五匹いようが百匹いようが一緒でございます。『全体攻撃』で一ターンで倒されてしまいます! スライムAは倒された、スライムBは倒された……中略……スライムZは倒された、スライムAAは倒された、スライムABは倒された……中略……スライムCVは倒された……きっと読んでいてイライラします!」
もはやスライムAは倒されたの次から、スライムBも倒されたになるだろう。
「じゃあ、どうすればいいのだ! 誰が予を呼んでくれるというのかっ!」
「呼んでもらうことに固執する必要はありません。勇者一行の目的は魔王様の討伐でございます。真の目的はなににせよ、必ずや魔王様の玉座の間まで来るはずです。堂々と座ってお待ちください」
「そうか、やはり予は待つしかないのか……。――はう!」
魔王様が急になにかに気付かれた。
「――こうしてはおれん」
魔王様の青色の横顔を一筋の冷や汗が流れ落ちるポタリ。
「どうされたのですか?」
「このままでは四天王に勇者パーティーが全滅させられる」
「……その可能性は……」
大ありです。あの勇者パーティーであれば……四天王最初の一人、『巨漢のサイクロプトロール』に全滅させられるのは目に見えている。ほぼほぼほぼ確定だろう。
「急いで一階へ参るぞ!」
「は? ……はい」
魔王様は階段を下りるのも……じれったいくらいに遅い。ローブを踏んで転ばないように、片足ずつ一段ずつ下りるからだ。
幼稚園児並みに遅い――。
「魔王様、先に行って話をしてきます」
見ているとなんだかイライラしてしまいそうだから。
「なんだと、待て! 待って! 予を見捨てるというのか!」
「一刻の猶予もない緊急事態なのです。魔王様は転ばないようにゆっくり下りてきてください」
階段を一段とばしで下り始めると、後ろから魔王様の声が聞こえた。
「デュラハンの薄情者~! 顔なし~! 魔王城の階段は、今日から一段飛ばし禁止とする~!」
……お許しください。それと、「顔なし」とは呼ばないで下さい。